49
雑念が消える。地上にまつわるしがらみのすべてが霧散する。目の前の敵しか見えない。
こんな場合にもかかわらず、爽快感がラキスの身の内を駆け抜けた。目もくらむような恐怖と隣り合わせの爽快感だった。
彼自身の翼は、ほとんど閉じられたままの状態だ。自分で飛んでも追いつけないのはわかっているし、飛びながら魔法剣を振るのが不可能なこともわかりきっている。足場もなく立ち向かえる相手ではない。
チャイカの大きな両翼は、狙いどおりラキスには及びもつかない勢いで敵に迫った。怪魚の領域に飛び込み、胴体を観察できるほどに接近した。
飛行する魔性の巨大魚。大きさは桁違いだが鱒や鮭などと似た身体つきで、背には棘条の背びれが並び、胸や腹にもひれらしきものがある。
尾びれは胴とひと続きのように広く太い。
体表は、風雨にさらされ崩れた岩肌のようにぼろぼろで、魚鱗はどこにも見当たらない。まぶたのない真円の眼が、薄い膜の内側で貪欲そうに光っていた。
怪魚は一瞬動きを止め、舌なめずりでもするように下方を眺めた。そして大きく頭を沈めると、真下にある銀の沼めがけて、ほぼ垂直に下降を開始した。
ひとつの黒いかたまりになったラキスとチャイカが、怪魚の動きを追い越して、その鼻先を横切った。すばやく旋回し、再び横切る。
レヴィアタンは苛立たしげに尾びれを振ると、下降をやめていっとき上体を持ち上げた。
うっとうしかったようだが、餌が来たとは思っていないらしい。マリスターク次期伯爵をひと呑みにした恐るべき口が、いまはまだしっかりと閉ざされている。
人ひとりの命を喰らって、少しは落ち着いたのだろうか? まさか、そんな小食なものか。しかし意外と緩慢な動作だ。
抜き放たれたラキスの剣が、攻撃を開始する前から燃えるように光っている。剣とつながる右手、右腕、肩まで熱い。
こんなにも反応している──だが、やみくもに振ればいいというわけではない。呪力の薄い部分を狙わなければ意味がないのだ。
レヴィアタンの目玉がぎょろりとまわり、つきまとううるさい生き物を視野に入れた。岩壁の一部だった口元が半端にひらき、その内部が垣間見える。
命を吸い込む闇、虚無、深淵。そんな言葉が思い浮かんだ。
だが口はすぐに閉じられ、こちらに注がれていた視線がそれた。声が響いてくるような気がした。
──共喰いはしない。
それは記憶の底から上がってきた声だったのかもしれない。ラキスは叫び出しそうになった。熱を帯びた腕が震えた。
ふざけるな……!
激情が伝わったかのように、怪魚のほうも大きく胴体を震わせた。魚のえらぶた、少なくともえらぶたのように見えていた部分が、いきなりぱっくりと割れて、あらたな魚の群れがどっと吐き出されてくる。
魚は人の片腕ほどの体長だったが、本体とはちがい、口には鋭い歯が並んでいた。剝き出された歯列だけが飛んでくるように見えるほどだ。
「よけるな、チャイカ」
叫びながら、ラキスは魚の群れに突っ込んだ。同時に魔法剣を思い切り振った。
白銀の炎が剣から噴き出し、魚たちを火の粉に変えて吹き飛ばした。
上空で魔法の炎が燃え上がるのを、ベルターは息を呑みながら見上げていた。
ラキス・フォルトに剣が使いこなせるのかどうか、いまこのときまで彼は半信半疑だった。
だが、使いこなせるどころではない。あんな高い場所であの怪物を相手にしながら、よくもまあ……。
正直に言ってしまえば、ベルターは心のどこかで、ラキスの魔法剣から炎が出なければいいとさえ思っていた。有翼の半魔を聖なる魔法の炎が認めたという事実が、どうにも納得できなかったのだ。
と、肩越しに声が聞こえた。
「派手な奴……」
後ろにいたディークリートのひとり言だった。
ディーは驚きを通り越し、ほとんどあきれながら空を仰いでいたのだが、ベルターの視線に気づくと付け足した。
「突発的に派手になるんですよね、あいつ。普段は地味なくせに」
ベルターが横目でにらむ。
「無駄話はあとだ」
無論ディーのほうも話を続けるつもりはない。二人とも走っている最中だったのだ。
カシムやベルターについてきた隊の兵士たちも、一斉に移動している。
急き立てるように鳴り響く複数の角笛。瘴気の吹き溜まりである銀の沼が、亀裂の影響か、それとも怪魚の影響か、大きく揺れていた。
そしてそこから、まるで釣り上げられるような勢いで、ヴィーヴルたちが次々と姿を現していた。
沼をめぐる円陣に走り込むと、ディーは無言のままベルターから離れた。
櫓の長弓、地上の弩、剣に槍、それらの迎撃から逃れた魔物を浄化するのが、使い手のいまの役回りだと心得ている。
と言っても、本音はいますぐベッドで寝たいくらい疲れ果てていたのだが。
昨夜のおれは、いったい何をしたんだろう。特に動いた覚えもないのに、どういうわけかくたくただ。
まさかこんなときに、レヴィアタンなんかに出くわそうとは。
思いながらも、ヴィーヴルに体当たりされて倒れた兵士のそばに駆け寄った。
疲労を気取られるような真似などしない。魔法剣の一閃が、襲ってくる敵を浄化の炎で包み込む。
砕け散る魔物から視線を上げると、彼は再び空に目をやった。
空間を裂いて生じた亀裂は、最初より細くなりながら、いまだ上空に残っていた。たしかに裂け目なのだろうが、曇天の雲を背景にしているため、得体の知れない何かが宙に浮かんでいるようにも見える。
その下方で、ヴィーヴルに乗った昔馴染みの半魔が、巨大魚を相手に闘っていた。
怪魚は周囲を炎で巻かれて怒っていたが、いまのところ昔馴染みを丸呑みにする気はないようだった。ラキスのほうでもわかっているのか、驚くほど相手に近づいている。
好き放題に剣を振って、なんだか楽しげにすら見えるほどだ。
だが、一人であれを浄化しようとするのはあまりにも無茶だと、ディーは思った。せめて、もっと高度を下げてくれれば、加勢しやすいのだが──。
「村のほうに行くぞ!」
兵士たちの間から、悲鳴のような声が上がった。うるさい相手にうんざりしたのか、レヴィアタンが急に方向転換したのだ。
行く手にひろがるのは広い畑だったが、それをはさんだ向こう側には生粋の人々たちの集落がある。畑のきわの住人たちは前もって避難しているはずだが、その向こうにも別の集落があり、そんなほうまで泳いでいかれたらもう打つ手なしだ。
ディーの血の気が引いたとき、何本もの矢が唸りを上げて空に向かった。命中させるためというより、怪魚の行く手を阻み方向を変えさせるための矢だった。
それが効果を発揮して、レヴィアタンが尾びれをひるがえすと別方向に向かう。すると今度はそちらを狙い、空に射掛ける号令が下った。
「放て!」
指示しているのはカシムだった。
王城付き討伐隊の分隊を率いて、ここに駆けつけていた彼は、いまこの時点では分隊長の肩書きだった。それで分隊長のとっさの判断で、配下の兵士たちを沼ではなく空の防衛戦に当てたのだ。
レヴィアタンを狙えば、ラキスとその乗り物である魔物に当たるかもしれない。
何がなんだかさっぱりわからないのだが、いま地上の自分たちにできるのは、怪魚が他の場所に逃亡しないように空路を阻むことだけだ。
カシムは実際、どうして罪人であるはずのラキスがこの場で闘っているのか、どうして敵であるはずのヴィーヴルが彼を乗せているのか、そしてあの男が──マリスタークのコンラート・オルマンドが、どうしてあんな凶行に及んだのか、全然わかっていなかった。
ヴィーヴルの群れを駆逐するだけのつもりでドーミエに来たというのに、この事態は何なのだ。
なかでも、もっとも理解できないのがコンラートの凶行だ。
あのかたはエセルシータ姫の結婚相手ではないか。それが従者を一太刀で……信じられん、頭のおかしい男だったのか?
おかしいのはラキス・フォルトのほうだと信じていたのだが。
カシムだけではなく、討伐隊でも王城内でも、もと勇者様が嫉妬に狂っておかしくなったのだという見方が一般的だった。
たしかに、そんなことをする人ではないと思う者も多かったのだが、次期伯爵を襲ったり婚礼に乱入したりしたのは事実である。
だとすると、原因は嫉妬しか考えられない──つまりそれくらい、彼とエセル姫は傍目にも恋仲に見えたのだ。
だからといって、結婚相手に濡れ衣を着せるなどとんでもないと、誰もが思っていたわけなのだが……濡れ衣?
カシムにはわからなかったし、いまはそんなことにこだわる場面でもなかった。
それで彼は、迷わず矢を空に射る作戦を採用したのだった。なぜなら以前、崖縁の荒れ地でインキュバスを相手にしたとき、勇者様がそういう指示を出したからだ。
追いかけるのも手間になるから、周囲を射ろ。逃げる敵を自分のほうに追い返せと。
それが自分に対する援護になるのだからと。
「援護!」
カシムが声を高めた。上空に向けて、矢が一斉に飛んでいった。




