marine clutch route B
実際には、だ。
椎滝大和に『シズク・ペンドルゴン』が宿っていた時間は5秒もなかっただろう。せいぜいそれ以下の仮初の腕力。彼の拳は三頭六腕の姿へと変貌を遂げた『竜』の頭を砕くには至らず、むしろそういう無理強いのせいか、頭の中を埋めつくす真っ赤なエラー表記に苦しまされているようだった。
だが、しかし。
ほんの数秒、一度息を吸って吐く程度の僅かな時間の中でも、彼は迷わなかった。ただでさえ激痛迸る両手をしっかり固く握りしめ、足腰に力を貯め、自身目掛けて飛びついてきた『竜』の首根っこを掴み取る。それどころか、通路の突き当りの壁へと莫大なスピードを保持させた状態で放り投げたのだ。
さながら、相手の勢いをそのまま攻撃に転嫁させるある種の武道にも精通する動作。
更に追い打ちとばかりに飛び蹴りが壁へめり込む『竜』の腹部へと突き刺さる。シズク・ペンドルゴンでもキマイラでもない。他でもない『椎滝大和』の一撃。その衝撃が『竜』の突撃と相まって、『竜』の突き刺さった壁全体の大きな亀裂を加速させた。
要は、床に敷いたガラス板へ突き立てた釘に、上から衝撃を加えるとどうなるのか。
ドッッゴオオォォォォォォォォォオオオオッッツ!!と。
そのまま、音を立てて崩れたのだ。通路の突き当りの壁、つまりはプールの壁の反対側がだ。当然、勢いのままに部屋へと飛び込んだ椎滝大和は綺麗な着地など実行できるほど万能人ではなかったので、残業帰りのおっさんが食事も風呂も忘れてベッドへ身を投げるような、そんなどこまでいっても雑な格好で固いプールのタイルに腹から着地することになった。
そして三頭六腕の『竜』はというと、大和と同じように衝撃を以て壁を突き抜けたものの空中でひらりと一回転することで衝撃の向きを反らしていたらしい。ガガッ!!と液体がタイルを削る音にしては物々しい音だ。まるで鑢を金属のインゴットにでも擦り付けたような。
やや離れた地点では、自らの足元を埋める水の抵抗もお構いなしに駆け出す少女の声がある。だから椎滝大和は一度だけ振り替えって、もう一度だけ叫んだのだ。血のにじむ人差し指を天井へ向けて。
「キマイラッ!!上だッッ!!」
ドッッパァァァァンッッ!!と。大和が叫んで次の瞬間には、彼の体は暗闇の宙を何回転もしながら別の壁へと叩きつけられる。一体今の攻撃で何本使ったのかは知らないが、まるで、そう。
地球由来。
インドや仏教なんかでその姿をよく見かける神様。六つの腕に三つの頭で、常に怒りをあらわにするかのような表情の神様の格好の拳が。無防備だった椎滝大和の体を撃ち抜いて、その膂力だけで彼を空中遥か先へ吹き飛ばしたのだ。
むしろ、『竜』の選択した攻撃が『水圧のブレス』でなかったことを喜ぶべきか。これが触れたものなら鉄だろうがダイヤだろうが問答無用で切り飛ばす水圧兵器の模倣品であったなら、まず間違いなく真っ二つに裂けていたはずだ。もしくはそうならないように、出来るだけ苦しめたうえで殺そうとしているのが『竜』だったからか。
内側から金槌で強くぶたれ続けているような。
どうしようもない激痛は逆に意識を奪わせない。
青年のか弱き、当たり前のように脆い肉体をとことん苦しめたうえで、最終的には奪い去っていく。
「ぬぐっうあああ!!?」
「ヤマトさん!!」
「俺は、いい。速く!天井をぶっ壊せェェェェェェェェェェェェェエエエエッッ!!」
けたたましく。荒野の猛獣の如く雄たけびを上げて。
目付きの悪い黒髪、それくらいしか。他人と自分を隔てる壁が存在しない。至って普通の青年は拳を突き出した。
赤く、ひたすらに赤く。
飛び込んできた『竜』の顔面目掛けて、カウンターでも仕掛けるように、だ。
ゴッッガアアァァァァッッッ!!と。
同時だった。
青年の赤が半透明を撃ち抜いた瞬間と、訳も分からず瓦礫を蹴り上げた少女が空を見上げた瞬間は。一秒の狂いすらない。人対人であったなら、それは一人の青年が相手の顎を撃ち抜く動作に該当していた。ただし突進する牛にも迫る勢いを殺しきれず、自らの殴りつけた腕の方にも尋常ならざる激痛を伴って。
また、蹴り上げられた瓦礫の一つが天井を裂いて、そこから今度は本物の滝が現れた。最初はぴちゃ、ぴちゃ、と。固く捻った蛇口の残り水が下たる程度だったのに対して、だ。少しも待つだけで、亀裂は自らの重みで勝手に広がってしまう。
何が何だかわからないという様子だったのは、それを起こしたキマイラだけに留まらない。
「きっかけは、あの時だった」
パラパラと降り注ぐ小粒の瓦礫の向こう側。
突きつけるように、青年が告げる。
「偶然だよ。偶然、お前が避けたんだ。そのまま受け止めてりゃいいものを、わざわざ身をよじってさ。どうしてかなって必死に考えていきついたのがこれだ」
思えばヒントはあちこちに転がっていた。
例えば、あの時。
意識を失いかけた椎滝大和の向こう側で、確かに『竜』は崩れ落ちていたのだ。キマイラの蹴りを受けて、受け流すのでもなく。
その場に崩れたのだ。
「お前は、無敵なんかじゃなかった」
吐き捨てるように、告げる。
ぐわんぐわんと揺れ続ける脳をフル回転させて、自分の行き着いた答えを絞る様に口に出す。
それ自体は、その発見自体は確かに偶然だったのだろう。自分にもできることはないものかと、必死に探し続けた無力な青年へのプレゼント。神様の贈り物としては、最上級の品物。
自分から衝突しといて、勝手に吹っ飛んでいたヒトに対しての言葉。これ以上の殴り合いは必要なかった。ヤツは天井の液晶全体に広がりつつある亀裂を覗いて、固まっているだけだったのだ。
「殴られればダメージも蓄積する。それだけでしかなかったんだ。お前は、『竜』なんてまやかしを纏ってるだけのヒトでしかなかった!液体を操る咎人?どんな攻撃でも流れる小川のように受け流してしまう無敵生命体?いいや、あんたが操ってるのは水だけだ。そう、ただの水。純粋なH2O、ただそれだけだったんだ!!」
ぱきりと何かが割れる音が渦巻いた。
天井、昼には現在進行形でその時その時の空の様子を投影するドーム型の液晶画面。その中央から、ガラスともプラスチックとも言えない。ましてやアクリルとも金属とも異なる性質の物体。そのどこかにおいて、致命的な広がりを見せつつある亀裂の一部。
そして定義の再確認でも行うように。
「お前は、無敵じゃ、ない」
吸い込まれるように、その言葉を聞き逃さないように。
念入りに。
「血が混ざったら、それはもう純水じゃない。H2O単品とは言えない不純物でしかないんだ。だから触ることが出来た。実体なんてないはずの液体を、ただの人体として扱うことが出来た。もう一度言うぞ。混ざったら、それは不純物。お前はもう『竜』ですらない!!!」
そして。
そして、そして。
離れた位置で彼の言葉を聞いていたキマイラは、何を考えていたのだろう。
そう言えば、どうして最初に『竜』は、自身の武器である水が豊富なこのプールから青年を突き放そうとした?どうして彼はその真実を知ってこの場所を目指した?どうして自分にドーム型の天井の一部を破壊させた?ましてや、その奥に詰まっているものはなんだった??
相変わらず小さな広がりを見せる天井がなにか。とてつもない一線を越えたらしい。どばっっっっっ!という壮絶な音とともに、ほとんど瀑布同然の大濁流が天井から降り注いだ。それ自体は、どこにでもあるような。
誰でも嗅いだことはあるはずだ。あの特有の香りは、鼻にこびりつく。その正体を知ったキマイラよりも、遅れてドームの中へと侵入を遂げた栗色癖毛の少女のほうが呟いていた。
「塩素消毒水...」
公共のプールなんかではお馴染みの液体の名だ。
感染症や細菌の増殖を抑制するために、真水に変わって使用されるそれ。誰でも、利用したことのある者たちならば、一度は思いっきり口の中に含んでしまい、以降の喉のいがいがに四苦八苦することは定番な。
そんな液体を、あろうことか『竜』は頭から被ってしまっていたのだ。純水しか受け付けない、ただ己の肉体を液体レベルまで分解し、それでも一つの生命体として生存することが可能――――ただ、それだけの『竜』
僅かな血液が混ざるだけでも『実体』として捉えられてしまうのならば、これだけある塩素消毒水を頭から被ってしまうとどうなるのだろうか。
つまり、猛毒だ。
純水...真なるH2Oに潜み、幻想の姿を得てまで復讐を成そうとする『竜』
逆に言えば、純水にしか潜むことが出来ない不完全生命体。水以外の何かを混ぜ込まれるだけで実態を獲得し、弱点どころか人間としての機能まで押し付けられてしまう程度のそれでしかない何か。
抗えばとうにかなるレベルですらない。混ざれば実態を得るどころか、形が崩れただけでも『生命』としての実態を失いかねないほどの脆弱が。今回の事件の全てを握る、原因不明の実態を持つ災害が。猛毒の滝に打たれながらも声にならない叫びを発している。
それが、勝利者であるはずの大和ですら信じられない。
あれだけ苦戦させられて、肉をえぐられ両手の皮まで剥がれたのだ。あの半透明の悪魔が、苦しみ悶えている事実ですら夢の中なのではと疑ってしまう。
それでも。
確かに掴み取った現実だけは、離してはいけない。
そこまで思っていたから、決して目を反らさない。例え見つめる先が灼熱の太陽だったとしても、これだけは揺るいではならないと。それだけは、確かだ。
「あんたがどこの誰かなんて知らない。どうして俺にそこまでの悪意を向けるのかも、だ」
直後に、猛毒の滝の中から飛来した一筋の半透明体の向きを整えることで回避した大和の右手が傾いた。この場の誰よりも、この瞬間に限るなら、椎滝大和こそが『怪物』として君臨していたのだ。
半透明に三頭六腕。
ルビーのように狂気的な赤の双眸が、悶え抗いながらも滝の中からこちらの一点を覗いていた。
アレはきっと、殺しても死なない。どれだけ真っ赤な手を握りしめて、脳を揺さぶる勢いで顎に叩き込んだところで、根本的に動かないだろう。だから、今この瞬間。
きっと、こんな拳を握りしめる理由だってなかったはずだ。
「だけど」
傍で聞いているだけの怪物少女二人からすれば、青年の姿はどんなふうに映っただろう。もしくは、それ以上に異常な光景のほうに目を奪われていたのか。
『竜』
半透明に包まれた異形の生命体の輪郭が、はらりと崩れる。それこそベールを脱ぎ捨てるかのような劇的な変化ではなかった。あくまでモデルは人型。既に足元へ薄く広がりつつあった塩素消毒水の源泉。その真下に立つ、薄青髪が特徴的な、少年の姿へと。
その場の誰もがよく知る人物像を、椎滝大和は認めない。仲間の皮を被るだけの愚者なんて、容赦なく突き放す。それに、確信していたのだ。
この戦いは、もう一度アレを殴らないと終わらない、と。
「がっ、ぎが、ががっがががががががががが!?」
「お前はホードじゃない。皮をかぶってるだけの別人でしかない!!」
脚の筋肉を引き締める。
握った力を逃さない。目の前で機械じみた青を纏うそれに気を配る必要がどこにある。故障中のエラーを繰り返すような偽物を想う必要がどこにある。仲間を装い、恐怖を突きつけ、あまつさえ真実をうやむやの闇に放り捨てて終わらせようとする怪物相手に躊躇う必要なんてどこにある。
敵が『竜』だろうが格上の咎人だろうか知ったことか。奴は、奴は仲間の皮をかぶり、不安を煽らせ、余りにも多くのモノを傷つけた。それで十分だ。
もう一度拳を握る理由なんて、それで。
「ぐぎ、ぎがががああああ...」
「終わりにしようぜ」
「お前、さ、え。おまえさえいなければああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
半青と赤の激突。その直後だった。
交差する拳の果てに、一つの影が地に伏したのだ。




