悪役と主人公
「スピアーズ公爵令嬢!」
マイからそう声を掛けられたのは、入学から一ヵ月以上が経過した頃だった。
「マイ、お久しぶりね。学園には慣れたかしら?」
入学当初から、マイが私に話し掛けたそうにしていることには気づいていた。
けれども、あの日のことをこちらから掘り返すのも、彼女を委縮させてしまうことになるだろう。学園内では低位の者から高位の者へ話し掛けることも許容されているので、彼女のタイミングを待とうと判断した結果、一ヵ月もの時間が過ぎてしまったのだ。
「あの、先日は大変失礼いたしました」
そう言って頭を下げるマイは、あの日以上に酷い顔色をしている。
「貴族の方だということには気づいたのですが、まさか王太子殿下のご婚約者だとは思わず…。もっと早くにお声掛けすべきだとは思っていましたが、気後れしてしまって」
「仕方がないわ。あの日のことは、本当に気にしていないから。大丈夫よ」
私がそう言うと、マイは花が綻ぶかのようにぱあっと笑った。
「公爵家のご令嬢でありながら、庶民の私にも親切に接してくださるなんて…。スピアーズ公爵令嬢は、私の憧れです!」
マイがあまりにも大袈裟に言うものだから、私は苦笑してしまう。
「ありがとう。ところで、“スピアーズ公爵令嬢”は長いでしょう? クラスメイトなのだから、“エリス”で構わないわよ」
そう言って笑いかけると、マイは恥ずかしそうに俯いた。
「でも、そんな。公爵家のご令嬢を、そのように馴れ馴れしくお呼びする訳には…」
「あら、“学園内では皆平等”と、学園長もおっしゃっていたはずよ?」
「ですが…」
なおも渋るマイの手を両手で包み込むと、マイは驚きで見開かれた目で私を見つめた。
「もちろん、その呼び方が相応しくない場もあるわ。けれど、特待生としてこの学園に入学したあなただもの。時と場に応じて使い分けることはできるでしょう?」
彼女なら、公の場で私に馴れ馴れしく接してくることもないだろう。それがまずいことだとわからない程に、愚かな人間ではないはずだ。
そこまで言ってようやく、マイは「では…エリス様?」と呟いた。
潤んだ瞳に上目遣いで覗き込まれて、同性である私ですら気持ちがぐらつく。
これが、ヒロインの力なのか。
もう一度、目の前に佇むマイをゆっくりと観察する。
目立つ容姿をしている訳ではないけれど、くるくると変わる表情はとても可愛らしい。特に、大きな瞳が素直に喜怒哀楽を表す様は、貴族である我々からすると新鮮だ。
なんとなく懐かしい気持ちになるのは、彼女の家庭的な雰囲気が、そう思わせるのかもしれない。
…私とは、まるで違う。
改めてそれを目の当たりにして、心の奥が冷たくなるのを感じる。
ジェラルド様が好きになるのは、こういう子なのか。
そんなことを考え、目の奥の熱いものを必死に堪えていた私は、後ろから名前を呼ばれていることにも気づかなかったようだ。
「エリス! 何かあったか?」
そう言いながら現れたジェラルド様は、少し慌てているようだった。
いつもなら、私を気遣うその言葉を、嬉しく思っていたことだろう。
けれども今は…。
おそらく血の気が引いているであろう私から、マイへと視線を移すジェラルド様の手を引いて、このまま走り去ってしまえたらどれほど良いだろう。
しかし、そんなことは不可能だ。
ぐるぐると思考のまとまらない頭を、軽く横に振る。
そもそも、一年間同じクラスで過ごすのだから、今後ずっと二人を関わらせないようにすることなどできないのだ。それならば、私の知らない所で出会われるよりも、目の前でちゃちゃっと出会われる方がマシだろう。
そう気持ちを切り替えて、ジェラルド様にマイを紹介しようとした時だった。
「ああ、君か」
ジェラルド様の言葉を受けて、マイも膝を折っている。
「ジェラルド様も、マイとお知り合いだったのですか?」
予想外の二人の反応に、思わず声が震える。
けれども、そのことには触れず、ジェラルド様は僅かに片眉を動かした。
「“マイ”と呼んでいるのか?」
なぜか不機嫌そうなその声色に、私は息を呑む。
もしここで、「ならば私も“マイ”と呼ぼう」などと言われたら、私は涙を堪えることができなかっただろう。
しかし、ジェラルド様は小声で「いや、すまない」と呟くと、何事もなかったかのように私達へと向き直る。
「特待生制度に関して、今は私が主導しているからな。彼女を含めた特待生とは入学前にも顔を合わせているし、今後も月に一度は話を聞くことになっている」
…ジェラルド様とマイはすでに出会っていたということか。
城下町での出会いイベントを回避できたからといって、安心していた自分が馬鹿みたいだ。
そして、そんな当たり前のことを聞かされただけで衝撃を受けている自分は、もっと馬鹿みたい。
その後、私が何を話したのかは覚えていない。
「特待生との話し合いに、エリスも参加しないか?」というジェラルド様からの誘いを断ったことだけは確かだ。
公にはされていないとは言え、特待生制度の発案者とされている私も協力すべきなのだろう。
けれど私には、その勇気が持てなかった。
ジェラルド様とマイが親しげにしている姿を見るのは嫌だったし、何よりも、ジェラルド様の前でマイと並んでいたくなかった。
彼女と、比較されるのが怖かった。
◇◇◇
それから、私はマイを避け続けた。
マイが話し掛けたそうにしていることにも、ジェラルド様やラルフが私の態度を不思議に思っていることにも、気がついてはいた。
けれども、私はマイが怖かった。
この恐怖心が、いつしか憎悪に変わってしまうことが怖かった。
ジェラルド様は、特待生達の話をするたびに話題を変えようとする私に対して、初めのうちは理由を問うてきた。
しかし毎回はぐらかしているうちに、私の前ではその話題を避けるようになっていった。
ジェラルド様が目指す“平等な社会”への第一歩になるであろう特待生制度について、本当ならば私も力を尽くすべきだろう。
それがわかっているにもかかわらず、上手く振る舞えない自分が、心底情けなかった。
私を憂鬱な気持ちにさせているのは、それだけではない。
私達のクラスのもう一人の特待生、レオ君。
彼について、学園生活を送る上で思い出したことがある。
『ガクレラ』の攻略対象者であり、ヒロインの幼馴染でもある彼は、ゲーム内では入学当初からエリスを異常に憎んでいた。
なぜ彼があれほどまでにエリスを憎んでいたのかについては思い出せないものの、彼が必死に勉強して特待生になったのだって、「憎むべきエリスに会うため」だった気がする。
正直、彼にそこまで恨まれることをした覚えはないし、そもそも彼とは接点すらない。
けれどもそれは、『ガクレラ』のエリスだって同じことだろう。
何度かジェラルド様を通して、「彼がエリスに伝えたいことがあるようだ」と言われたことがあるが、なんやかんやと理由をつけて、それらは全て断っている。
理由がわからない状態で、彼との接触を避けたいと思うのは、当然の感情だろう。
だから、全ては私の行動が招いた結果であり、“自業自得”としか言いようがない。
いつしか囁かれるようになった「スピアーズ公爵令嬢は平民と共に学ぶことに良い感情を持っていない」という噂を、私は黙って受け入れるしかなかった。




