37(牢獄)
穴倉のように暗い通路の向こうから、蝶番のきしむ音がかすかに聞こえたような気がした。すぐあとに、頑丈な扉が開閉するときの重く鈍い音が続く。
鉄格子が並ぶ陰気きわまりない空間に、誰かが入ってきたらしい。看守の交代だろうか。
自分の片腕を枕にして、独房の床の上に横たわりながら、ラキスはぼんやりと音の余韻を追っていた。
することが何ひとつ見当たらなかったし、頭を動かすと殴られた後頭部がいまだに痛む。起きているのも面倒だったから、たとえ冷たい石の床であっても寝転んでいたほうがましだった。
マリスターク領主館の敷地内にそびえる北の塔の最上階。彼は軽犯罪者をまとめて入れる雑居房ではなく、凶悪犯のための独房まで引き立てられて、さらに鉄の足枷で拘束されるという特別待遇を受けていた。
罪状は婚儀妨害に王女誘拐、ドーミエでの兵士たちに対する暴行──それに加えて、村人たちと同様、いつ魔物に変わるともしれない危険人物と見られていることも、かなり大きいようだ。
剝き出しの石壁と鉄格子にかこまれた場所を、鉄皿に立てられた一本のろうそくだけが頼りなげに照らし出している。
天井近くに換気用の小さな格子窓があり、空の色が垣間見えていたのだが、すっかり日も暮れ落ちたいまでは、窓があることさえはっきりしなくなってしまった。
だが、こんな最低な場所であっても、独房内に装飾がほどこされているのは少し意外だった。片側の壁の一部に、けっこう手の込んだ意匠が彫り込まれているのだ。
かなり古びて部分的に石が崩れているものの、何が描かれているかはすぐにわかる。守護聖獣リンドドレイクが、レヴィアタンという名の忌まわしい魔物を前脚で踏みつけている図だ。
これは善が悪を踏み敷く構図として、聖堂の絵画やステンドグラスなどでもよく取り上げられているものだった。
罪人を悔い改めさせるために、監獄内にもあるという話を聞いたことがあるが、あの話はまちがっていなかった。
レヴィアタンは、蒼穹の向こうにひろがる深淵──邪気と瘴気に満ちた汚濁の海──に棲みつき泳ぎまわっている巨大な怪魚だった。蒼穹に亀裂が入り汚濁があふれてきたときに、それといっしょにこちら側に泳ぎ出て、人間たちを喰らい尽くすのだという。
恐ろしいことこの上ないが、一般の人々にとってのそれは、現実というよりむしろ象徴として大きな意味を担っていた。悪の象徴、憎悪の化身、穢れた魔性の権化として。
一方の守護聖獣は、これもやはり現実ではなく、善と愛の象徴として捉えられ、人々に愛され続けている。
白い翼を持った伝説の竜……太古の昔、この大地を守り抜いてくれたと伝えられる存在なのだが、実際には誰ひとり見たことがないため、象徴以外になりようがないのだ。
いや──王族以外誰ひとり、と言うべきか。
逢瀬の刻と呼ばれる儀式がいったいどんなものなのか、一介の庶民であるラキスには見当もつかなかった。しかし歴代女王は、神聖なリンドドレイクと現実に会うばかりではなく、言葉をかわすことさえあるらしい。
現女王のアデライーダ陛下もその子どもたちも……もちろんエセルシータ姫も。
寝転んだまま壁の彫刻を眺めていたラキスは、ため息をつくと同時に瞳を閉じた。
光の柱に吸い込まれてしまった姫君のことを、彼はいまではあまり心配していなかった。あの清らかな光が彼女に害をなすものだとは、どうしても思えなかったのだ。
あとになって、ちょうどあれが逢瀬の刻と同じ時間だったのではないかと気づいたときは、すべて納得できたような気がした。
きっと守護聖獣がお姫様を助け出してくれたのだろう。汚れた地上の争いの中から、おれにはけして手の届かない聖なる場所へと──。
ふいに、どうしようもない苛立ちが募ってきて、彼はふたたび目をあけた。黙っていようと思ったが、もう我慢できそうにない。きつい声音で呼びかけた。
「いい加減に何か言えよ、殺人鬼。見物料取るぜ」
鉄格子の向こうでランタンの灯りが揺れた。看守ではないという勘が当たったらしい。
通路の闇がおぼろに崩れ、コンラート・オルマンドの暗い影が、うっそりと姿を現した。
「何の用だ。おれを殺しに来たのか」
影が冷えた声で答えた。
「まさか。そんなばかばかしいことはしない。どうせきみは死罪だからね」
ラキスはゆっくりと身体を起こして立ち上がった。足を動かすと、足枷からつながっている太い鎖が、床にこすれて金属的な音をたてた。
枷は片足だけだったが、鎖の端が床に打ち込まれて、囚人の動ける範囲を規制している。鉄格子まで手が届かない程度の範囲だ。
かまわず鎖を鳴らしながら、彼は壁際に置かれていた粗末な丸椅子を引き寄せた。腰をおろし、はじめて間近で対峙する相手の顔を、あらためてじっとみつめた。
ランタンの揺れる灯が、美青年と呼んで差しつかえない男の顔を、不安定に浮かび上がらせている。顔立ちだけ見れば、存外やさしく理知的な雰囲気だったが、その姿は夜に見る肖像画のように、生気も温度も感じさせない。
由緒正しい貴族らしく、牢獄に近づくときさえ身だしなみをととのえて、海老茶色の高級そうな上着を着こなしている。
だが、暗い橙色の灯りを受けたその上着は、ラキスに別のものを連想させずにはおかなかった。
肩から胸に、腕に、腰に、流れ落ちる返り血を──。
あの日、森で高笑いしていた男は、うってかわって落ち着き払った口調で続けた。
「わたしはただ、きみの言うとおり見物に来たのだ。我がエセルシータ姫をさらった男が罰を受けている様子を、この目で確かめてやりたかった。つながれているのを見て安心したよ」
「……彼女の名を口にするな」
ラキスといえども恐怖の感覚は持っていた。常軌を逸した犯罪を平然と犯した相手とは、できれば夜道で出会いたくない。逃げ場もない夜の牢獄内では、なおのこと。
だが、圧倒的な怒りというのは恐怖を凌駕するのだった。彼は相手を切り刻んでやりたい衝動に耐えながら、押し殺した声をたてた。
「貴様なんかが口にしていい名前じゃない。身の程を知れ、人殺し」
「言っている意味がわからない」
コンラート・オルマンドは無表情に肩をすくめた。
「わたしに濡れ衣を着せて、姫から引き離そうとしているのだな。だが残念ながら、きみの言うことなど誰も信じないよ。そういえば婚礼のときもくだらぬことを長々としゃべっていたが……」
「なぜ殺した」
殺人鬼のくだらぬおしゃべりを、ラキスが鋭く打ち切った。
「法廷の場で訊いてやろうと思っていたが、ちょうどいいからいま訊くぜ。なぜ殺した、ドーミエで平和に暮らしていたカーヤのことを」
「意味がわからないと言っている」
「なぜ殺した」
「しつこい男だな。問答するほどわたしは暇ではないのだ。特にきみのような半魔とは……」
「なぜ!」
叩きつけるようにラキスが怒鳴った。立ち上がった勢いで丸椅子が倒れて転がった。ふるえる声がほとばしった。
「どうしてあんなひどいことをしたんだ。何ひとつ罪がない娘の命を、虫けらみたいに奪うなんて。カーヤはただ一生懸命生きていただけだった。それなのに貴様は──」
「何ひとつ罪がない……?」
コンラートの唇がわずかに持ち上がった。ついに反論したくなったようだった。
「罪ならあったではないか。インキュバスの仔を宿していたかもしれないという罪が」
ラキスは一瞬、口をきくことができなかった。人の心が一片も見当たらない相手の顔を、呆然とみつめて呟いた。
「学者の言うことを信じたのか……頭のおかしい男の妄想を」
「おかしいとは言い切れない。わたしには、それなりに理があるように思えたね。理がないとしても」
試してみなければわからない、と、男が言った。魔物を撲滅するためには、少しの犠牲はやむをえない。そうつけ加えると、薄くほほえんだ。




