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集落をめざすかに見えた怪物は、尾を振り身をくねらせると、ふたたびラキスとチャイカのほうに頭を向けた。
そうだ、戻ってこい。
緊張のため青ざめた顔でレヴィアタンを見据えながら、ラキスは思った。
巨大魚の視界に自分が入ったというだけで、生気を吸いつくされそうな戦慄を覚える。だが退くつもりはない。むしろ飛び出したくて全身が脈打っているようだ。
引き結ばれていた唇から、挑戦的な呟きがもれた。
「逃げんなよ。殺人鬼を一発で始末してくれた化け物なんだろ?」
彼はいま、チャイカの背の上で両足を踏みしめて立っている。
魔物そのもののチャイカの身体は、天馬とちがい、魔法剣や炎が当たりでもしたら致命的だ。本人は気にすることなく飛びまわっているが、ラキスにしてみればかなりやりにくかったため、立ち上がることを選んだ。
だが、そればかりが理由ではない。
かつてないほど攻撃的な気分につかみ上げられ、腰をおろしていられなかったのだ。
鉄格子と足枷から解放され、斬り捨てようとしていた相手が喰われるのを目撃し、獄中の彫刻ならぬ本物の魔物と対峙している。重なり合う要因が、何かのたがをはずしたのかもしれない。
攻撃的なのはレヴィアタンも同じだった。いったん興味をそらしたにもかかわらず、誘うように向けられてきた剣の輝きを目にしたとたん、態度を一変させた。興奮しながら、またもや歯と牙だらけの魔物の群れを繰り出してくる。
しかし剣の動きは怪魚の思惑を上回った。ほとばしる白銀の炎の帯が、またたくまに群れを包み込む。最前列のものたちが銀の火の手に包まれると、後続のものがそれに巻き込まれ、さらに左右や上下も続く。
炎どうしが互いを引き寄せ、それに巻かれた魔性の命を引き寄せるという、魔法炎の特性だ。
とはいえ、小魚たちの浄化がいくらたやすくても状況が良いわけではないことに、ラキスは気がついていた。
レヴィアタンが口をひらかないおかげで、押し気味に闘っているように見えるかもしれないが、実際はちがう。
本体に対して放った炎は、普通の魔物であるならとっくに浄化されて当然の攻撃量になっていた。ところが、異界から泳ぎ出てきたこの怪物は、その攻撃をことごとく体表だけで食い止めてしまう。
炎が内部に入っていかなければ、何度直撃しても同じだ。浄化を妨げる力である呪力が、地上の魔物にくらべて計り知れないほど強いのだ。
インキュバスと闘ったときも呪力の強さに圧倒されたが、あのときは心身ともに瀬戸際だったため、こちらの力がかなり落ちてしまっていた。だがいまは、これ以上ないほど戦闘向きの状態になっている。
これで浄化できないとなると──。
焦燥感にかられて視線を動かすと、下方の状況が視野に入ってきた。白く沸き立ついびつな沼の周辺で、白銀の炎が激しく輝いている。剣を振り切るディーの姿が見分けられた。
もうひとつ、離れた場所で燃え立っている炎のほうは、ベルターの剣技にちがいない。
レヴィアタンの尾を攻撃すると、泳ぎが乱れて下降する……ふとそんな知識が頭をよぎった。だが、それを実行しようとは思わないのが、ラキスというはぐれ剣士の習い性だった。
下は下でヴィーヴルの群れにかかりきりだと判断したのだが、そもそも誰かに頼るという技が身についていない。
頭をかすめた知識より、直後にみつけた別の光景のほうが、よほど彼の気を引いた。沼にいたる坂道の上のほうから、別のヴィーヴルの群れが舞い降りてくる光景だった。
妙につたない動きのその群れは、沼側の魔物たちを迎え討っている兵士たちの後方に着地しはじめた。
敵ではない。高い樹木が邪魔をして全体がよくわからないが、おそらくジンクたちの一団だ。動かないでくれと言ったのに、我慢できずに移動してきたのだろう。
ラキスは舌打ちしたくなったが、仕方ないといえば仕方なかった。大事なチャイカがこんなに手荒く扱われているのを見たら、じっとしていることなどできないに決まっている。
もともとラキス自身、ずっとチャイカに乗っているつもりはなかった。
距離をおいて炎を放つのではなく、直接怪魚に斬りつけなければ討伐できないかもしれないと思ったからだが──その考えは、やはりまちがっていなかったようだ。
「チャイカ」
下方から視線を引き上げながら、彼は勇敢で頑丈な女の子に呼びかけた。
【あい】
「おれはレヴィアタンに飛び移る」
【あ?】
「おれが飛んだらチャイカは下に戻って……」
しかし、そのとき上空で意外なことが起きた。突然、異様な大気の流れが生じたかと思うと、いままで細い線のようになっていた亀裂がふたたびひらきはじめたのである。
かき消えていた青い鬼火の群れが、裂け目の周囲でまたも湧き立ち乱れ飛ぶ。
だが凶兆とばかりはいえない。今度の裂け目は敵を押し出すためのものではなく、逆に迎え入れるためのものであることが、怪魚の動きから察知できたからだ。
頭を揺らして上を見上げたレヴィアタンは、うるさくつきまとうヴィーヴルとその乗り手への興味を、みるみるうちに失った。太い尾を大きく振り、急流をのぼる鯉のように身体を立てて上空に向かおうとする。
そのことに気づいた地上の兵士たちの間から、安堵のどよめきが上がった。これ以上の危機が起きてはたまらないと思ったところが、それと正反対だったのだから、ほっとするのも当然だ。
まったくかけ離れた台詞を投げたのは、ラキスだけだった。
「逃げんなって言ってるのに……!」
声だけではなく、実際に翼が動いた。相手が自分を恐れて去っていくわけではないことは、よくわかる。それでも彼には、いま追えば、いま直接斬れば討伐成功だという感覚があったのだ。
たとえ斬る前に、相手が亀裂に飛び込んだとしても。それを追った自分が、ともに向こう側まで行くことになったとしても。
だが、いまにもはばたこうとした直前、制止の叫び声が耳を打った。
「よせ、ラキス。深追いするな!」
地上からディーが叫んでいる。
黒翼を風にはらませたまま、ラキスは動きを止めた。そして強く光る翠緑の目で声の主を見下ろした。
一方レヴィアタンは、そのわずかな間に亀裂に達し、暗い裂け目に大きな胴体をすべり込ませていた。
怪魚の帰還、それと同時に裂けた空間が修復されていく。鬼火が吸い込まれるように消え、曇天の雲が周囲からせり出すように割れ目を覆う。
裂けていったのが悪夢のごとき出来事なら、消滅するのもまた壮大な夢幻のようだった。
上空をわずかに見やり、ラキスは敵が跡形もなく消えたことを確認した。だが思いを引きずることはせず、再度下方を見たときは、もう完全に気持ちを切り替えていた。
切り替えざるをえなかったとも言える。
地上に向かって下降しながら、彼はディーに叫び返した。
「ディー、地面だ。地面を浄化しないと終わらない」




