45 (牢獄)
換気用の格子窓からにじんでくる青みを帯びた明るさは、冷気と湿気に吸い取られて、当分床まで届きそうもない。
石壁にかこい込まれた牢獄内には、夜の気配がいまだ色濃く居座っていた。
それでも、夜明けが訪れたのはたしかなのだろう。その証拠に、鉄格子の内側には固い雑穀パンと水だけの朝食が差し入れられ、看守が少し怯えた様子で、じっとこちらを監視している。
看守の気持ちは、なんとなく理解できる気がした。囚人が一夜のうちに魔物に反転したように見えて、怖気づいているのだ。
囚人は石床に直接胡坐をかき、両手を後ろについた横柄な態度ですわっている。黒い両翼が床につっかえないよう、上に持ち上げているのだが、そうすることでかなり大きく飛膜をひろげた状態だ。
そうでなくても陰鬱な独房内で、壁に触れそうなほどに伸びた黒い翼。そんな翼を背景にして、けだるげに腰をおろしている半魔……生粋の人間にとって、それが恐怖を呼び起こす光景であるのも無理ないことかもしれなかった。
だが、看守の隣に立っている大柄な貴族風の男は、恐怖とは無縁であるようだった。無口な看守にかわり、遠慮なくラキスに声をかけてくる。
「独房入りがずいぶんこたえているようだな」
「……育ちがいいもんで」
「そうしていると、まるで魔物そのものだ」
「それはどうも。もしかして討伐するためにわざわざ塔の最上階まで?」
「わたしはそこまで暇ではない」
鉄灰色の髪を後ろで束ねた眼光鋭い男の名は、ベルター・ローデルク。大聖堂でテグやサンガに容赦なく剣を振った、ステラ・フィデリスの使い手だった。
長身を包む上質な深緑のマントの胸には、銀糸で縫い取られた円環の紋章が光っている。おそらくまだ二十代ではあろうが、ギルド筆頭の地位にふさわしく自信に満ちて堂々とした──あるいは尊大な態度だ。
ベルターはステラ・フィデリス第一座の一人であり、主座たるマドリーン・ローデルクの夫だった。ということはつまり、ディークリートの義理の兄ということでもある。
半魔に剣を向けることをためらわないうえ、庶子の存在をろくに認めないローデルク家の、典型的人物。そんな人物と早朝から会話する気にはとてもなれないと、ラキスは思った。こっちは睡眠不足もはなはだしい身の上なのだから。
何しろ昨夜は一晩中、自分の全身が反転するのではないかという絶望的な考えに苛まれ続けて、まともに眠ることができなかった。
大聖堂での大立ち回りからドーミエへ、そして捕らえられて牢獄へ。滅多にないほど身体は疲れ果てていたが、安眠とは程遠い状況だ。
うつらうつらしては目覚めて、自分に変化がないことを確かめる。浅い夢に引き込まれては、また戻る。そんな時間を繰り返すうちに、いつのまにか明け方を迎えた。
絶望的に苦しかった夜というものは、過去に何度も──たとえばコルカムの物置小屋でうずくまりながら──経験したし、その頂点は当然ながら養父母を失った日の晩だった。
だが、そこまでではないにしても、昨夜のつらさはかなり上位に食い込んだといっていい。いっそ魔物になってしまえと本気で願った程度には。
魔物になれば、悩んだり恐れたりしなくてもすむ。不要な情念にとらわれたりしなくてすむ。
足枷を砕き鉄格子を破って、こんな場所からも出ていける。誰にも邪魔されずにあの殺人鬼のところまで飛んでいって、引きちぎってやることだってできる。
そう思う一方で、そんなやりかたで相手を葬ったりしたら、どんなに彼女が──心やさしいあのお姫様が、悲しむだろうかと考えた。
それにもちろん、カイルとリュシラだって喜ばないに決まっている。第一、首尾よく引きちぎれたとしても、あの男の名誉は完全に守られてしまうだろう。
それではいったいどうすれば……。
結局答えは出なかったが、一晩中そんなふうに過ごしていて、まともな顔色になるわけがない。反転してもいないのに、魔物みたいに人間離れした囚人の出来上がりだ。
「忙しいなら、さっさと帰りなよ」
投げやりな口調で、ラキスは相手を追い払おうとした。
「おれだって、あんたと話すほど暇じゃない。眠いんだ。あんたを見ているうちに、ようやくちょっと寝られそうな気が……」
そこまで言ったところで、彼は声を呑み込んだ。黙っていた看守も、思わず息を引き目をみはっている。
第一座の使い手が、腰に佩いていた長剣を引き抜いたのだ。
がっしりした手が、ギルドお墨付きの魔法剣を前にかかげる。罪人のために造られた監獄塔の内部にあって、場違いなほど清らかな魔法の炎がひときわ輝いて見えた。
鉄格子越しに向けられてくるその剣先を、ラキスは吸い込まれるようにみつめた。
炎はけして大きいわけではない。暗い中なので普通以上に目立っているが、透き通った剣身の芯として、ちらちらと細くふるえているだけだ。
剣の持ち主が低い声色で呟いた。
「この程度の反応では、おまえを討つことはできない。命拾いしたな」
ラキスは返事をしなかった。それこそ一気に眠気がやってきた気がして、まばたきする。
細くはかない炎の芯は、魔物がこの場にいないことの証明だ……自分は反転していないと思っていたが、こうして証拠を前にすると、緊張していた身体がゆるくほどけていくような気がした。
といっても、目の前の使い手は、親切心から剣を見せてくれたわけではないらしかった。冷然とした調子のままで、こう続ける。
「おまえの剣はわたしが預かっている。勝手に召喚したんだな。一度ならず二度までも……」
「……」
「本来なら返納してもらうのが筋だが」
抗議の声をあげようとしたはぐれ剣士を、ベルターの台詞が制した。
「あいにく、目の前に魔物狩りの時間が迫っている」
「魔物……?」
「ヴィーヴル狩りだ。マリスタークの兵たちを連れて、いまからドーミエ・シザの集落に向かう。おまえもそれに同行させるというのが、わたしの考えだ」
「……裁判前の囚人なのに?」
慎重な口調でラキスがたずねた。意外過ぎて、相手の意図がまったく読めなかったからだ。
マリスターク伯の許可は得ている、とベルターが言った。手柄をたてたら刑の軽減をはかってやってもいいが、たてなかったら逆に死罪。そう思っておけと付け加えた。
ラキスは、見るからに品がよく温厚な外見をした伯爵の姿を思い浮かべた。その息子の残酷な所業とは、あまりにもかけ離れた雰囲気だったが、親子であることを考えれば信用などできない。
しかし裁判をやってくれる気があるのは確かなようだし、ベルターの言葉もそれを裏付けている気がする……。
どう受け取ればいいのか考えながら、ラキスは相手を凝視したが、ベルターも何かを逡巡するように彼をみつめ返していた。それから、なかばひとりごとのような口調でささやいた。
「……本当に召喚したのか」
「え?」
「召喚できたのか、そんななりをして……」
黒々とひろがる翼に視線を向ける。
「使えるのか、聖なる炎が宿った剣を──」
翠緑に変化しきったラキスの瞳に、きつい光がひらめいた。眠気が遠のき、頭の芯が冷ややかに目覚めていく。
「自分の目で確かめればいい」
「……」
「おれは一人で炎を呼び、一人で受け取った。儀式なんてものがなけりゃ呼ぶこともできない、あんたらとはちがう」
わずかな微笑を浮かべた囚人の顔を、ベルターはいまいましげににらみつけた。
「一生閉じ込めてやりたいところだ」
唸るように吐き捨てると、さらに苛々した調子で先を続けた。
「だがそれでは、おまえに召喚された聖なる炎が無駄になる。魔物を浄化する、ただそれだけを目的として、炎は大地から上がってくるのだ。それが無駄になるのを横目で見るのは、我慢できない。呼び出した張本人が、剣を使いもせずにぐうたらしているのも許せない」
それは、いかにもステラ・フィデリスの使い手ならではの持論だった。若いながらも第一座の地位にいる男は、剣を鞘におさめると、語るのを打ち切った。
「出ていくからには、ちゃんと働け。そのパンをさっさと食べろ。出発は早いぞ」
食事を見ている気はないらしく、ベルター・ローデルクは踵を返して立ち去ろうとした。艶のある深緑のマントの背に向けて、ラキスは思わず声をかけた。
「待ってくれ。マリスターク伯爵に伝えてほしい」
「何を」
「自分の息子をよく見ろと」
「……」
「人殺しだ──昨夜さんざん自白した」
ベルターは不愉快もきわまった顔つきになった。
「その件について、それ以上言わないほうが身のためだ。さすがのわたしでもここから出せなくなるし、裁判の開催だってあやしくなるぞ」
そう忠告すると、粗末な朝食をのせた盆と看守を残して離れていった。




