悪役と侮辱
「どうしてエリスは、あの噂を否定しないのですか?」
王太子妃教育もジェラルド様との親睦会もない休日は久々のことで、そんな日に「久しぶりに僕とお茶でも飲みませんか?」とラルフからお誘いを受けた私は、実はとっても緊張していた。
ラルフから改めてそんな風に誘われるということは、何か話したいことがあるのだろう。そう思っていた私は、彼の質問に胸を撫で下ろす。
しかし、私の思いとは裏腹に、不機嫌な様子を隠そうともしないラルフは、例の噂に相当腹を立てているようだ。
「『スピアーズ公爵令嬢は平民と共に学ぶことに良い感情を持っていない』だなんて、そんな人間が特待生制度を発案する訳ないじゃないですか」
「それを知る人間は一部なんだから、仕方がないわ。そもそも、私のマイやレオ君に対する態度がいけないのよ。騒ぎ立てるほどの噂でもないわ」
私のために怒ってくれているラルフには申し訳ないけれど、実は私は噂についてほとんど気にしていない。
というよりも、むしろそう言われている方が都合が良いとすら思っている。
なぜか。それは、私が悪役だからだ。
記憶が戻ったばかりの頃、私は公衆の面前で婚約破棄を言い渡すであろうジェラルド王太子を、共に地獄に引き摺り落としてやろうと考えていた。
私に対して不誠実な態度をとるジェラルド王太子にも何かしらの罰を与えてやりたいと、そう考えていた。
けれども、今は違う。
今この世に生きるジェラルド様は、『ガクレラ』の攻略対象者ではない。
今の彼なら、どのような事情があっても、人前で私に婚約破棄を言い渡すことはしないだろう。彼は人の気持ちを慮ることのできる、素晴らしい王太子なのだから。
認めてしまおう。私は、ジェラルド様を好いている。
“人として”だけでなく、“異性として”好いている。
だからこそ私は、彼には幸せになってほしい。
『ガクレラ』のゲーム内で、不誠実な行いをせざるを得なくなってしまった彼を、なんとかして救いたい。ゲームの強制力というものがあるのならば、できるだけ彼を傷つけない方法で婚約を解消したい。
公衆の面前での一方的な婚約破棄など、させてはいけないのだ。
隣にいるのが自分でなくとも構わない。彼が幸せであれば、それでいい。
私は悪役として、ジェラルド様が幸せになれる世界に貢献したい。
そして、彼が目指す“平等な社会”を実現してほしい。
そのように考え始めた私が行きついたのが、“悪としての自身の役割を全うすること”だった。
例の噂を気にも留めない私に対して、ラルフは言いづらそうに口を開く。
「しかし…未来の王太子妃としても、あの噂を放って置くのは良くないのでは?」
私が“未来の王太子妃”なら、確かにその通りだ。
私のこの態度は、“平等な社会”を目指すジェラルド様の足を引っ張ることになりかねない。
けれど、“未来の王太子妃を引き立てる役”なら?
私が噂通りの人間だと思われている方が、おそらく新しい婚約者は国民から受け入れられやすくなるだろう。
新しい婚約者が、元婚約者とは違って、「平等な社会を作りたい」というジェラルド様の思いに寄り添った人間であるならば。
たとえ新しい婚約者が、庶民だったとしても。
しかし、今はまだラルフに私の考えを伝えるべきではない。
「でも、私は彼女達への態度を改めるつもりはないわ」
そう言って手に持ったティーカップに口をつける私に、ラルフがなんとも言えない表情を浮かべる。
噂の原因は、私の態度なのだ。
私の態度が傍から見ると“特待生を嫌っている”ように見えるから、囁かれるようになった噂なのだから、私がその態度を改めない以上、噂を根絶することは難しいだろう。
私が彼女達と積極的に関わろうという気持ちがないのであれば、ラルフでも、さらには王太子であるジェラルド様でも、噂をどうすることもできない。
「ですが、エリスが悪しく言われることには、やはり納得できません」
そう言って眉間に皺を寄せるラルフはまるで駄々っ子のようで、私は思わず笑ってしまう。
「仕方がないじゃない。今までもそうだったけれど、私は“悪”だと思われることが多かったでしょう? きっと私にも、何かしら原因があるのよ」
私が“絵莉朱”だった頃からそうだったのだ。きっと私は、何度生まれ変わってもそうある運命なのだろう。
しかしラルフは、私の言葉を聞いて眉間の皺を深くする。
「それは…ミアの落下事件の時のことですか?」
あの事件に関する話をすると、ラルフは不機嫌そうにする。いまだにキャンベル侯爵に対して素っ気ない態度をとるラルフを、何度注意したことか。
その度に「親しい者のみにわかる程度にしか態度を変えていません。これくらいは許してください」と言って口端を歪めるラルフは、おそらく彼のことを心の中では許していないのだろう。
「あれだって、結局は誤解が解けたじゃありませんか。あの時、皆が口々に“スピアーズ公爵令嬢はそんなことをする人じゃない、彼女のことを知る人間は皆わかっている”と、そう言っていたことをお忘れですか?」
「もちろん忘れてないわ。あの時は本当に、運が良かったわ」
あの時、衛兵が声を上げてくれていなければ、私はミアを突き落とした犯人にされていたかもしれないのだから。
しかしラルフは、私の言葉を聞いて、なぜか傷付いたような表情を浮かべた。
「“運”なんかじゃありません。エリス自身の行いの積み重ねのおかげです。僕だって、エリスにどれほど感謝をしているか」
「スピアーズ家に引き取られて以来、あんなに厳しい態度をとられていたのに?」
今のラルフが私を嫌っていなさそうなことはわかるけれど、どこかの時点では私に対して憎しみの感情を抱いていた可能性はある。そうであっても不思議ではないくらいに、私はラルフに厳しく指導してきたのだから。
そんなふうに思っての発言だったものの、直後にラルフの瞳が潤むのは想定外だった。
「当時の僕だって、そこまで馬鹿ではありませんよ。 エリスが僕を思って指導してくれていたことくらいわかっていましたし、理不尽な態度をとられたことは一度もありませんから」
そこで一度鼻を啜ったラルフは、私の目をじっと見据えて言葉を続ける。
「少なくとも、僕はエリスが大好きですよ。もちろん、姉として。…姉であるエリスが取られてしまうことを、ジェラルド殿下に嫉妬してしまうくらいには」
そう言って顔を背けたラルフの耳は、ほんのりと色づいているように見えた。なんとなく、そのことを指摘してはいけないような気がした。
気まずい沈黙が流れた後、ラルフがぽつりと呟いた。
「どうしてエリスは、“悪”とされることを、こうも簡単に受け入れるのですか?」
どうして。どうして?
まさかそんなことを問われると思っていなかった私は、とっさに返事が浮かばない。
「自分がこの世界の悪役だと知っているから」「前世でも悪女と呼ばれ続けたから」。この場でそう答えるわけにもいかないのだから。
言葉に詰まった私を見て、ラルフは悲しげな笑みを浮かべる。
「少なくともエリスと関わりのある人間は、あなたを“悪”だとはこれっぽっちも思っていませんよ」
その言葉を疑うことなどできないくらいに、ラルフが私に向ける視線は真っ直ぐだ。
「僕やジェラルド殿下、それとおそらくアンドリュー殿下も。あなたを“悪”だとは思っていないんですよ。王族や次期公爵が、揃いも揃って人を見る目がないと言うのですか?」
「そんなことは言っていないわ」
「ただ…」と続けようとする私の言葉を遮るように、ラルフが口を開く。
「エリスが自分を“悪”だと思うことは、エリスを大切に思う僕達の気持ちを、侮辱していることになるんですよ。エリス自身も、僕達が大切にしている“エリス”という人間を、もっと大事にしてください」
ラルフのその言葉を聞いて、かつてジェラルド様が私に語ったことを思い出す。
「エリスがなぜ、特待生を遠ざけているのかはわかりません。けれども、あらぬ噂を立てられていることに対しては、きちんと腹を立ててください。自分自身のためだけではなく、エリスを大切に思う僕達のためにも」
ラルフにそう言われて、あの時のジェラルド様が言わんとしたことが、ようやく理解できたような気がした。




