悪役と氷解
私が意識を取り戻してから、一ヶ月が経過した。
傷口はすっかり塞がり、時折感じる痛みも徐々に和らいできた。
ただ、腹部に残った傷跡を完全に消すことはできないらしい。
そのことを医師に告げられた時、私と共に説明を聞いていたジェラルド様は、わかりやすく動揺していた。
当然だ。婚約者の肌についた痛々しい傷跡が、一生治らないものだと知らされたのだから。
この世界では“美しい肌” を“美の象徴”と捉える傾向にある。そのため、貴族女性は幼い頃から念入りに手入れをして、きめ細やかな肌を保っている。
今の私のように、グロテスクな傷跡が残る肌など、論外なのだ。
はじめ私は、傷跡が残ることをそれほど悲観していなかった。死ぬ覚悟で刺されたのだから、傷が残ることくらいどうってことないと考えていた。
けれどもさすがに、ジェラルド様の反応を目の当たりにして、少しへこんだ。
ジェラルド様が「ならば婚約は解消する」なんてことを言う人間でないことはわかっているけれど、私の傷跡にマイナスの感情を抱いているのを見るのは辛かった。
「ジェラルド様、申し訳ありません」
なるべく淡々とした口調を心掛けたものの、涙声になってしまったことに狼狽えた私は、ジェラルド様の反応も見ずに言葉を続ける。
「醜い傷跡が残ってしまい、不快に思わせてしまって」
そう言って意識的に口角を上げると、ジェラルド様は眉間に皺を寄せた。
「なぜ謝る。エリスの身体はエリスのものだ。私が気にしたのは、エリスが自分の身体の傷に心を痛めないかということだけだ」
ジェラルド様はそう言うと、布団の上から私の傷口にそっと触れ、気遣わしげに「痛みは?」と尋ねた。
「いいえ、痛みはありません」
私がそう答えると、ジェラルド様は「ならば何も問題はない」と言って微笑んだ。
「もうあんな思いをするのはごめんだが、エリスが身を挺して守ってくれた証を、不快だと、醜いなどと思う訳なかろう」
ジェラルド様のその言葉を聞いて、私はちょっぴり泣いてしまった。
ジェラルド様の所有物としてではなく、一人の意思ある人として扱われたことが、とてもとても嬉しかった。
◇◇◇
「大事な話がしたい。できれば、二人きりで」
ジェラルド様からそう告げられたのは、王居内に限られていた私の行動範囲が、王宮内へと拡大された翌日のことだった。
ジェラルド様から発せられるただならぬ雰囲気に緊張しつつ、「私はいつでも構いません」と答えると、さっそくその場で部屋の手配がなされた。
「傷自体は治ったとはいえ、まだ本調子ではないのにすまない」
そう言いながらも話し合いの場を設けるということは、よっぽど緊急の話なのだろう。
「いえ、気になさらないでください。長いこと、二人きりで話せておりませんでしたものね」
少し緊張してしまいます、と言って微笑むと、ジェラルド様は呆気にとられた顔をした後、何かに堪えるように両手をきつく結んだ。
二人きりの客間で、向かい合って座る。
快適な温度に保たれているはずの室内が、なぜだか少し肌寒く感じるのは、いつもはすぐ近くにあるジェラルド様の体温が、テーブルを隔てた向こう側にあるからだろう。
ジェラルド様は私が腰を下ろすのを見届けると、目の前に置かれたティーカップに触れることもなく口を開く。
「エリスの体調のこともあるから、さっそく本題に入らせもらう。なぜ、あの時マイの名を出したんだ?」
ジェラルド様の言葉に、自身の血の気が引くのを感じる。
“あの時”とは、伯父に刺されたあの時のことだろう。
目を閉じる間際に言い残した、「マイを婚約者に」というあの言葉を指して言っているのだろう。
「…その節は大変申し訳ありませんでした。随分と身勝手なことを言いました。言い訳にしかなりませんが、錯乱していたのです」
当時は必死だったけれど、冷静に考えるとあの言葉は酷かった。「最後のお願い」だなんて、呪い以外の何ものでもない。
さらには、そのことをこちらから謝る前に、ジェラルド様から切り出されてしまったのだ。全くどうしようもない。
「いや、責めてる訳ではない。ただ、どうしてだったんだ。彼女と私にそれほど接点があるとは思えないのだが」
その言葉の通り、ジェラルド様はただただ困惑しているようだった。
実際、二人はとりわけ仲が良いという訳ではない。従って、あの日あの場で平民であるマイを、ジェラルド様の婚約者に推したのは、かなり不自然なことだった。
ジェラルド様の様子からするに、適当に誤魔化すことはできなさそうだ。なによりも、適当に誤魔化すのは彼に対してあまりにも不誠実だ。
そう考えた私は、心の中で覚悟を決める。
「…ジェラルド様が、自室でアンドリュー殿下に話している内容を聞いてしまいました」
心臓の鼓動がうるさくて、自分が発したその言葉すら、はっきりと聞き取ることができなかった。
ジェラルド様の反応を見るのが、ただただ怖かった。
しかし、肝心の“内容”を濁してしまったからだろうか。ジェラルド様は、いまいち釈然としない表情を浮かべている。
「なるほど。だが、それとマイを名指しで指名したことと、なんの関係があるのだ?」
そう言うジェラルド様からは、「わかるように説明せよ」という圧力を感じる。
ジェラルド様のあの言葉を、マイへの恋心を、全て受け入れて結婚すると決めた。
しかしだからと言って、彼のマイへの想いが全く気にならないということでもない。
ここであの言葉を復唱するとなると泣いてしまうかもしれないな、と思いながらも、説明する以外に道はなかった。
「…優しくて聡明な“彼女”に、恋心を抱いているとおっしゃっていましたから。放っておけない性格で可愛らしい仕草が、庇護欲を掻き立てる、とも」
私が感情の籠らない声でそう言うと、ジェラルド様が目を大きく見開いたのがわかった。
「なぜそんなに明確に覚えているのだ」
口元を右手で覆いながらそう言うジェラルド様の頬が、ほんのりと赤らんでいるように見えて、私は目を合わすことができなかった。
「頭の中で反芻しましたから。そこに、私である可能性を見出そうと、何度も何度も。…私である可能性など、見つかりませんでしたけれど」
「私の想い人がエリスである可能性が、なかったのか?」
ジェラルド様からの問いに「はい」と答えると、ジェラルド様は悲しいような腹立たしいような、なんともいえない微妙な顔をした。
「それで、エリスは私の言う“彼女”が、マイのことだと思ったのか」
「ええ。そんなに多くを兼ね備えた女性を、彼女以外に思いつきませんでした」
優しくて賢くて放っておけなくて可愛くて庇護欲を掻き立てる、その全てを併せ持つ存在なんて、そうそういるものではない。それこそ、乙女ゲームの主人公くらいだ。
私の目から、堪えきれずに涙が落ちた。
一粒落ちるともう駄目で、涙は次から次へと溢れ出る。
「…すみません、泣くつもりはなかったのです。ジェラルド様のその想いも含めて、受け入れるつもりでおりますから」
本当は、私だけを見てほしい。伴侶に対する愛情だけでなく、異性に対する恋心も、私だけに向けてほしい。
けれども、そんなことを言ってジェラルド様を困らせるつもりはない。
私がそう言えば、ジェラルド様はその願いを叶えようと努力してくれるだろう。しかし、努力で心は変えられない。無理矢理に捻じ曲げられた恋心は、それはもう“洗脳”なのだから。
それに、生まれた頃から王族として不自由を強いられてきたジェラルド様に、せめて心だけでも自由でいてほしいという思いもあった。
未来の王太子妃としてのプライドをかき集めて、なんとか笑顔を作ってみせる。とても優雅に、美しく微笑めたと思う。
けれどもジェラルド様は俯いて、額に手を当てて息を長く吐き出した。
部屋に淀んだ沈黙が流れたのは、実際にはほんの数秒のことだったのだろう。
けれども、私にとっては果てしなく長い時間に感じられた。
「なるほど」
ジェラルド様が発したその言葉は、その短さからは考えられないくらいの重さを持っていた。
先程までの空気の淀みとその言葉の重みが相まって、掌がじっとりと汗ばむ。
目の前に座るジェラルド様は、私を見て笑っている。笑っているのに、底知れぬ怒りが感じられた。そして、後悔しているようにも見えた。
「確かに、マイは優秀だ」
ジェラルド様が人差し指で机を叩くコツコツという音が、部屋に響く。
「だが、優しいかどうかは知らん。マイの性格がわかる程に、親密にしている訳ではない」
そう言うとジェラルド様は、自身の膝を指し示し「来い」と言った。
その言葉と行動から、彼が膝に座るよう言っていることはわかった。
けれども、二人きりだとはいえ、あまりの距離の近さに躊躇する。
いや、二人きりの部屋だからこそ、超えてはいけない一線だと思った。
「いえ、ですがさすがに…」
「なんの問題がある?」
「その、はしたないですから」
口籠りながらものらりくらりと拒絶していると、遂にはジェラルド様が立ち上がり、私の隣へ腰掛けた。
一人で座るには広いものの、二人で座ることを想定されていないソファーの上で、逃げ場を無くした私の下にジェラルド様の膝が入り込む。
そしてそのまま腰に手が回されたかと思うと、あっという間にジェラルド様の膝の上に抱え込まれる形になった。
「私はマイを尊敬はしてはいる。平民でありながら、学園内でのあの成績は大したものだ」
後ろから抱きしめられるような体勢で、ジェラルド様が話を続ける。
「だが、異性として特別な感情を持ったことは一度もない」
そう言いながらジェラルド様は、自分の指を私の指に絡ませる。
「エリスは、私が好きでもない相手に、こんなことをするような人間だと思っているのか?」
耳元で囁かれるのが恥ずかしくて、私は返事をすることもできない。なんとか首を振って否定の意を表すと、ジェラルド様の息が首にかかった。
そのまま顔をジェラルド様の方に向けられる。ジェラルド様との距離があまりに近くて、羞恥に耐える自分の顔が、彼の瞳に映っているのが見えるくらいだ。
そんなことを思っていると、突然ジェラルド様の香りに包まれる。
どこまでも優しいその抱擁は、全身で私への想いを伝えようとしているように感じられた。
「言葉にせずとも伝わるだろう、というのは、あまりにも傲慢な考えだったな。私が“放っておけない”と、“可愛い”と思ったことのある人間は、エリスだけだ」
ジェラルド様はそう言うと、私を抱き締める腕に力を籠めた。
「『可能性がない』などと、勝手に決めつけるな。勝手に、いなくなろうとするな」
その声は、身体は、僅かに震えていた。私の考えなしの言動で深く傷付いた彼の心に、直接触れているような気がした。
ジェラルド様がこれ程までに感情を露わにするようなことを、私はしてしまったのだ。
そのことを肌で感じた途端、私は目の前の愛しい人に手を伸ばしていた。
「ごめんなさい」
あなたの心を疑ってしまって。あなたの前からいなくなろうとしてしまって。
そんな私の想いが伝わるように、力を込めてジェラルド様を抱きしめ返すと、腕の中で彼が鼻を啜る音が聞こえた。




