9(ドーミエ)
ドーミエの深い森に接した村はずれ。
春の若草が絨毯のようにひろがる草地に、エセルシータ姫は目をとじて横たわっていた。
真っ白な婚礼衣装の裾が、春先の雪のように緑の上にひろがっている。はちみつ色の長い髪が、クローバーの細いくきや白い花とからみあう。
そこだけ見れば、大聖堂での騒動がうそのように美しくおだやかな情景だ。
森に近いこのあたりは、夕暮れが迫ってくるとひどくさびしく、大人でも歩くのを避けるような場所だった。
けれど、まだ日も高いこんな時間には、夜間とはうって変わって、なんとなくおとぎ話めいた雰囲気がただよっている。やわらかな草の上でお姫様が眠っているとなれば、なおさらだ。
とはいえ、いま姫のまわりを取り巻いているのは、おとぎ話というにはいささか生活感にあふれすぎた女たちだった。炭を背負ったような翼を持つ彼女たちは、先ほどから身を乗り出すようにして、姫をのぞきこんでいた。
「本物……」
眉を寄せて見下ろしながら、使い込んだエプロン姿のマージが呟いた。一同はうなずき、声をひそめて口々にささやきあった。
「本物のエセル姫……」
「こ、これ、ほんとに生きてるのかい? 実はお人形なんてことは」
「作りものみたいにきれいだもんねえ……」
「ためしにちょいとつついてみようか」
「やめなよ、あとがついたらどうすんのさ」
彼女たちは、大聖堂めがけて飛び出していったジンクたちを待つために、昼過ぎから寄り集まっていたのだった。
ところがジンクより先に帰ってきたのは、挨拶もせずに村から出て行ってしまった若者だった。若者は、以前はからっぽだった背中に翼をつけて魔物──チャイカだが──にまたがり、しかも姫君まで同伴していた。
そこで彼女たちは、草地に横たえられた姫を、群がる男どもや子どもたちから守りながら、こうして突っ立っているのだった。
と、少し離れたところから、おとぎ話にはますますふさわしくない怒鳴り声が響いてきた。
「いったいどういうつもりだ!」
女たちの半分はそちらを見たが、もう半分は姫をみつめて、はっとした。
怒鳴り声が聞こえたらしく、エセル姫がうすく目をあけている。まばたきすると、色もかたちもアーモンドのような瞳がぱっちりとひらいた。
いっぽう声の主は、遅れて到着したサンガとテグを相手に、遠慮なく怒りをぶつけていた。
「なんであんな無茶なことをした。浄化されたらどうする気だったんだ」
「されねえよ、人間なんだから」
ラキスの勢いに押されながら、テグが歯切れ悪く答える。
「それにさ、悪いのはオルマンドのほうなんだぜ。おれたちゃ正しいことをしに行ったんだ。なんで浄化なんかされなきゃいけねえんだよ」
「言い分が通じる相手に見えたか?」
「いや、あんまり……」
ラキスは、どことなく縮んだように見えるテグの姿をよくよくみつめた。
態度が小さくなっただけでなく、明らかに翼も小さくなっている。大聖堂で見たときは異様に大きくて、あれでよく加護の窓から入れたものだと思ったが……。
たしかにいまの彼は、浄化されるような存在にはとても見えない。
テグにはふだんから乱暴なところがあり、よくけんか騒ぎを起こしているらしいのだが、基本的には何の悪気もない村人たちの一員だ。しかし……。
「とにかく、あんたたちのおかげで何もかも台無しになったんだ。マリスタークには行かないでほしいと、あれほどおれが言ったのに」
「そんなに怒んなくてもいいだろ」
と、サンガが控えめに抗議してきた。サンガの翼もひとまわり小さくなり、雰囲気もいつもの純朴な青年に戻っている。
「おれたち、あんたを助けたかったんだよ。みんな心配してたんだぜ」
「心配?」
「あんたにいきなり翼が生えたって話を、チャイカから聞いてさ。ドーミエの領主様のところにも行きにくくなったんじゃないかって、みんなで話してたんだ。そのうちに結婚式も本決まりになっちまった。これはきっとラキスひとりで乗り込むつもりにちがいないって、頭領が言い出して、それならおれたちもひと肌脱いでやろうじゃないかと」
「脱がなくていい」
「じゃあ訊くが」
と、今回は乱入組に加わっていなかった村人のゼムが、口をはさんできた。
「衛兵だらけのとこにたったひとりで乗り込んで、あんたこそどうやって身を守るつもりだったんだよ。あっというまに討たれたっておかしくなかったんじゃないのかい?」
「そんなことはどうでもいいんだ。告発さえちゃんとできれば、あとはどうだって」
するとゼムは、なぜか勝ち誇ったような声をあげた。
「ほら、やっぱりだ!」
後ろを振り向き、炭焼きの頭領にしてゼムの父親でもあるジンクのほうに呼びかける。
「親父、やっぱりこいつ、自分を守る気が全然なかったみたいだぜ」
ジンクは、ラキスの怒りが届かない場所にあぐらをかいて、水筒の水をのんきにがぶ飲みしていた。そして息子の言葉を聞くと、水筒から口を離しながら大きくうなずいた。
「思ったとおりだ。だから、おれたちが行かなきゃだめだったんだよ」
「馬鹿じゃないのか……」
と、ラキスは思わずうめいた。
「そんなことのためにわざわざ……おれのことなんてどうでも……いいのに……」
怒鳴りたかったが、どういうわけか胸が詰まって言葉を続けられなくなった。深呼吸して気を取り直し、ふたたびしゃべり出そうとしたとき、突然別の声が、忘れていた方向からやってきた。
「それ、どういう意味?」
振り返ると、いつのまにかエセル姫が立ち上がり、ずいぶんそばまで近づいてきていた。
「自分のことなんてどうでもいいって、どういう意味? あなたって人は、まだそんなふうな考え方を……」
澄んだ瞳が怒りのためにきらきらと輝いている。その瞳をみつめながら、ラキスは、今日という日はなんと激怒に縁のある日だろうかと思った。
自分自身をふくめて、ふだん冷静なはずの大勢の人たちが怒りまくっている。マリスタークの花婿や伯爵、司教や貴族。女王陛下。馬止めで出会ったディー。
そしていま、真打ちが登場したらしい。
だがラキスは、怒っている相手を前にすると、逆に自分の頭が急速に冷える性分だった。それでいまは、かえって体勢を立て直し、冷たいと思えるほど落ち着いた声で返答することができた。
「お姫様の婚儀にくらべれば、どうでもいいっていう意味だ」
「人の命より重い婚儀なんて、ないわ」
「あるんだ。自分がレントリアの王女だってことをわきまえろよ。その婚儀についてだが、告発はちゃんと聞いてたか?」
「聞いたわ。まったく意味がわからなかったけれど」
「わからなくていい。とにかく婚儀は中止だ。あんたのことは何とかして早く王城に返したいと思っているが、すぐにはできない状況だから、少しの間この村で……」
言いおわる前に台詞がとぎれ、かわりに高く乾いた音が響いた。
姫君がラキスの頬を平手で打ったのだ。
「勝手なことばかり言わないで!」
ほとんど涙ぐみながらエセルが叫んだ。
「ひとことの断りもなく婚礼をめちゃめちゃにして、あっちにやったりこっちにやったり。王城に返すですって? あなたいったい、わたしをなんだと思ってるの? わたしは荷物じゃないのよ。わたしなりに死ぬほど悩んで考えて、やっとの思いで今日のこの日を迎えたのよ。それなのに」
エセルにとって、その叫びは本当に久しぶりの感情の爆発だった。
まともに声を出すことすら、何年もやっていなかったかのように思えた。もう何日も、別の自分が別の場所からしゃべっているのを聞いているようだったのだ。
ラキスは叩かれたはずみで後ろにさがったまま、魂が抜けたような顔つきでエセルのほうをみつめていた。
それから、ふいに口走った。
「ごめん」
「え……」
「神聖な祭壇の前でいきなりさらって、首に剣を突きつけて脅して、ぶらさげて飛んで。こわかっただろう。悪かったと思ってる。本当に申し訳ないことをした」
「……」
彼の表情があまりにも真剣だったので、エセルはそれ以上叫ぶことができなくなり、だまりこんだ。
彼のほうは早口のまましゃべり続けた。
「エセルが怒るのも当然だ。せっかくの結婚式にひどい話だよな。ドレス姿、すごくきれいだったのにそんなふうにしてしまったし」
すごくきれい……言われて動揺しながらエセルが視線を落とすと、肘のあたりから長くたれさがっている振り袖が目に入った。
真っ白だった袖に砂ぼこりがつき、大きなかぎ裂きができている。飛んでいる途中で何かにひっかけたらしい。
「髪だって、たぶんちゃんと結ってたんだよな、ベールの下で」
エセルは頭に手をやってみた。ベールをむしりとられたせいで編み込んでいた部分の髪が乱れ、さしていたピンもはずれてしまっている。
「こんなことをしておきながら、許してもらおうなんて甘いかもしれないが……」
「も、もういいわ。あなたがわかってくれればそれでいいのよ」
「本当に?」
「本当に」
ラキスの表情が、ほっとしたように少しやわらぐ。
「よかった……。それじゃ話をもとに戻させてもらうが──あんたが無事に王城に帰れるように、もちろんおれも最善をつくすつもりだ。ただ事態がけっこう複雑だから、少しだけ作戦を練る時間がほしいと──」
二度目の平手が飛んでくるのは早かった。さすがに直撃はなんとか避けたが、ぎりぎりだったのはまずまちがいない。
「何するんだ! 人が誠心誠意あやまったのに」
「あなたみたいに鈍感な人、レントリアの国中さがしたっていやしないわ!」
「なんでわかるんだよ。ちゃんとさがしたのか」
「王女だから、さがさなくてもわかるのよ!」
有翼の村人たちは、一同あぜんとしながらこの様子を眺めていた。
女性陣はみな、深い感銘を受けながら考えた。生きているかどうかわからないようにさえ見えたお姫様は、お人形でも作りものでもない。村で暮らしている自分たちと同じように泣いたり怒ったり、そしてきっと笑ったりもする人間なのだ。
男性陣のほうも深い驚きとともに考えた。いま目の前でおこなわれている、これはもしかして……痴話げんか?
そうだとすればまずいぞ。この手のことで男が女に勝てるわけはないのだ。
「お取り込み中にすまないけど……」
ジンクの妻のルイサがおそるおそる口を出した。
「立ち話もなんだから、すわれるところまで行かないかね? 汚ない椅子でよかったらうちにたくさんあるからさ」
エセルがぱっと振り返り、力強く言った。
「そうさせていただくわ。お世話になります」
そして大きく一歩踏み出したが、そのとたん長い裾を踏んずけてばったりところんだ。
下草がやわらかかったので、幸い怪我はないようだ。あわてて差し出されたラキスの手を決然と無視すると、姫君は自力で立ち上がり、それから急に胸元に手をやった。
彼女が着ている婚礼用のドレスは、胸から腰にかけて細いリボンが何段も結ばれているデザインだった。スカートのほうにはリボンがなく、薄い布地が重なりあって繊細なひだをつくっている。
そのリボン部分を、姫が上から順にほどきはじめたため、ラキスをふくめた一同は腰を抜かしそうになった。
「早まっちゃいけないよ、お姫様」
と、マージがわめいた。
だがリボンはあっというまにすべてほどかれ、長い袖が両腕からすべり落ちた。たっぷりとした引き裾も、流れるように草地に落ちる。
脱いだドレスの下からあらわれたのは、袖も裾もすっきりとして動きやすそうな、もう一枚の白いドレスだった。
「重ね着になっているのよ」
エセルが冷静に説明しながら、落ちたドレスを拾い上げた。
「ああ、せいせいした。裾の長いドレスなんて着るものじゃないわね。聖堂に着くまでだって、何度ころびかけたかわからないくらいだったわ」




