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悪夢のようなその一瞬、まるで呼応するかのように、空中に湧き出してきたものがあった。
青くゆらめく、あまたの鬼火だ。突然上空に現れて、風もないのに乱れ飛びはじめる。
鬼火は凶兆であり、真下にいる人々はあわてて家の中に逃げ込むか、頭をかかえてすわりこむのが常だった。
だが、いまの状況でそれをした者は一人もいない。地上の真紅が鮮烈すぎて、ほかの色に気づく余地などどこにもなかったのだ。
至近距離で斬られた従者が、跳ね飛ばされたように回転しながら地面に倒れ込んでいく。鮮血があとを追いかけ、助けに駆け寄った兵士たちの身体をともに濡らした。
兵士たちはかまわず介抱しようとしたが、無駄であるのは一目瞭然だった。彼らにできたのは、何ひとつ罪のない従者をこんな目に合わせた張本人の姿を、ただ呆然と見上げることだけだった。
シャズは、血まみれの剣と自分の手とを見下ろしながら、少し驚いたような顔つきでたたずんでいた。
しばらく無言だったが、やがて色のない唇がわずかに動き、その隙間からささやく声がもれ出した。
「──噴き上がる葡萄酒……」
その声にはかすかな旋律がついていた。クリセダの裏町でひそかに歌い継がれている、古いバラッドの一節だ。
「あふれ出す果汁、滴り落ちる甘い蜜……」
酔い痴れたような美しい声が、妖しい言葉を紡ぎ出す。
「紅玉、珊瑚、柘榴石。そんなものは消え失せよ。天上の聖に用はない──」
伏せられていた視線が上がり、少し離れた場所に立ち尽くす、黒翼の若者の姿をとらえた。
殺人鬼はふらりと足を踏み出した。従者よりもさらに邪魔な相手──婚礼を台無しにしてくれた相手のほうに、近づいてこようとした。
だが、近づきたいのはラキスも同じだった。
ラキスは幌から出たばかりで、まだ兵士に腕をつかまれている状態だった。その手を振り払うと、彼は兵の腰に下げられていた剣の柄を、いきなりつかみ取った。
抜き身の剣を握りしめ、シャズに向かって駆け出していく。
ベルターやカシムも動きかけていたのだが、ラキスの動きは誰よりも速かった。彼らよりシャズに近い位置にいたせいもあるが、たとえ遠かったとしても、やはりラキスが速かっただろう。
なぜなら、ベルターたちは殺人鬼を捕らえるために動いたが、ラキスは斬り捨てるために動いたからだ。
剣士であることを生業として暮らしていても、ラキスはいままで、人の命を剣で奪ったことがない。自分が斬るのは魔物だけ、討伐するのは魔物だけだと固く心に決めていた。
人の役に立ちたくて、人の命を守りたくて、魔法の炎を召喚した。取るに足りない少年の叫びに炎が応えてくれたのは、その願いが聞き届けられたからだと思ってきた。
だから、はぐれ剣士になってからも、魔性に関わらない単なる護衛はけして引き受けなかった。野盗に襲われたときでさえ、相手を殺めることだけはしたくないと必死になった。
それが魔法剣を持つ彼の誇りだったのだ。
だが、もう我慢できない。カーヤやドナだけでなく、従者の尊い命までよくも──。
振り上げられた剣先が光る。あたりにいた兵士たちは誰も制止しようとせず、酩酊した目つきのシャズに、それがよけられるはずもない。
ふたたびの真紅が飛び散ろうとした、そのときだ。
【ラキスさま!】
突然響いてきたのは、場違いにも程がある、無邪気な女の子の声だった。
それとほぼ同時に、局所的な地震のように、ラキスとシャズの立っている地面が激しく揺れた。
足元の土砂が大きく持ち上がって崩れ落ちる。土をはねのけながら地中から上がってきたのは、一体のヴィーヴルだった。
土砂と魔物の向こう側でシャズがひっくり返り、ラキスの視界から消えていく。ラキス自身は転びはしなかったが、さすがに勢いをそがれ、剣を落とさないようにするのが精一杯だ。
しかも、現れたヴィーヴルがぐいぐいと顔をすり寄せてくるため、そのせいで立っているのがますます難しくなった。
【ラキスさま、いた】
ワニか何かを彷彿とさせるうえ、一抱え以上ある竜の頭だが、あどけない声はたしかに人間のものだった。どうやら脳内に直接響いているらしい、その声の主に、ラキスは思わず問いかけた。
「チャイカ……なのか?」
【あい】
その場に出てきたのはチャイカだけではなかった。あちこちで地面が揺れ、持ち上がった土砂が音をたてて崩れる中、何体ものヴィーヴルたちが姿を現しはじめていた。
仰天した兵士たちが、揺れに足をとられながらも剣を抜き、槍を握って立ち向かおうとする。
だが、その行動を別の声が──脳内ではなく耳に響く叫び声が規制した。
「攻撃しないでくれ。敵じゃない!」
ひときわ大きなヴィーヴルの翼の下から這い出してきたのは、行方不明になっていたはずのディーだった。
彼は翼にかばわれながら地上に上がってきたのだが、泥をかぶらないわけにはいかず、叫んだあとで盛大に咳き込んだ。
それから顔を上げ、なんとか続きを叫ぼうと息を吸い込み……そしてそのまま動きを止めた。
乱れた髪の間から垣間見えた光景に、驚愕したのだ。
ベルター・ローデルクが土砂をよけながら走り寄り、義弟に声をかけようとした。
彼は無論「大丈夫か」などという凡庸な言葉はかけず、「どこに行っていた、なんで魔物なんかのそばにいる」と叫ぼうとしていたのだった。叫びながら討伐の魔法炎を放つつもりで、すばやく剣も抜いている。
だが、ベルターもディーと同じく、それらのことをおこなう前に動きを止めた。振り仰いで上空を確認したのは、ディーの視線を追ったからだけではなく、第一座としての直感だったのかもしれない。
「下は攻撃するな!」
立ち尽くした一瞬後、ベルターは大音声でこう怒鳴った。右手を上げて指し示しつつ、さらに叫ぶ。
「敵は上だ。上に……!」
その場にいるすべての兵たちが、指先を追い空を見上げて、乱舞する鬼火に気づいた。そして鬼火が取り囲んでいるものをみつけて、瞠目した。
それは、空中にあらわれた一筋の線だった。
どす黒い線は広大な空全体と比較すれば本当に短く、まるで空に出来た小さな刺し傷のように思われた。小さな、だが底知れぬほど深い刺し傷だ。
その刺し傷がみるみるうちに切り傷に変わっていくのを、地上の人々は凍りついたようにみつめていた。
蒼穹を裂いて走る<亀裂>が、ひろがっていく瞬間を、彼らはいま目の当たりにしているのだった。
垂れこめた雲の下、青くゆらめく鬼火をまといつけながら、亀裂が大きくなっていく。
森の瘴気があふれ出てあやしげな沼を形成するほど、不安定になっていた土地だ。大気の加護も大地の守護も薄くなり、ぎりぎりの均衡を保っていたのだろう。
その均衡が、従者が斬られた瞬間に破られたのだ。
そして、均衡の破れた場所から現れ出るものといえば、決まっているのだった。
「レヴィアタン……」
いくつかの声が、うめくように同じ名前を呟いた。
伝説の魔物、深淵に棲む魔性の怪魚。
それが黒々と細い裂け目をくぐり抜け、大気中にぬるりと滑り出てくる。
苦もなく全身を出し終えると、その生き物は頭の側面から飛び出た眼球を動かして、地上の風景を確認した。それから悠然と尾びれと背びれをゆらめかせ、下降を開始した。
地上で起きたばかりの殺人も悪夢だったが、まさしく魚のかたちであるものが大気中から現れて、下降してくる様子もまた、悪い夢としか言いようのないものだった。
だが夢ではない。単なる伝説ではなく、絵物語でもない。彫刻された意匠ではなく、絵筆で描かれた絵画でもない。
明らかに生きて意志を持つ、深淵の魔物だ。
みるみるうちに地上に達したレヴィアタンは、大海の鮫や鯨はこうであろうかと思わせるほどの大きさだった。獲物に狙いをつけたらしく、濁った目玉が前方に向けられる。
その視線の先にいるのは、シャズだった。
シャズは完全に背中を向け、白濁した沼地に向かって走っているところだった。
怪魚から逃げていたわけではない。斬りつけてくる剣から逃れて、沼地の討伐隊のもとに行こうとしていたのだ。
頭の中には手柄をたてることしかなく、上空に出現した無音の怪物には何ひとつ気づいていなかった。
その彼の背後で、完全に降下したレヴィアタンが大きく口をひらいた。
下顎が地面にこすれて草木がはじける。
ここまでひらくとは信じ難いほど巨大な口だ。自分の顔を割り、身体を裏返してしまわんばかりのひらきかただった。
その口を駆使して、レヴィアタンは、ようやく振り向き愕然とした男の全身を、まるごと呑み込んだ。
呑み込むと、海面の餌を捕らえたあとの海鳥のように、急上昇して地面から離れた。
すべてが一瞬の出来事だった。
目撃者となった多数の兵士たちは、縛られたように身動きもできず、立ち尽くした。地下から上がってきたヴィーヴルの群れですら、驚いた様子で翼を縮めてじっとしている。
異様な沈黙の中、ひとつの若い声だけがはっきりと皆の耳に届いた。
「へえ……」
気軽とさえ言える声だった。
皆が思わず振り向くと、翠緑の瞳をきらめかせてラキスが笑っていた。
「天罰って本当にあるんだ。創星の神もなかなかやるな」
言い放ちながら、彼は右手に握っていた長剣を投げ捨てた。
人間相手の剣はいらない。もう必要ない。
必要なのは、ただ腰に帯びた魔法剣のみ──。
前方に向けていた視線を転じると、彼は自分の横にいるヴィーヴルにやさしい口調で話しかけた。
「チャイカ、頼みがある。乗せてくれるか?」
チャイカは目を丸くして事件をみつめていたのだが、問われるとすぐにうなずいた。
その首すじを軽く叩き、感謝の意をしめしながら、ラキスはすばやく黒い背中に飛び乗った。
ためらいも恐れもない動作で、兵士たちを見渡して声を上げる。
「ここにいるヴィーヴルたちは味方だ。討伐するな。それから」
味方である群れのほうにも釘を刺す。
「あんたたちも絶対に動かないでくれ。いいな?」
返事を確認する暇もなく、振り仰いでふたたび前方を見据えた。
獲物を喰らって上昇したレヴィアタンが、今度は沼に向けて下降していくのが見える。次なる餌を求めているのだ。
その後ろ姿をにらみつけながら、ただひと声、こう叫んだ。
「チャイカ、行け!」
【あい!】
張り切った女の子の返事とともに、黒い飛膜の翼が持ち上がり、大きくはばたいた。
翼のはばたきが風を呼び込み、さらに上空の風を呼ぶ。
ヴィーヴルの飛翔は、前を行く怪魚の泳ぎよりもはるかに速かった。
シャズの歌は第一部の序を、ラキスの「天罰」は第二部五話の彼自身の台詞を、それぞれ受けています。




