47
幌の中で、ラキスは浅い眠りから目覚めていた。ベルターが感じとった嫌な空気を、彼もまたはっきりと感じていたのだ。
剣身の内側で、炎の動きが乱れているのがわかる。ヴィーヴルの巣窟近くに到着した証拠だろうと思ったが、胸騒ぎはひどくなる一方だった。
馬車はすでに停止しているのだが、彼をおろして戦地に向かわせようとする気配はまったくなかった。ただ周辺にいる兵士たちの声高なざわめきだけが聞こえている。皆、何かを見て驚いているようだ。
ラキスは我慢できずに腰を浮かせると、幌の継ぎ目と思われる部分を両手でつかんだ。思い切りよく左右に引っ張り、さらに破って間から外をのぞいた。
そして、周囲の兵士たちと同様に目を見開いた。
部隊は、わずかだが傾斜のついた土地の上のほうにいたため、下側に向かっている景色をよく見渡すことができた。
ひなびた農村にふさわしく、民家や農具を入れる小屋、手入れされていない草木などが見えるのだが、そのすぐ先に、魔物の巣窟の出入り口であろう場所がひらけている。普通なら、開墾途中の荒れ地のような状態になっているべき場所だ。
だがいま、そこに見えているのは地面ではなかった。
白濁した蒸気のような何かが一面に覆いかぶさり、土の色は一切ない。朝もやの立ち昇る小さな沼が、一夜にして忽然と現れ出たかのようだった。
沼の周囲には、遠巻きでありながらも多数の兵士たちが配置されている。昨日から駐留しているドーミエ隊に加えて、王城付き討伐隊も混じっているにちがいない。
淵をめぐる何か所には小型の櫓が組み上げられて、上では長弓を握った長弓兵が待機していた。
と、その兵がふいに動いた。響き渡る角笛の音に反応したのだ。羊飼いが吹き鳴らせばのどかに聞こえる角笛が、ここでは魔物の出現を知らせる合図として使われている。
左腕で強く弓を突き出した兵士が、矢をつがえた右手を顎まで引き寄せる。水面ならぬ白濁した面に向けて、狙いを定めた。
ほぼ同時に、一体のヴィーヴルが、沼から噴き上げられてくるように出現した。その後ろからもう一体。
蒸気が大きく流れ動き、波のごとく揺れている。その波をかきわけながら、二対の黒い翼がはばたき上がってこようとした。
だがそうなる前に、放たれた矢が最初の一体をたちまち射抜いた。魔物の身体が反り返って下に落ち、水しぶきをあげるように蒸気の中に消えていく。
もう一体は攻撃を逃れたが、淵の外に向かおうとして、今度は櫓より下の位置から飛んだ矢の出迎えを受けた。淵から離れた場所で弦を引き絞って備えていた、弩兵たちの仕事だった。
長弓と弩で連携して、上下の位置からたちどころに二体を仕留める。時間にすればあっというまの迅速さだ。
沼の景色は奇妙だったが、討伐自体はいまのところうまくいっているらしい。
ラキスが緊張をゆるめて思ったとき、破った幌の反対側から、男たちの話す声が近づいてきた。会話が聞き取れるほどの距離まで寄ってくる。
声の主の一方はベルター・ローデルクだった。
「では、あの霧まがいのものは明け方前に?」
「急に地面から湧き出してきたらしい。我々が到着したときには、もうあんな状態になっていた」
「瘴気の吹き溜まりか……」
相手の男は、先に現地入りした王城付き討伐隊の者だろう。対等な口をきいているから、ある程度の地位があるようだ。
「真下にいるヴィーヴルどもの仕業だな。これだけの瘴気を集めるとは、いったいどれだけの数がもぐっているのか……」
「恐ろしい魔力だよ。それに沼に近づくこと自体が危ない。確認しようとのぞきこんだ偵察兵が……引き込まれるように二人沈んだ」
どこかで聞いた覚えのある声だと、ラキスは思った。気のせいかとも思いつつ、少し考えてから思い当たる。
王城にいたころ、討伐隊の一員としてともに闘ったこともあるカシム副長だ。髪を短く刈り上げて、いつ見てもやる気のある人物だった──好かれた覚えがまったくないので、思い出しても特にうれしくなかったが。
立ち話をしている二人は、そばの幌馬車にはまったく無頓着に会話を続けていた。
定石通りの手順で行うつもりだとカシムが言い、ベルターも同意する。つまり先制攻撃だ。
向こうが出てくるのを待っているだけでは埒が明かないので、こちらから巣窟に向けて矢を射掛ける。群れが地上に上がってきたところを一気に叩く。人数がそろっていなくてはできない作戦だ。
総指揮をとるのは、地元をよく知るドーミエ隊の隊長がふさわしいので、そちらとも打ち合わせておきたいとベルターが言った。
それから、ふと思い出したようにたずねた。
「第五座の使い手も来ているはずだ。彼はいまどこに?」
「……ディークリート殿のことか」
答えるカシムの声が、若干くもった。
「実はおれも会っていないのだ。昨夜から姿が見えないらしくて」
「なんだと。まさか魔物の襲来で」
「いや、それはない。ドーミエ兵から聞いた話では、この討伐に気がのらなかったようだから離脱したかもしれないと。昨日もけっこう取り逃がしていたらしいし……」
相手の顔に怒気が走ったのを見て、あわてて付け足す。
「あくまで聞いた話だ」
するとベルターは、怒りの表情のままこう呟いた。
「肝心なときにいないとは。あの役立たず……!」
義弟のことを悪く言われて怒ったのかと思ったのだが、ちがったらしい。
ベルター・ローデルクはふいに動くと、つかつかと幌馬車に近づいた。そして勢いよく幌の後ろをひらき、つられてのぞいたカシムにその内部を披露した。
「第五座が迷惑をかけて失礼した。だが幸い、このとおり別の戦力を連れてきている」
はたしてそこには、もと勇者様という肩書を持つ黒翼の半魔が、緑の瞳をカシムに向けてすわっていた。
カシムは口をパクパクさせた。驚きすぎて台詞が出なかったのだ。
ラキスのほうも無言だったが、これはいま聞いたばかりの話──ディーが行方不明だという情報で頭がいっぱいになり、気の利いた挨拶が出てこなかったためだった。
もうすぐ掃討開始だから準備しておけ、と、ベルターが厳格な調子でラキスに告げた。
近くにいた配下の兵士には、囚人の足枷をはずすよう命じる。鎧は無理でも、肘や膝当てくらいはちゃんとつけさせろという指示も追加した。
「ベルター、これはいったい」
ドーミエ隊長のもとへと歩き出したベルターを、カシムがあわてて追いかけた。
「あいつは収監されたはずじゃないか。どうしてまた外になんか……」
「戦力になる。きみはいっしょに闘ったことがあるんだろう?」
「それはそうだが……」
カシム副長にとって、いまのラキス・フォルトはどこをどう考えても罪人だった。
マリスターク城の庭園で次期伯爵を襲い、大聖堂にまで乱入、エセル姫を拉致して逃亡──牢獄行きも当然だと思われる相手なのだ。
「魔法剣を持っている。使えるかどうかは正直言ってわからんが、だめならただの剣で闘わせるつもりだ。責任はわたしがとる」
「いや、しかし……戦力なら、ほら、あそこにもあるぞ。何もわざわざ罪人をかり出さなくても」
カシムが何かをみつけたように声を強めたので、ベルターもそちらの方向を振り向いた。そして、わずかに眉を寄せた。
坂道の上のほうに、遅れて到着した分隊の姿が見えている。意外にも、次期伯爵とお供の一行が追いついてきたのだ。オルマンド家の紋章を染めた旗が、かかげた槍の先でひるがえり、援軍であることを主張していた。
伯爵が援助してくださったのだな、と、カシムが言った。
「ああ……次期伯爵たっての希望もあって」
「参戦なさるおつもりか。それは頼もしい……」
だが、二人の会話は尻すぼみになった。
なぜかぐずぐずしている分隊から、二人の人物が歩み出てこちらに近づいてくる。その様子が明らかに異様な雰囲気だったのだ。
「コンラート様、落ち着いてください。激励だけとお約束したではありませんか」
「半魔が先に手柄をたてたらどうするのだ。わたしとて魔物の一匹や二匹は討てる」
「そう簡単にできるものではありません。あなた様は魔物の恐ろしさをご存じないのです」
「恐ろしいことくらい知っている。邪魔をするな」
大声で言い合う内容からして、片方はコンラート・オルマンド、もう片方はその従者のようだった。
コンラートはかろうじて長剣を腰に佩いているが、従者はまったく武装していない。どうやら本当に、激励だけで帰るつもり──少なくとも従者のほうは、そういう話法で主人を説得してここまでやってきたらしい。
あたりには何人かの兵士たちが散っていたが、みな、貴族の内輪もめをあぜんとしてみつめている。
同じくあぜんとして眺めていたカシムの口から、自然とこんな呟きがもれた。
「あれはいったい……誰だ?」
カシムは次期伯爵とは直接の面識がなかった。しかし、いまその質問を口にしたいのは、面識が十分にあるはずのベルターのほうだった。
誰だ……? まるで何かにとり憑かれたような様子でこちらに近づいてくる、あの男は。
マリスタークの次期伯爵、評判がよく人望も厚いオルマンド家の跡取り息子──あれが本当にそうなのか?
「お気をたしかに、コンラート様」
「気はたしかだ。わたしは魔物を討って手柄をたてる。そして今度こそエセル姫と結婚する。半魔などに渡すものか」
「エセルの名前を貴様が呼ぶな!」
ふいに激しい声が割り込んだ。
はっとして振り向いたベルターたちの視線の先で、怒りに身をふるわせたラキスが、青ざめながら馬車の外に立っていた。
同じく振り向いたコンラートが、まわりに聞かせたいかのように叫ぶ。
「見ろ。罪人だというのに、あいつはまだ姫様をあきらめていないようだぞ」
「おやめください、コンラート様」
ラキスが反論する前に、勇敢な従者が主人をいさめようとした。軽いもみあいになり、コンラートの長髪をまとめていたリボンがはずれる。
「そこをどけ」
「そうはいきません。わたしは伯爵からあなた様のことを頼まれているのです。いい加減に──」
「どけと言うのに!」
ほつれた髪がひろがった。コンラートの手が……コンラートに成り代わったシャズの手が、腰にさげていた長剣を引き抜いた。
そして、目の前の邪魔な従者をいきなり斬った。




