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5・感情の名前

「……こうした訳で、アルトさまはあの女から狙われているのです。恐らく、私をここへ運ばれた時、手の者が後をつけていた筈。あの女は毒蛇のように執念深く、狙った獲物に容赦はしません……。いったい何の目的で、アシルさまに取り入り、帝国を滅ぼそうなどと考えているのかは、解りませんが……」


 シェルリアの過去を知らないセティウスは、まだはっきりとはしない頭で、記憶を組み立てて言葉に紡ぎながらそう進言した。アルトは腕組みをし、暫し考え込む。


「あの女はサジウスの息がかかった者と思っていた。そなたたちを罠に嵌めたのも、サジウスの指示で動いたのかと。恐らくサジウスの後ろ盾を持って皇妃となる事そのものがあの女の望みで、王国で美貌と才気を買われ、利害が一致して動いているのだろうと。だが……その話を聞くと、どうもあの女はサジウスにも帝国にも強い恨みを抱いているようだな。勘、か……」

「愚か者どもには判らずとも、あの女には、アルトさまがいくら道化を装っても、帝王の風格を隠しておいでなのが臭うのかも知れません」

「ふん……確かにアシルは最近、前にもましてわたしを信頼している。道化者と見下しよもや己に仇なすなどとは夢にも思わぬ油断がその根っこだろうがな。だが、あの女にはそれが気に入らぬのだろう。アシルが信頼を置く人間は己のみにしたいと」

「理由はなんであれ、いつ今すぐにでも、兵士がここに踏み入ってくるかもわかりません。私はまだ身動きもろくに出来ません……。今のうちに、身を隠して下さい。あなたさまの真のご身分が知れても知られずとも、ここにいてはろくな事になりません。一旦国を離れられた方がいいかも知れません」


 真の身分、という言葉に、アルトの唇にやや自虐的な笑みが走る。大切な人どころか、己自身の身も危うい立場……そしてこの国の次期君主たる立場……己とアシルが両極端な所に立っているのは、ただの運命の気まぐれの結果に過ぎないのだ。捨てられるのは、双子のうちのどちらでも構わなかったのだから。

 だが、運命がどこに自分を置こうとも、己は己、この国をアシルよりも憂う者。アシルより、より良く国を導ける者。


「わたしは逃げる訳にはいかない。わたしはこの国の君主であり、そなたはたったひとりの臣であり友人なのだ。国を、臣を捨てて己の保身に走れば、この世の誰がわたしを君主と認めようか?」

「しかし、アルトさま、今はその時ではないのです。その時の為に、今はどうか耐えることも……」


 セティウスの哀願にも、アルトは首を縦に振らず、今度は自虐ではなく決意の微笑を浮かべた。


「それに、我が后を捨てて逃げては、君主どころか、男としてわたしは生涯自分自身を認める事が出来なくなるだろう」

「……后?」


 セティウスは意外な言葉に首を傾げる。勿論アルトは独り身であるし、女への興味など話題に上ったこともない。その点、将来どうしたものかと亡父も頭を悩ませていたものだ。


「そうだ……わたしは彼女と、将来この国の皇帝と皇妃となろうと約束した。だがその時は、何の愛情もなかった。お互いに。ただ、復讐の同志とだけ思っていた。けれど、彼女と過ごす時間はわたしの凍てついた心を徐々に溶かし始め、わたしは最初、彼女のことを道具だと割り切ろうと努めたが、やがてそれが難しくなってきた。そんな頃、彼女は己の目的を果たす為に敵地へ飛び込んで行った。今思えば、それを許したわたしはなんと愚かな男だったのだろう! 最初のうちは、そこに彼女がいると判っていたから、彼女に降りかかるかも知れない危険について、あまり考えるまいとした。彼女が自分でそうすると決めたのだから、と。だが今、彼女は行方知れずになり、捕まれば命はない……わたしは心配でいてもたってもいられない。こうして普通に話せているのは、長年道化として己の感情を表に出さない訓練を重ねてきた故だろう……セティウス、わたしはどんなかおをしたらいいのか、よく判らないのだ。だが、己の中に育った感情に、わたしはようやく名前を与える事が出来るようになった。彼女の身を案じながら、彼女の兄を手当てしているうちに」

「……では、殿下……?」


 アルトはセティウスの手を握る。


「こんな状況で、なんと道化めいたことだろうか! だが、いま、彼女の保護者は兄であるそなただ。だから、そなたに請う。そなたの妹、セレスティーナを、我が后に貰いたい……愛情を以って。……むろん、彼女の気が変わっていなければ、ではあるが」

「アルトさま……妹は、妹に、そんなに」


 セティウスは動揺しながらなんとかそう問い返す。アルトは頷き、


「わたしは彼女の優しさと強さに救いを得た」


 とだけ言った。

 こうして、下町の一軒のぼろ家で、帝国の将来の皇帝と皇妃の婚約は、令嬢の兄の同意を得る事になった。


―――――


 暫く、それぞれの感慨に耽っていたふたりだったが、その感慨を一気に吹き飛ばすような街のざわめきが、薄い壁板を通して伝わってきた。

 大勢の町民が外に出て、大声で騒ぎ立てている。ひと際大きな声の男の叫びが、二人の耳に突き刺さった。


「たったいま、お触れが出たぞ! 皇帝陛下は遂に病で崩御された! アシル=クロード殿下が帝位に就かれるぞ!!」

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