悪役と遭遇
ラルフと話をして以来、私の心には迷いが生じた。
私はこの世界で、どのように生きるのが正解なのだろうか、と。
しかし、だからといって私の特待生への態度は変わることなく、従って例の噂がぴたりと収まるということもなかった。
ジェラルド様やラルフがやんわりと否定していることには気づいていたけれど、私が彼らへの態度を変えないことにはどうにもならない。
それはわかっているものの、マイやレオ君と接するのは、やはり恐ろしかった。
「今日こそは」と思い始めて、何日が経過しただろう。
話し掛けたそうにするマイを今日も避けてしまったことに対する罪悪感を紛らわせようと、人気のない裏庭へと足を向けた時だった。
誰かが、声を荒げているのを耳にした。
始めは生徒同士の喧嘩かと思い、激しくなるようなら仲裁に入ろうと耳を澄ましていたところ、どうやら誰かが一方的に罵られているようだと気がついた。
罵倒の声は徐々に大きさを増し、少し離れた位置にいる私にまで、その内容が聞こえてきた。
「平民の分際で、私達に気安く話し掛けるなんて非常識よ!」
怒気を含んだその言葉に、頭から冷水を浴びせられたような心地がした。
“平民”と言っているのだから、罵られているのは特待生なのだろう。
キャンベル侯爵が危惧していた事態がすぐそばで発生していることに、発案者としての責任を感じる。
これだけ大声で騒いでいるのだから、私がどうこうせずとも、もう少しすれば教師が場を収めてくれるだろう。
けれども、罵られている平民も、罵っている貴族も、取り返しのつかないことになるのは望んでいないはずだ。
万が一の際には止めに入れるように、声のする方へと近づき、物陰からこっそりと覗いた私は、そこに立つ思わぬ人物に息を呑んだ。
…どうしてマイが。
私に背を向けて立つ女子生徒は、顔こそ見えないものの、間違いなくマイだった。
そしてその正面に立つのは、数回言葉を交わしたことのある伯爵家の令嬢。確か名前はハンナ嬢。
彼女の険しい顔から推し量るに、おそらく彼女がマイを罵倒していたのだろう。
そのことを認識した途端、手足の先が冷たくなるのを感じる。
なんとなく見覚えがある光景に、これは本来私が起こす予定になっていたイベントなのではないだろうかという考えが頭をよぎる。
私が特待生を悪しく思っているという噂が流れている状況で、この場に私がいることは非常にまずい。
もしこの場を他者に目撃されれば、私もマイを虐めていると見なされる可能性がある。もっと酷ければ、私がマイを虐めさせていると誤解されるかもしれない。
早くこの場を去らなければ。
少なくとも、自分の身の振り方すら決められていない今の状態で、これ以上ややこしいことに巻き込まれる訳にはいかない。
そう思って二人に背を向けた私の耳に届いたのは、悲痛な叫び声だった。
「この学園にもお情けで通わせてやっているのだから、もう少し立場をわきまえたらどうなの!?」
その言葉からは怒りよりも、切羽詰まったハンナ嬢の思いが感じられて、このまま放っておいてはいけないような気がした。
…逃げてはいけない。逃げられる訳がない。
本来あの場には、私が立っているはずだったのだ。
“悪”としての役割を、中途半端に他人に押し付けて、私だけが逃げるべきではない。
「何をなさっているのかしら?」
突如として放たれたその言葉と、裏庭に登場した公爵令嬢に、二人が息を呑んだのがわかった。
けれども、ここで怯む訳にはいかない。
「大きな声が聞こえてきたのだけれども、何かあったのかしら?」
そう言ってにっこりと微笑むと、ハンナ嬢がおずおずと口を開いた。
「この子が、あまりにも無作法な振る舞いをしていたので。少し注意をしていました」
「無作法な振る舞いとは? 具体的にどういったものかしら?」
「目上の相手に、自分から声を掛けたりだとか…」
「あら。この学園内では、基本的にはそういった行為は許容されているはずよ?」
私がそう言うと、ハンナ嬢は顔色を無くした。
もちろん、学園内で許されているとはいえども限度はある。
けれども、マイが問題になるほどに特定の人物に馴れ馴れしく接していた様子はない。
彼女の動向をひっそりと注視していた私だから、断言できる。
それでもなお、まだ何か言いたそうな様子のハンナ嬢に視線を合わせ、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「本当に、それが理由なの?」
私がそう言うと、ハンナ嬢はバツの悪そうな表情を浮かべた。
「その程度のことで、あなたが彼女を大声で罵るなんて、私にはどうしても思えないのだけれど?」
ハンナ嬢と仲が良い訳ではないけれど、彼女がそんなことでこれほど激昂する人間だとは思わない。
先程の切羽詰まった様子からも、きっと彼女の怒りの理由は別にあるのだろう。
そう思ってハンナ嬢の瞳を覗き込むと、彼女は気まずそうに目線を逸らせた。
「…私の言動が、貴族の娘として相応しいものではなかったことは理解しております。処罰なら、なんなりと」
彼女の声は硬く、それなりの覚悟を持っての言葉であることは明白だ。
けれども、私は処罰を求めている訳ではない。
「今はそんな話をしているのではないわ。なぜあなたがマイに腹を立てているか、その理由を聞かせてほしいの」
もしも私が言い出した特待生制度が理由で、彼女が辛い目に遭っているのならば、それを無視することなどできない。
しかしハンナ嬢は力無く首を振り、「…申し訳ありません。けれども、言いたくありません」と呟いた。
学園内とはいえども、まさか伯爵家のハンナ嬢にここまで拒絶されるとは思っておらず、正直言ってかなり驚いた。
どうしてここまで頑なになっているのか。もはや自暴自棄とすら言える彼女の言動に、胸がぎゅうっと掴まれるような気がする。
「私では頼りないかもしれないわ。けれども、あなたの力になりたいの」
そう言った私は、おそらく酷い顔をしていたのだろう。
様子を伺うようにちらりとこちらに目線を向けたハンナ嬢が、僅かに目を見開いた。
そしてそのまま俯いた彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちるのがわかった。
「…私の婚約者が、近頃余所余所しいのです」
ハンナ嬢が鼻を啜る音だけが響く中、ようやくぽつりと溢されたその言葉からは、彼女の悲痛な思いが滲み出ていた。
しかし、どうしてそれがマイに詰め寄る理由になるのか。
「あなたの婚約者の態度とマイと、何か関係があるのかしら?」
「彼がこの子と親し気に話しているのを、何度も目にしました」
「…つまり、あなたの婚約者が余所余所しくなったのは、彼がマイに心移りをしたからだと、そう思っているのね?」
私がそう言うと、ハンナ嬢は両手で顔を覆いながら何度も頷いた。
ハンナ嬢の婚約者についても、顔と名前程度なら知っている。
同じクラスの伯爵令息であるその人物を思い浮かべるけれども、やはりマイと彼が特別に親しくしていた記憶はない。
念のためにマイに視線を向けると、マイは蒼白な顔で首を横に振った。
「ねえ、ハンナ嬢。それは、あなたの婚約者本人から直接聞いたことなの?」
もう一度視線を戻してなるべく優しい声色でそう問うと、真っ赤な目をしたハンナ嬢が「いいえ」と小さく呟いた。
「だったら、まずあなたがすべきことは、彼ときちんと話をすることよ。マイに罵声を浴びせることではないわ」
きっと彼女自身も、そんなことはわかっているはずだ。
けれどもそれができないのは、きっと怖いから。
「他に好きな子ができた」と、婚約者の口から聞かされることが怖いからなのだろう。
「逃げたくなる気持ちはわかるわ。けれども、人の気持ちは本人にしかわからないの。外から見ただけでは、わからないのよ」
そう言いながら包み込んだ彼女の手が、小刻みに震えているのに気がついて、私は両手に力を籠める。
「今のあなたには、『頑張って』と言ってあげることしかできない。けれども、もしも彼が不誠実な対応をとるようであれば、私も一緒に仕返しをしてあげる」
私がそう言うと、ハンナ嬢はようやく少しだけ笑顔を見せた。




