41
買い物客たちは例外なくマントで衣服と体形をかくし、フードで顔かたちをかくし、必要最小限のささやきで自分の声をかくしていた。素性を明かしたいと思う者など、ここでは一人もいなかったからだ。
建ち並ぶ店々の様子は、一見先ほど歩いた職人通りと何も変わりないように見える。だが店先に置かれた高級そうな品々は、奥の工房で作り出されているわけではない。
たとえば指輪の裏側を見てみれば、もとの持ち主の名が彫られ、銀杯には貴族の紋章が刻まれたままだ。この一角で売られている品はほとんどが盗品であり、客たちもそれを知りつつ、安価にひかれて集まってくるのだった。
あの男も──マリスタークの次期伯爵も、フードの影にかくれながらこんな場所を歩いたのだろうかと、レマは考えた。
生まれ育った環境とはあまりにちがう、暗く澱んだ場所。裕福な名門貴族のご子息は、人目を避けるためにさぞ気を遣ったにちがいない。
めざしていたのが、盗品よりもさらにあやしげな施術を売りにしている店だとしたら、なおさらに。
彼、コンラート・オルマンドについて調べているとき、レマたちがもっとも厄介だと感じたのは、彼がどこからどう見ても清廉潔白な人物に見えることだった。
いま現在の姿がそうであるというだけではない。
幼少期から青年になるまでの経歴にも、評判にも、凶行とつながるような因子が何ひとつみつからない。
別に真面目一辺倒だというわけではなく、それなりに遊んだり恋をしたりしたこともあったようだ。だが残酷さや変質的な気配は微塵もなかったし、ドーミエの森、魔物、半魔といった存在に興味があったという話も聞かなかった。
こんな人物をつかまえて殺人犯だと言ってみても、信じてもらえなくて当然かもしれない。そもそも何か後ろ暗い影でもあれば、お姫様の伴侶として白羽の矢が立つわけはないのだ。
コンラート・オルマンドの心に残忍なものが巣食っていると示すこと──それが一番肝心ではないかと、炎の使い手たちは考えていた。
その残忍なものを証明してくれそうな店に、やっとたどりついた彼らは、一息つきながら店先の露台を眺めていた。装飾品や化粧道具、薬草の束などに混じって、くすんだ色ガラスの香水瓶がいくつも並んでいる。売り子は席をはずしているようだ。
グリンナがうすら寒い口調で呟いた。
「中身は毒かしら……?」
たぶん、とレマが応じた。それから、当たり前の買い物をするような調子で続けた。
「入りましょ。早いとこ終わらせたいわ」
普通の娘なら怯えて逃げ出しそうな場所だが、あいにく彼女たちは普通の娘ではなかった。露台の横にある扉を勝手に開けて、さっさと店内に入っていく。
通りに面した部屋は無人で、軒先に吊られたランタンの明かりが窓から入ってくるだけの、不気味な暗がりだった。陳列棚と椅子の向こうにもうひとつの扉があるのが、ぼんやりと確認できる。
足元に注意しながらそちらに進むと、レマは第二の扉を押し開いた。そして中に足を踏み入れ、部屋に立ち込める蒸気と得体の知れない臭気に、顔をしかめた。
部屋の片側に小さな炉が切られ、どっしりした三脚の鍋置きの上で大鍋が湯気をあげている。その前に黒いローブ姿の老婆がすわり、柄の長い杓子で時おり鍋をかき混ぜていた。
炉のそばにある台や机にぎっしりと並ぶ、得体の知れない壺や瓶。用途不明の見慣れない器具。壁には様々な植物の束が吊り下げられ、植物ではなく生物としか思えないものまでが吊られている。
揺らめく炎のおかげで、見たくもない部屋の内部が浮かび上がるので、先ほどの暗がりのほうがずっとましかもしれなかった。
「ジギタリス」
部屋の主であり店主でもある老婆が、鍋の様子をみつめながらしわがれた声をたてた。
「ベラドンナ、イラクサ、ニガヨモギ。どれがお好みかね、お客さん。欲しいものを調合してやるよ」
蛇やカエルの干物を調合すると言われなかっただけ、運がいい。毒草は煎じかたによって薬にもなるのだし……。
レマは眉を寄せたまま、鍋から視線を背けて、反対側の壁に掛けられた一枚の絵画に目を向けた。古びた額縁の中に描かれているのは、魔性の怪魚レヴィアタンだった。
怪魚は画家によって形態が様々なのだが、禍々しいという一点だけで、その名前がすぐわかる。額縁の中の魔物は、泥を塗りたくったように重たげな魚影で、顔だと思われる部分にうっすらと黄色い目玉が浮いていた。
レヴィアタン信奉者──こんなものをわざわざ部屋に飾るのは、魔術に手を染めたものだけだ。
マリスターク領主館にはもちろんこんな品はなく、光輪を背にしたリンドドレイクのタペストリーが大切に飾られていた。
あの美しい領主館で育ったご子息が、自分自身が魔物にでもなってしまったような所業を、どうしてしたのか。いったい彼に何が起こっていたのか──。
子息にクリセダへの道順を質問されたことがある。そう教えてくれたのは、領主館からはかなり離れた場所にある居酒屋の主人だ。それを聞いたとき、レマたちはようやく糸口をみつけた気がしたのだった。
クリセダという地名は、夜にふさわしい町として、ある種の人々の間ではよく知られている……。
「悪いけど、買い物に来たわけじゃないわ」
レマが慎重な口調で老婆に返事をかえした。老婆は杓子を炉端に置くと、ゆっくりとこちらを振り向いた。白髪と皺に埋もれて顔立ちがよくわからないが、目は怪魚の絵よりも光っている。
「ただの通りすがりとは言わないじゃろうねえ……。このヘルガの店に来るからには、恐怖も吹き飛ぶほどほしいものがあるはずじゃよ」
立ち尽くしている娘たちを観察しながら、どことなくうれしげに呟く。
「毒か媚薬か──それとも美しい顔や身体か。青い目や金髪がお好みならたやすいよ。じゃが胸や腰を大きくするには、それよりもちょいと値が張る……」
間に合ってるわ、と、グリンナが憤然とした様子で答えた。心配してもらわなくても胸は大きかったからだ。レマはそこまでではなかったが、金髪には多少の興味をひかれた。
何にしても老婆の言葉は的外れだったが、娘たちは二人ともフードとマントで外見をかくしていたので、わからなくても仕方なかった。
「──禁断の黒魔術」
と、黒髪の娘がささやいた。
「自然の力にあだなすものは違法だって、知っている?」
ヘルガはいやらしい笑い声をもらしただけだった。爪の長い人差し指で、部屋の奥にある第三の扉を指し示しながら娘を誘った。
「あっちの部屋に行ってみるかえ。五芒星の中に入って一晩寝れば、お嬢ちゃんの心も変わる。黒いものも実は白いと気づくじゃろうさ」
「心も……?」
言いかけたレマは、ため息をつくとマントの内側に右手を差し入れた。いい加減うんざりしてきたのだ。さっさと本題に入ったほうがいい。
「その前に訊きたいことがあるの。こういう客に見覚えがないかしら。二年くらい前にここに来たと思うのだけど」
折りたたまれた紙をひろげると、あらわれたのは貴公子然とした青年の似顔絵だった。




