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水面に叩きつけられて沈むことを、覚悟した。反射的にきつく目を閉じ、息を止めた。
だが、ディーの予想は当たらなかった。軽い衝撃とともに、彼の身体は水面ならぬ場所に投げ出されていた。
真綿か麦藁の山の上にでも落ちたような感触だ。どうやら井戸は枯れていて、落ち葉が堆積していたらしい。
井戸に落下となると、嫌でもよみがえってくる思い出があったため、彼は不本意ながらその思い出を反芻した。
井戸の縁から落ちただけでなく、自ら潜っていってしまった男の子──あのときは馬鹿な奴だと思ったが、まさかいい大人になった自分が、落ちる羽目になるとは思わなかった。
ディーは息をついて身動きすると、肩や頭をさすりながら起き上がろうとした。両手をついて顔を上げ、目の前にひろがる風景を見やる。
そして、ようやく気がついたのだった。自分の落ちた場所が、枯井戸の底などではないということに。
そこは、暗く濁った空と地面がただ茫漠とひらけている、異空間としか言いようのない場所だった。
空の大部分を、雨が降る直前のように重たげな黒雲が覆っているが、地面の側にはうっすらとした明るさがただよっている。天と地の境界線は曖昧で、互いに溶け込みあっているようだった。
しかし、井戸に落ちたはずなのに天だの地だのということがあるだろうか。少なくとも、ついた掌から伝わってくる感触はどことなくやわらかくて、普通の地面とはちがう気がする。
視線を落とすと、彼は自分がすわりこんでいる場所に目をやった。そして、その付近一帯が半透明に透けていて、ぼんやりと真下が見通せることに驚いた。
加えて、見通したそこに、ヴィーヴルの群れがつどっていることにも驚いた。
翼をたたんだ何十体ものヴィーヴルたちが、目を閉じ身体を丸めて、お互いの身を寄せ合っている。動くものはない。
まるで、一面に凍りついた湖の上から、魔物の群れを見下ろしているかのようだった。
幻想的とさえいえるその光景に、息を詰めて見入りながら、ディーは腰に佩いた魔法剣の柄に手をかけた。剣身の中で、わずかながら炎が反応していることを感じとる。
だが、鞘から剣を引き抜くまではいかなかった。反応はごく微弱なもので、闘う必要があるとは思えなかったし、それに──。
彼はひと呼吸置くと、下方で静まり返る魔物に向けて声をかけた。
「──チャイカ」
あー、という間延びしたのんきな声が、小さく返ってくる。
続いて、先ほど井戸端で聞いた若い女の声が、再び聞こえてきた。
【寝言だよ。面白い子だよね、起きてるみたい】
背後を振り返ると、少し離れたところに声の主が立っているのが見えた。黒い翼を持った娘が一人たたずんで、こちらに顔を向けている。
「寝言……」
ディーが呟くと、相手は当然だと言うようにうなずいた。
【うん。夜だから、みんな寝てる】
「……」
どことなく全身が透きとおって見える相手を、ディーはじっとみつめ返した。
そして、自分の目がおかしいのではないことを悟ると、ゆっくり立ち上がり、心を静めながら相手の姿と向き合った。
純朴そうな顔立ちとしっかりした身体つき、粗末なワンピース。村人たちの仲間であると一目でわかる外見の娘だった。目尻の下がった瞳には愛らしさがあり、やさしい性格を感じさせる。
彼女はルイサやマージとはちがい、服の上、左肩から右下へと大きな布をななめに掛けて、時おりそれを押さえていた。軽くなでて、あやしているようにも見える。
まんなかに膨らみのあるその布が何であるかを、彼は知っていた。生まれて間もない赤ん坊を、すっぽりおさめて抱くための布だ。
おんぶ紐を使うか前で抱くかは好みによるらしいが、翼ある女性なら、もちろん前しか選べないだろう。
この不思議な空間で赤子を抱くような娘は、おそらくたった一人しかいない。
名前は──。
「カーヤ……?」
我知らず、死者への敬意を含んだ声で、ディーはその名を呼びかけた。
思ったとおり娘が──娘ではなく母親だ──わずかに表情をゆるめて肯定する。彼は思わず呟かずにはいられなかった。
「天に還ったんじゃなかったのか……」
死んだ人間の魂は、身体を離れて天に還ると言われており、聖堂での祈りも天に向けて捧げられている。
しかし正直なところ、ディークリートがそれを本心から信じていたかといえば、そんなことはない。見たことも体験したこともないものを、どうやって信じればいいのかわからなかったからだ。
だがその一方で、彼は炎を召喚した者として、魔物が死んでも天には還らないということを知っていた。
魔物というのは天ではなく、深淵に還っていくものなのだ。それを天へと導くからこそ、魔法炎は浄化の炎と呼ばれている──。
使い手である若者の口からもれた呟きを、カーヤは静かな瞳のままで聞いていた。
そして、こんな返事をかえした。
【還れない。森の瘴気に閉じ込められて出られないから】
痛ましさに胸がふさがれるような言葉だった。
ジンクの家で皆から聞いた話を思い出す。集落にある墓石の下には何もない。気の毒なカーヤを森から運び出すことができなかったため、遺骸はその場に埋葬されたのだと。
では、この人は還ることもできないまま、こんな孤独な場所にずっと一人で……。
【一人じゃない】
心の声を聞き取ったようにカーヤが言った。抱っこ帯のふくらみを右手でなでると、なんの感情もまじえない口調で続ける。
【それに、いまのあたしには役割がある】
「役割?」
【村のみんなが魔物にならないようにすること。だからいまは忙しい】
腑に落ちない顔つきのディーに向かって、カーヤは親切にも説明を加えた。
いわく、村人たちはみな完全な魔物ではなく、触手にからめとられた僕の状態にある。森の近くで長く暮らしているうちに、いつのまにか触手が入り込んでしまったのだ。
僕だから、本体が消滅すればもとの人間に戻れるのだが、これ以上取り込まれるとそれができなくなってしまう。
それで、本体に近寄らなくてすむように、自分とドナが──赤ん坊の名だ──この場所になんとかみんなを閉じ込めた。
みんなが地上にいたらできなかったにちがいないが、一斉に地下まで潜ってきてくれたうえ、幸い夜になったので、とりあえず閉じ込めることができた……。
淡々と語られる彼女の言葉に耳を傾けながらも、ディーは自分自身に問いかけずにはいられなかった。
──おれは夢をみているのか? こんなわけのわからない場所で、死んだはずの人間と会話しているなんて、とても現実だとは思えない。
夢でなければ、もしかすると自分はとっくに井戸の底で死んでいて……。
いや、それは困る。クリセダの裏町なんかにレマを行かせておきながら、自分がそんな体たらくでは、彼女に合わせる顔がない──。
心が定まらないままに、彼は足元深くひろがっている不可思議な場所に視線を落とした。
凍った湖にたとえるならば、氷の下にあたる場所で、銀色の糸束のような何かが群れにからみついているのがわかる。
おそらく、あれが触手なのだろう。地面が明るく見えていたのは、ちらちらと淡く発光している触手のせいだったのだ。
そのおぼろげな明るさの中で、一体の僕がディーの視線を引き寄せた。ちょうどカーヤの真下の位置で、首や胴に矢を突き刺したままの僕が眠っている。
ドニー……。
ディーは言葉を失くしたが、うっすらと透きとおった身体のカーヤは、彼の感傷にはお構いなしで、こんなふうに語り続けた。
閉じ込めるのにたくさんの力を使ったから、それを保ち続ける力がそろそろ切れてしまいそうだ。だから、あんたに来てもらった。
生きてる人には活力があるから、力を貸してもらいたい。しかも……。
【あんた、ピカピカしてる。すごく力持ちだよね】
結局その後──ディークリートはカーヤの希望どおり、一夜をそこで過ごすことになる。
といっても何か作業をしたわけではない。力持ちなどと言われたが、何を持ち上げたわけでもなく、たぶん、ただその場にすわっていただけだ。
それでも上から──おそらく黒雲のあたりから異様な負荷が落ちかかってきて、それに対抗するのが大変だったような気がする。
気がする、としか言えないのは、次第に意識が混濁してきて、状況の把握が難しくなったためだ。
天地の境界が曖昧であるのと同じように、意識と無意識が曖昧に混じりあった、不可思議な時空間。
ディーは思い至らなかったが、実はこことそっくりな空間に入ったことのある人を、彼は二人知っている。
エセルシータ姫とラキスだ。
姫君と剣士が再会をはたすことができたのは、インキュバスの内部にひらけたこんな場所だった。
色彩や景色などは多少はちがう。けれど、魔物が時に内包している空間という意味で、双方はとても似ているし、そうした場所は、この二つだけというわけではない。
そこはまれに人を受け入れるのだが、時の流れは人には添わず、体感からは離れている。たとえばエセルが大変長く感じた沼地までの道程は、外から見ればほんのわずかな時間だった。
それとは逆のことがディーの身には起こり、彼が短時間だと感じるうちに、外では夜が更け、夜が明けた。
朦朧としていた意識をいきなり揺り起こしたのは、うれしそうなチャイカの声だった。
【ラキスさま】
声が聞こえると同時に、身体全体が引っ張り上げられた。彼だけでなく、閉じ込められていた僕たちの身体が、一斉に引き上げられている。
土煙が視界を覆い、その隙間から、明らかに地上のものだとわかる光が差し込んできた。
井戸と男の子のエピソードは『晩餐会』のディーの章で書いています。




