悪役と転生
ある朝、なにか気がかりな夢から目をさますと、自分が乙女ゲームの悪役令嬢に転生しているのを発見した。
まあ、巨大な虫ではなかったことが救いだろうか。
…いやいや、現実逃避をしている場合ではない。
私が見たのは“気がかりな夢”ではなく“前世の夢”。前世で、日本人の女性として生きていた記憶。
「遂にご乱心か」と言われるかもしれないが、それは紛れもなく私自身の記憶だった。
「『舞姫』の登場人物の名前が可愛くて」という理由から、娘の名前を“絵莉朱”と名付けたという前世の私の母親は、おそらく『舞姫』の結末を知らなかったのであろう。
そんな前世の私、絵莉朱は、夫であった人物に刺されて死んでしまった。
前後にどのようなやりとりがあったのかは覚えていないけれども、刺された瞬間に「あ、これは死んだわ」と思ったことは、はっきりと覚えている。
夫が私を“若い女性”としてしか見ていないことはわかりきっていたし、私も夫を“お金をくれる人”くらいにしか思っていなかったので、彼に刺されたこと自体に怒りや悲しみはない。
あるのは、彼に刺されて私が死んだという事実だけ。
それに、“気がついたら転生していた”という訳でもない。
今世での私は、エリス・スピアーズとして十年間生きてきた。もちろんその間の記憶もあるし、この身体も間違いなく私のもの。
つまり、“転生していることに今気がついた”と言うのが正しい。
そして、ここから大問題。
どうやら、今世の私が生きているこの世界は、前世でプレイしたことのある乙女ゲーム『学園シンデレラ』、通称『ガクレラ』の世界であるようだ。
自分でも、随分と馬鹿馬鹿しいことを言っていると思う。けれども、鏡にうつる自分は紛れもなく『ガクレラ』の登場人物。
もう一度、鏡の中の自分の顔をまじまじと見つめる。
真っ黒な髪に紫色の瞳。美しいと称されるであろう顔立ちではあるものの、つりあがった目元と血色の無さのせいで、全体的には冷ややかな印象を与えている。
間違いない、悪役だ。
攻略対象者の一人である王太子の婚約者としてヒロインを虐める、いわゆる悪役キャラとして描かれていたのが私だ。
“王太子の婚約者”という紹介のみで、ゲーム内で名前が明かされていた記憶はないけれど、彼女はエリス・スピアーズという名だったのだと、他人事のようにそう思った。
『学園シンデレラ』というゲームが、世間一般として有名なものだったのかはわからない。
大金持ちの夫との結婚によって、自由な時間を手に入れた前世の私にとっては、暇を持て余してプレイしたゲームの内の一つにすぎない。
特別である点を挙げるとするならば、前世の私が最後にプレイした乙女ゲームであるということ。
確か、『学園シンデレラ』という名前の通り、弱い立場にあるヒロインが、身分の高い攻略対象者に見初められて幸せになる話だった。
そしてその中で、ヒロインの恋路を邪魔する悪役として登場するのが、“王太子の婚約者”ことエリス・スピアーズだ。
悪役ではあるものの、そこは乙女ゲームの世界。エリスが行う悪事についても、言葉による攻撃や、せいぜいヒロインの持ち物を隠したりするようなものだったはず。
そんなエリスに対して、攻略対象者である王太子、つまりはエリスの婚約者は、公衆の面前で婚約破棄を言い渡す。
王太子ルートにおいてのみならず、どのルートに進んでも。
前世の私は、それに対して特になんの疑問も抱いていなかった。
なぜなら、私はヒロインとしてプレイしていたから。そして、全てはゲーム、虚構だったから。
王太子が婚約破棄を言い渡したことによって、悪役であるエリスは退場し、ヒロインである自分と攻略対象者は末長く幸せに暮らすという筋書きが正しいものだと、そう思っていた。
けれど、今の私は悪役エリス。
そしてここはゲームではなく、今の私にとっての現実。
ゲームでは語られなかった“婚約破棄のその後の人生”を、私は生きなければならないのだ。
そうなると話が変わってくる。
ゲームのあの筋書きが正しいとは、到底思えない。
もちろん、どのような理由があれ、虐めを肯定する気はない。
そのようなことをする人間が、王太子の婚約者、ゆくゆくは王太子妃、王妃となるに相応しいかと問われると、首を横に振らざるを得ない。
けれども、王太子はエリスを断罪できるほどに清廉潔白な人間だと言えるのだろうか。
少なくとも王太子ルートにおいては、彼はエリスという婚約者がありながらも、ヒロインと仲睦まじい様子を見せている。友人としてではなく、恋人として。
そんな人間が、本当に王太子として、そして未来の国王として相応しい人間だと言えるのだろうか。
悪役エリスが断罪されたのであれば、彼も同様に罰せられるべきであると、今の私は思ってしまう。
なぜ、どうして、エリスだけがこの世界の悪役になってしまっているのか。
“悪役”という肩書きを一人で背負わされる運命にあるエリスが、前世の私の姿と重なって見えて、やるせない気持ちが込み上げる。
そして同時に、心の中で復讐心のようなものが芽生えるのを感じる。
私が働いた悪事について罰せられることは、甘んじて受け入れよう。
悪役エリスとして生まれたことを知ってしまった以上、その運命を覆そうという気概はない。
けれども、悪事を働いた人間に対しては、エリス同様に相応の裁きを受けてもらわないと。
「私一人を悪役にすることは許さない」
そう呟いてもう一度鏡に目を向けると、口端を上げて笑うエリスがこちらを向いていた。
その表情は冷酷でありながらも心底愉快そうで、そして恐しく美しかった。




