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その意味をディーが瞬時に理解したのは、それが必要だと薄々感じていたためだろう。
きりもなく出現するヴィーヴルたちを相手にしつつ、彼も考えはじめていたのだ。
足元の土そのものに魔力が宿っているのではないかと。猛った魔物がこうも次々に飛び出してくるのは、土壌が放つ魔力に巻き込まれているせいではないかと。
最初はもちろん、地下にいるヴィーヴルたちの魔力が、瘴気を噴き上げ沼を作り出していると思っていた。元凶は魔物であり、魔物を掃討しさえすれば地上ももとに戻るだろうと予想していた。
だが、逆ではないのか。より強烈な魔力を持つのが土壌のほうだとしたら──。
ドーミエの森からあふれた瘴気が、村の地下に染み込みながら流れるうちに、魔力を蓄えその周辺にまで作用する。魔力は窪地に吹き溜まり、地底のヴィーヴルたちを外に押し上げ、──上空に生じた亀裂が、さらなる負の力をそれに与えて……。
そんなことがありえるだろうか。だが、もしそうであるなら、魔物たちだけを討っても意味がない。地面を清めなければこの討伐は完了しない。
ディーにとって仮説だったその考えは、ラキスにとっては確信の重みを持っていた。亀裂と沼の中間点を飛んだ者だけが、肌で感じ取った確信だった。
いま、亀裂が消えた直後の沼は煮え立った湯のような様相を呈している。受けていた負の力が突然途切れたため、方向性を失くしてしまっているらしい。
その荒れた波間で、溺れたように翼をばたつかせたヴィーヴルたちの姿が見え隠れしている。
迷っている暇はない。
ディーが遠方に視線を投げると、渦巻く蒸気の向こうに、ベルター・ローデルクの大柄な姿が垣間見えた。対岸に近い位置に立つ彼は、こちらに顔を向けていた。
ラキスの声が聞こえていたにちがいない。表情は見えないがその立ち姿に動揺はなく、すでに心構えをしていることが感じられる。こちらへの同意の印は、高く上げてみせた左手だった。
二人の使い手とは離れた位置に急降下したラキスが、空中でチャイカの背から飛び降りた。
「ジンクのところに戻るんだ。早く」
浄化の炎に巻き込まれないよう指示をしながら、着地する。
女の子の素早さを気配で察して、振り向くことはしなかった。ただ前方だけをにらみつけ、魔法剣の柄を両手で強く握りしめた。
斬るのは、地面。
大地に剣を向けるとはまるで召喚のようだが、構えがちがう。切っ先が向いているのは真下ではなく、沼の方向だ。
その構えだけで剣身の中の炎が躍った。息を吸い込み、全身で剣を振り下ろした。踊る炎を土の中に放出した。
合図しあったわけでもないのに、あとの二人が同じ瞬間にそれをしたのは、炎の使い手ならではの呼吸としか言いようがない。
三方向から放たれた魔法の炎が、同じ目的地である沼めがけて地中を走る。地中にできた炎の道が上部に透けて、地表が白く照り輝く。
浄化の炎は魔力が宿っていないものには引火しない。道ができること自体が、土地の強い穢れを示す証拠だ。
道はまたたくまに魔力の吹き溜まりである沼に達した。三か所で同時に銀の火の手が上がり、炎と炎が引き合うというその特性を発揮して、周辺から中央へとみるみるうちにひろがった。
燃えているのは、蜘蛛の糸のように細い触手の群生だった。蒸気のように見えていたものは、窪地を埋める触手の繊毛だったのだ。
おびただしい量の繊毛が、光の投網にからめとられて、淡く輝きながら散っていく。一面の霧氷のようなその中で、地表付近にいたヴィーヴルたちの黒い身体が、白銀のかたまりに変わりながら崩れ落ちていくのが見えた。
崩れる同胞の身体を突き抜けて、高く舞い上がっていくものもいた。浄化から逃れた何体かが、亀裂のあった場所まで届けとばかりにはばたきあがると、一斉に向きを変える。
ヴィーヴルが地ではなく高い空に上がるのは、戦闘意欲を失くしたときの行動だ。敗北を悟った魔物たちの逃亡である。
魔物たちは、ドーミエの森をめざして一斉に飛び去り、やがて森の奥深くに吸い込まれていくように見えなくなった。
地上にいた多数の兵士たちは皆、広い地面そのものが浄化されるという稀有な討伐の目撃者だった。弓兵は弓を、槍兵は槍を握りしめたまま、誰もが魅入られながらその光景をみつめていた。
だが一部の兵士たちは、さらに別の光景も見ることになった。後方を振り向き、浄化されず逃亡もしないヴィーヴルの群れに気づいた兵士たちだ。
その群れは、討伐されないようくっつきあってうずくまり、敵意がない鳥のように身を縮めていた。
しかし、沼の浄化が進んでいくそのさなか、ふいに群れ全体からこまかい銀の光が噴き上がった。
光は、群れにからみつき食い込んでいた銀糸の束だった。突風に吹かれて飛び散り、あっけなく空中にとけていく。
直後、彼らを包んでいた空間が揺れた──少なくとも見ていた兵士たちには、本当に揺れたかのような衝撃があった。
と同時に、ヴィーヴルの群れがかき消えた。そして入れかわりにあらわれたのは、大勢の村人たちだった。
盆がひっくり返るように……正しくは、ひっくり返っていた盆がおもてに返るように。一斉に反転から解放された村人たちが、呆然と目をみはりながら立ち尽くす。
男たちは汚れた野良着、女たちは粗末なワンピースにエプロンという、反転する前とまったく変わらない格好だ。子どももいるし老人もいる。
全員が全員とも、目を白黒させ、何がどうなったのかわからないという顔つきだ。
魔物そのものだった大きな黒翼は、元通り小さく縮んで、人々の背中におとなしく張りついていた。
真ん中に仁王立ちした炭焼き頭領が、黒いぎょろ目であたりを見まわし、いきなり声を上げた。
「なんだ、兵隊がふえてるじゃねえか。おれたちゃ別に逃げないぜ。裁判は望むところだ!」
どうやら記憶が混乱しているか、あるいは抜け落ちているらしい。
かたわらに突っ立っていた妻のルイサが、下を向くとやはり大声で呼びかけた。
「チャイカ! あんたって子は勝手に反転なんかして……」
そこでふいに気づいたらしく、自分の手や身体を見やりながら首をひねる。
「あれ? そういや、なんだかあたしも変わってたような……?」
ルイサの横に避難してきていたチャイカは、反転が解けたショックで尻もちをついたまま、養母を見上げていた。
きょとんとしたあどけない顔は、どこから見てもただの女の子のものだ。薄汚れた子ども服もほつれた長い髪も変わらない。持ち上げられた両翼も、皆と同様にずいぶん小さくなっている
ルイサに立ち上がらせてもらうと、女の子はいつものゆるい笑顔で養母に応えた。ついさっきまで空で活躍していたのだが、自慢する気は全然ないようだった。
ほかの人々も、自分の身体や相手の姿を眺めながら、それぞれ好き勝手に騒ぎはじめていた。
カーヤに会ったような気がする、とテグやサンガが言い出すと、同意の声が次々に続く。
朴訥な若者の姿を取り戻したゼムが、よく知る相手の姿をみつけて、ほっとしたような声をあげた。
「ラキス」
ラキスは魔法剣を鞘に納め、村人たちのほうに駆けてきたところだった。討伐の余韻で張りつめた顔をしていたが、呼びかけられて頬にわずかな血の気がのぼる。
だが笑い返すまではいかなかった。
ふいに、ただならぬ声が響いたからだ。
「兄さん……!」
悲鳴のようなその声は、マージのものだった。
一同から少し離れた場所で棒立ちになったマージが、何かを見上げている。
視線の先には大木があり、太い枝々が空に向かって重なり合いながら伸びていた。そしてその途中に、傷ついたヴィーヴルの黒い身体がひっかかっているのだった。
首や胴に突き刺さった二本の矢が、それがドニーであることを教えている。ほかの魔物とともに舞い上がろうとしたが、力尽きて枝の間に落ちたらしい。
時おり弱々しくもがいているが、そのたびに矢傷から体液が流れて落ちた。
反転が解けていない理由は、それなのだろう。いままで永らえていられたのは、魔物になっていたからこそ。人の姿に戻ったら、もう生きてはいられない。
だが戻らなかったとしても──。
うめき声をあげたゼムが、マージのそばに駆け寄った。ほかの者たちも皆、蒼白になって大木を取り巻き、さらに集まってきた兵士たちがその周囲を取り巻いた。
兵士たちの中にはディーも混じっていたが、痛ましげに眉を寄せ、ヴィーヴルを仰ぎ見ているだけだった。立ち尽くして見守る以外に、なす術がなかったのだ。
「ドニー……」
ジンクが目をぎらぎらさせて唸り、ルイサがふるえながら口走る。
「た……助けてあげないと……」
地面の浄化が終わるのを見届けていたベルターとカシムが、何事が起きているのかと近づいてきた。
炎が消えたあとの沼は、触手に覆われる前の荒れた土砂の山に戻っている。しかし、魔物討伐はまだ終わっていなかったらしい──そう思いはしたものの、二人とも討つ気にはなれず黙り込んだ。
二人の視線を引きつけているのは、虫の息の魔物ではなく、反転が解けた村人たちの姿だった。
有翼ではあるものの、見るからに素朴でよく働きそうな老若男女だ。誰もが樹上の仲間をみつめ、人間的な感情をあらわにして悲しんでいる。
魔物として討伐対象に加えられていた人々の、真の姿がこれなのだ。
ラキスはマージとゼムのそばにいたが、やはり一言も発することなく、じっとドニーを見上げていた。
駆けつけたとき輝いていた緑眼は、少しずつ光を落としていき、暗い影がそれにとってかわっている。彼はやがて、痛みをこらえるように目を伏せると、迷いのある調子で呟いた。
「もし……もし許してもらえるなら──」
だが、すべてを言い切ることはできなかった。途中でため息をつき、口を閉ざす。
その言葉を引き取ったのはマージだった。
「いいよ。許す」
はっとしたようにラキスが顔を上げた。
村娘に戻ったマージは、目に涙を浮かべていたが、それでも強いまなざしで彼をみつめ返していた。
そして、気丈な声でこう続けたのだった。
「浄化すれば天に還れるんだよね。やってよ。兄さんを天に還してあげて」
予想外に大掛かりな闘いになった、この討伐の締めくくりに──。
魔法剣を抜いたのは、みずからも黒い翼を持つ、はぐれ剣士の若者だった。
引き抜かれた剣の内側で、魔物に反応した銀の炎が、静かな中にも激しさを秘めながら燃えている。
ラキスは、下から炎を放つことはしなかった。力を込めて振り切れば届かない距離ではなかったが、それはふさわしくない行為のように思えたのだ。
ゆっくりと翼をひろげ、ドニーと同じ高さまで舞い上がってから、剣を構えた。まだかすかに動いている魔物をみつめ、おごそかとさえ言える動作で狙いをつけると、短く剣を振った。
炎の帯はたやすく魔物に命中し、矢が突き立つ黒い身体を包み込んだ。
反転して魔物に変化したものは、生まれながらのものとはちがい、すぐには白銀に変わらない。透明になった炎にかこい込まれ、陽炎の中に放り込まれたかのように、全身が大きくゆらめき立って見える。
炎を受け入れた衝撃のため翼が動き、ひっかかっていた枝からはずれるところもよく見えた。
だが、落下はしなかった。
その直前に、浄化の時間が訪れたからだ。
光を放ちながら雪のかたまりに変わった身体が、輪郭を失いながら宙に巻き上がっていく。
ゼムに支えられて仰ぎ見ていたマージが、こらえきれず、子どものような声で呼びかけた。
「お兄ちゃん!」
合図を聞いたかのように、幾人かの村人たちが泣き出した。周囲を取り巻いた多数の兵士たちは、それぞれの武器を握りしめたまま、言葉を失いその様子をみつめていた。
そのとき。
大木の根元あたりの地面から、ふいに浄化とは別の光が浮かび出てきた。玉のようなかたちをした、ふたつの白い光だった。
大きめの光の下方に寄り添って、小さな光がくっついている。
それらは、砕けていく雪を追いかけるように上にのぼり、空中で求めるものに追いついた。求めるもの──大きい光にとっては夫、小さい光にとっては父親である、大切な人に。
三つの命は、お互い吸い込まれるように混じり合い、風に巻かれながら輝いた。
そして、大勢の人々が見守る中、天に向けて舞い上がっていったのだった。




