第25話「微睡─マドロミ─」
プエラ・スキエンティアは微睡に沈む意識の中で、自分のこれまでを思い返していた。
幼少の頃より優秀な姉と比較され続け、期待に応える為に努力を重ねたとしても、なにもかもが無駄に終わってしまった。
抑圧と重圧に心が折れて、脳神経の病に侵された彼女は、フィーニス郊外の病院へ入院することになる。それは、貴族の身内に鬱病を患った者がいることを隠すための措置であった、そのことはプエラ自身も理解していた。
毎日、毎日、なにも変わらない日常が過ぎていき、なにも得るものも無く、ただ年齢を重ねていくだけの日々は、余計に彼女の心を蝕んでいた。
友人のいないプエラの元に見舞いにくるような者は誰もいない、家族ですら連絡のひとつも寄越さないのである、彼女は孤独だった。
プエラにはなにもなかったのである。
無味無臭の人生を呪ったこともあった、だが、それすら無意味と気が付いて、とうとう考えるのをやめた。
それから4年ばかりを無為に過ごした。
ドラゴンの襲撃があって10日、ようやく落ち着きを取り戻した病院、その食堂で覚えのない顔を見つけた。それは一見14才ぐらいの少年で、どこか陰のある雰囲気を醸し出しているように見えていた。
だが、さりとて気にするようなものではない。
魔法による医療技術が発達し、大抵の病や傷なら来院して即日で治せる昨今に、わざわざ入院せざるおえない人間なんて、何かしらの事情を抱えているものだ。
そう思って、プエラは味の薄いスープに口をつけた、そのとき。
「アァァー!」
突然発狂した患者のひとりが暴れて机と温かな料理をを薙ぎ倒したのだ。それは精神的な病を抱えた男であった。
この病院ではこのようなことは珍しくはなかった、3日に一度はこうして暴れる人間が現れるのだ。プエラはそんな患者達をいままでは遠目に眺めて、自分には関係がない、と目を逸らしていた。
「えっ」
男が持つフォークが自分に向かって振り下ろされる現実を直視したとき、それはどうあがいても目を逸らせないものであることに気が付いて、人生で初めて死を意識した。このような感覚はまったく覚えのないものであった。16年間の人生において、楽しかったこと、思い出に残しておきたい出来事なんてなかったが、命の終わりが間近に迫って考えたのは、死にたくない、という感情であった。
男が消えた。
目の前にあった鋭いフォークの先も消えていた。
なにか、打ち付けるような物音が聞こえてそちらを見ると、先程の男が壁に身体を叩き付けられている。そしてそのままズルズルと座り込んで、パタリとうつ伏せに倒れるのを見て、プエラは呼吸を忘れていたことに気が付いた、椅子に座ったまま荒い呼吸を繰り返して、脳に酸素をまわす。頭の中にあるのは果てしない混乱であった。
「大丈夫かい?」
茫然自失としていたプエラに話しかけたのは柔らかい声の少年だった。耳に不快なくスルリと入り込むような声色だ。幼いながらも、どこか大人の余裕さと儚げさを内包している声であった。プエラは少年の方を見ると、思わず悲鳴をあげた。少年の右手の指先が赤く燃えていたからである。そんな驚愕など露知らずと言った態度で、ケーキに刺した蝋燭の火を消すように少年は炎を吹き消した。
このときになってようやく、プエラはこの少年によって助けられたのだと悟った。そしてそれと同時に、簡単な魔法すら使えない自分と比べて、あまりにも呆気なく患者を制圧した少年の技術に嫉妬を覚えてしまった。
「えっと、大丈夫、ですか?」
応答がないことにを不安を覚えた少年は改めて尋ねるが、プエラは勢いよく立ち上がって廊下の先へと走っていってしまった。まぁ、怪我がなければいいかと少年は気にすることもなかった。
プエラは曲がり角を曲がってから真っ白な壁に背中を預けた。思いっきり息を吸い込むと消毒液の匂いが肺の中を満たした。足腰が震えてそのまま座り込み、頭を抱えた。それは自身に迫った死に恐怖したからだけではなく、命の恩人に対して嫉妬を覚えた自分の醜さに耐えられなくなってしまったからだ。心配する少年の顔を見て、薄汚い感情を覚えていることに恥を知って無視して立ち去ってしまったのも、酷く自分を蝕む要因になっていた。一言なにか返せば良かったのに。なにをやっているんだろうと、顔を膝に埋めて後悔を繰り返しながら、泣きそうに顔を歪めたが、涙は出なかった。病は彼女から涙も奪っていったのである。
後日、プエラは少年の名前がカンケルであると知ると共に、ドラゴン撃退の立役者であると聴くと驚きと同時に納得した。暴れた患者を瞬時に制圧する手際の良さとその判断力は優秀な兵士、特に近衛軍のものだろうと考えていたからだ。そして、若いながらも酷い戦場を見てきたのなら、精神的に病んでしまって入院してきてもおかしくはない。
彼がここにいる理由は、そんなところだろうと。
プエラは、カンケルに興味を持つようになった。
彼を見かけるたびに目で追いかけた。
だが、カンケルはまったく気が付いていない。
殺意や憎しみの視線には敏感だが、それ以外のものにはまったくの鈍感だったのである。
プエラは数日間カンケルを眺めていて気が付いた、それは彼がいつもどこか遠くを見ているということだった。誰かと会話をしていても、食事をしていても、現実ではない、どこかへと視線を向けている。
「彼は、なにを見ているの?」
カンケルの人柄はわかった。他者に対し優しく親切で、彼は誠実な人間なのだとプエラは理解した、まるで労りの言葉が形となった人間のようだと思った。だが、やはり危うさのようなものを抱いている気がするのだ。その正体はわからなかった。わからなかったからこそ、もっと知りたいと願うようになっていた。目標もなく願いもなく、希望すら消え失せていた少女の心の中で、カンケルの存在が太陽のような暖かさを持っていた。
プエラは覚悟を決めた。彼と話そうと、彼が退院してしまう前に、友人になりたいと思うようになっていたのだ。
そんなある日、突如部屋の明かりが消えたと思えば、誰かの苦痛に塗れた悲鳴が聞こえてきた。その異常事態の最中で正常な判断ができず、部屋を飛び出した彼女が見たのは、ガスマスクを付けた集団に狩られる人々であった。
唖然としていたプエラを正気に戻したのは、目の前にいた初老で女性の患者が、首を斧で叩き切られたのを見たときだった。赤い線が床や壁、天井を汚して、糸の切れた人形のように倒れた初老の女性を目の当たりにして、思わず悲鳴を上げた。
追いかけてくるガスマスクの集団から運良く逃げ切った、無我夢中だったので、どうやって逃げたのか記憶になかった。いつのまにかベッドの下に潜り込んでいたのだ。時折聞こえる悲鳴と足音に身体を強ばらせて、この悪夢が終わるのを待った。彼女は自分の心配の他に、カンケルの身を案じていた。彼のような優秀な兵士ならば大丈夫だと思い込もうとしても、不安な気持ちが溢れて止まらない。自分に出来ることはあるのかと、そう考えたときに、カンケルを救いに行くべきなんじゃないかと思い始めた。プエラのように、戦闘技術などカケラもない人間が出て行ったところで、そこらの死体と変わらぬ姿になるだけだ。だが、彼女の心に巣食う焦燥感が、正常な判断力をさらに失わせていた。意を決してベッドから這い出ようとしたとき、唐突にドアが開いた。足音などまったくしなかったので思わず肩が跳ね上がった。そしてドアを開けた誰かが突如ベッドの下に入り込んできたのだから悲鳴をあげかけたが、それが誰なのかを理解したとき、悲鳴の声は掻き消えた。
カンケルの助けによって病院から脱出できたプエラを待つのは悲惨な戦場と化したフィーニスであった。美しかった街並みはことごとく地獄となっていた、辺りを見れば死体の山と破壊された人機の跡、プエラの記憶にある王都の姿とはかけ離れていた。
「助けた命を投げるつもりはない、責任はとる」
王城の一室に案内されたプエラは、カンケルにかけられた言葉を反芻していた。この言葉に特別深い意味はないはずだ、しかし、プエラにとっては熱く脳に刻まれるほどに印象的な言葉であった。
人心が乱れるこの時代に、このような誠実な人間がいることなど信じられなかった。
自分の身の回りにいる人間に、これほど高潔な人物がいただろうかと記憶を探るもの、思い当たる人間など誰一人としていなかった。
父親や姉の顔すら思い浮かばなかった。
そんな少年に助けてもらったことを、プエラは運命だと思った。
ガチャリと扉が開く。そこにいたのは久しく会っていなかった実の父、デルタ。
プエラは覚悟を決めて、口を開いた。




