悪役と覚醒
「怒鳴ったりしてごめんなさい。完全なる八つ当たりだったの」
ようやく落ち着きを取り戻して頭を下げるハンナ嬢に、マイは慌てたように両手を前に突き出す。
「いいえ、そんな! 私も、周囲の方々を不快にさせるような振る舞いをしていたみたいで。本当に、申し訳ありません」
「勉強だけできても、これではだめですよね」と言うマイは、自身の言動を指摘されたことに落ち込んでいるようだった。
確かに、貴族の子ばかりが集まるこの学園で、マイが目立っているのは事実だ。だからこそハンナ嬢も、マイを八つ当たりの相手に選んだのだろう。
しかし、今の時点でそれを気に病む必要はまるでない。
「マイが貴族のルールを知らないのは仕方がないでしょう? 私だって、逆に“庶民のルール”を知らないもの。ハンナ嬢だってそうでしょう?」
もしもこの世界で平民の中に放り込まれたら、私は上手くやっていく自信がない。前世で平民として過ごしていたにも関わらず、だ。
おそらく、ハンナ嬢もそうなのだろう。私の言葉を聞いて、ハンナ嬢が首を縦に振る。
「あなたがこの学園で学ぶのは、“貴族のルール”も含むのよ。今の時点で、上手くできていないことを恥じる必要はないわ」
私がそう言うと、マイは目を大きく見開いた。
おそらくマイも、私に関するあの噂を耳にしているだろう。ひょっとすると、それによって人知れず心を痛めていたかもしれない。
私が“ゲームのヒロインとしてのマイ”から逃げ回っていたせいで、目の前にいる彼女を傷つけてしまっていた可能性があるのだ。
そう思うと、今までの自分の行動が恥ずかしくなる。
「マイ、今更だけどごめんなさい。私がずっとあなたを避けていたせいで、不快な思いをさせたでしょう?」
私がそう言って頭を下げると、マイだけでなくハンナ嬢までもが肩がびくりと震わせた。
「私が噂を否定しなかったことも。あなたには辛い思いをさせてしまっていたわね」
その言葉を聞いたマイは、開きかけた口をぎゅっと閉じ、左右に首を大きく振った。
「改めて伝えておくけれど、私はあなた達特待生と共に学ぶことを、嫌だと思ったことなど一度もないわ」
そこで「え」と小さく声を挙げたのはハンナ嬢だった。
彼女はすぐに自身の口を手で押さえていたけれど、どうやら思わずそう声が漏れてしまうくらいには、あの噂が本当のことだと信じていたようだ。
ハンナ嬢がそうだということは、おそらく他の生徒もそうなのだろう。これも、私が噂をここまで放置していたからだ。
謝ろうとするハンナ嬢を制し、私は言葉を続ける。
「むしろ、特待生がいることは我々にとっても幸運なことだと、私はそう思っているの。私達はあなたから、“平民”の感覚を学ぶことができるんだもの」
私がそう言うと、マイは不思議そうな表情を浮かべた。
「私達が普段関わるのは、身分が近い貴族が多いわ。けれども、国全体で考えると平民の方が圧倒的に数が多いでしょう? 国の大多数を占める彼らを無視して、物事を進めることはできないのよ」
特待生制度によって入学した生徒が、学園内で肩身の狭い思いはしてほしくない。彼らの存在が貴族にとってもプラスになるのだということを、きちんと知っておいてもらいたい。
そう思ってマイに視線を向けると、彼女は赤い顔を俯けた。
「私の考えが絶対的に正しいとは、もちろん思っていないわ。特待生制度に反対する人間がいることも知っている。けれども、どちらかが一方的に施しを受けるのではなく、各々が知りえなかった知識を、この学園で補い合えれば素敵だと思わない?」
私はそう言って二人に笑いかける。
しかし二人は返事をしなかった。それどころか、二人揃って黙り込んだまま、微動だにしなかった。
これは失敗したかもしれない。
言葉は選んだつもりだったけれども、自分の意見を押し付けるような言い方になってしまっていたかもしれない。
自分の発言を思い返しながら、なんとか和やかな雰囲気に持って行くことができないかと頭をフル回転させている時だった。
後方から「あれ」と言う声が聞こえたのとほぼ同時に、マイの瞳から涙が零れ落ちた。
「スピアーズ公爵令嬢と特待生だ」
「特待生、泣いてる…?」
先程聞こえた声の主であろう人物達が、ひそひそとそんな会話を交わしているのが、私の耳にも届いた。
…最悪のタイミングだ。
何も知らない人間からすれば、この状況は“公爵令嬢が特待生を虐めている”ように見えるだろう。
なんと言っても、私は「平民に良い感情を持っていない」と噂されている人物なのだから。
どうしよう。どうしよう。
モヤがかかったように頭は思考することを放棄している一方で、心臓だけが激しく脈打っている。
「なんとかして濡れ衣を晴らさなければ」という思いと、「“悪役”なのだからどうしようもない」という思いが、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
そうこうしている間に人だかりができ、様々な言葉が私達に投げかけられる。
「やっぱり、あの噂は本当だったんだ」
「そもそも、学園に平民を入学させるのが良くなかったんだ」
「だからって、泣かせることはないだろうに」
私は公爵令嬢であり、王太子の婚約者だ。
相当高い身分である私の機嫌を損ねるのは得策ではないと思われていたのだろう。これまでは噂に対しても、直接私に何かを言いにくる人はいなかった。
けれども、今。
実際に私がマイを泣かせている現場を目にした生徒達によって、あの噂は本当だったのだという空気が作られる。
そしてその空気は次々と周囲に伝染し、大きな塊となってしまっている。
いくら私の身分が高かろうと、こうなるともう止められない。
…やっぱり、運命には逆らえないのだ。
身勝手な憶測はどんどんと広まり、やがて“事実”として周知されることになるだろう。濡れ衣を晴らすことなんて、どうせできっこないのだ。
そう、前世と同じように。
やはり私は“悪役”として生きていくしかないのだと、誤解を解くのを諦めかけた時だった。
人だかりの向こうから、ジェラルド様がラルフと共に慌てた様子でこちらに走って来るのが目に入った。
普段は穏やかな表情を崩すことがないジェラルド様。
学園内では圧倒的なオーラを放ちながらも、一歩引いたような態度で周囲に接するジェラルド様。
そんな彼が、自らの手で人混みを掻き分けるようにしながらこちらに進んで来る様子を目にして、鼻の奥がツンとするのを感じる。
ジェラルド様にあんな顔をさせているのは自分だ。
ジェラルド様にあんな行動をさせているのは自分なのだ。
少なくとも彼は、これほど必死に私を守ろうとしてくれている。
だったら私は、ジェラルド様やラルフが大切にしてくれている自分を、きちんと自分で守らなくてはならない。
ようやくそのことに気づけた私の口から、無意識のうちに言葉が溢れる。
「私の話を、聞いていただけませんか?」
大きな声を出した訳でもないのに、その言葉は裏庭全体に響き渡り、その場にいた全員が口をつぐんだのがわかった。
こうなる可能性も、考えてはいた。けれども、この場にとどまったのは自分だ。
逃げないと、決めたのは自分だ。
私は、私を大切に思ってくれている人達のためにも、“悪役”とされることに対抗しなくてはならないのだ。
先程私がハンナ嬢に伝えたように、人の気持ちは本人にしかわからないのだから。外から見ただけではわからないのだから。
だからきちんと、言葉にしなければいけない。
「様々な噂があることは知っています。噂を今まで否定してこなかった私にも、非があることはわかっています。けれどもどうか、私の話を聞いていただけませんか?」
もう一度、全体に視線を向けながらそう告げる。
周囲を見渡すと、水を打ったかのように静まり返ったこの場で、人々の緊張と困惑が入り混じったような面持ちが全て私に向けられるのがわかった。
しかし不思議と、怖いとは思わなかった。
少し離れたところで、ジェラルド様が僅かに目元を緩めたように感じた。




