36
螺旋をめぐる帰路の終わりを示すのは、からみあう葉と蔓と花の文様が一面に彫り込まれた一枚扉だった。
背は高いが幅はそれほどでもなく、女性の手でもつかみやすい大きさの取っ手がついている。聖域の一部である階と地上をつなぐ接点だ。
人外の世界につながる空間を昇降していると、いつもなら時間の観念や身体感覚がしだいに薄れて、無我と呼んでいい境地がやってくる。だが、ここを下りたときの女王がそうであったように、エセルも今日はそんな心境にたどりついてはいない。
女王のあとについて粛々と階段を上ってはいたものの、前を行く背中の向こうに扉をみつけたときは、思わずほっと息をついた。
取っ手が内側に向けて引かれると、重たげに見えた扉がまるで待っていたかのような軽さでひらいていく。聖域から帰還した二人を迎え入れたのは、マリスターク大聖堂の礼拝室一画に設けられた、小さな貴賓室だった。
そこは、逢瀬の扉を俗世から隔てるために用意されている部屋で、祭壇の東の壁際に入り口がある。
祭壇と洞窟、双方の雰囲気を映すように清浄なおごそかさをたたえているが、開け放された窓から入る日差しはあたたかく、春風のそよぐ気配が心地いい。聖域から地上に帰ってきたことを実感できる心地よさだ。
しかも、日の光と風を入れてくれる窓のそばには人がいた。青い瞳を驚きに見開きながらこちらをみつめているのは、姉姫たちだった。
「エセル……」
「どうしてここに」
リデル姫とセレナ姫がそれぞれに呟いた。女王が戻ってくるのをここで待っていたらしいが、行方知れずの妹までがいっしょに戻るとは夢にも思わなかったのだろう。
「お姉様……!」
エセルも思わず声をあげた。姉妹たちは同時に走り寄り、手を取り合って再会が本物であることを確認した。
姉たちの姿を以前見たのは婚姻の儀のさなかである。婚儀の開祭が昨日の正午、そしていまはまだ翌日の朝なのだから、考えてみれば丸一日もたっていない。
それなのに、まるで長い旅に出ていたかのように、久しく会っていなかった気がする──。
「もしかしてリンディ様のお導きで?」
リデルライナが母を振り向いて問いかけると、母も深くうなずいてみせた。
そのあとは、姉たちが妹の身に起きたことを口々にたずねる時間となった。
エセルにとっても願ってもないことだったので、彼女は成り行きをくわしく話してきかせた。聖域内では感情的に訴えるのを慎んだが、内心まったく言いたりない気分だったのだ。
二度目の話で特に強調したのは、村人たちがどんなに善良な人たちだったかという部分だった。全員が反転したなどという、普通なら討伐隊を呼びたくなるような事態を正しく知ってもらうためには、どれだけほめてもほめすぎることはない。
「いい人たちなのはわかったけれど……」
姉たちが表情をくもらせながら意見を述べた。
「全員反転というのはつまり……みんな完全に魔物になってしまったということでは……」
「そんなこと絶対にないわ。必ず人に戻れるはずなの。信じて、お姉様」
黙って聞いていたアデライーダ女王が、リデルライナ姫に向けて問いかけた。
「わたくしがいない間に、ドーミエから何か知らせは?」
リデルは首を横に振った。
「いいえ、まだ何も」
「そう……とにかく森が厄介なことになっているのは間違いありませんね。支援隊を送らなければ……」
マリスタークからも兵が出ているとリデルが言い、王城の討伐隊にも連絡を取ったほうがいいだろうと女王が応じた。二人とも政について語る口調に変わっていく。
次女のセレスティーナはそんな二人を見ていたが、ふと視線をはずすと、ためらうような表情になった。それから小さな声で、まったくちがうことを口にした。
「エセル、彼とは……ラキスとはどんな話を──」
だが、妹のほうに目をやったセレナは、ふいに声を高めて質問内容を切り替えた。
「どうしたの、エセル。具合が悪いの?」
エセルは身体をこわばらせ、両手を胸に押し当てながらうつむいていた。
「なんでもないわ……」
そう答えたものの、その声がかすかにふるえている。
「胸が苦しい?」
「いえ……大丈夫」
女王たちが驚いたように振り向いた。
エセルはもう一度否定しようとしたが、声が思うように出なかった。
強がっていたわけではない。
具合が悪いわけでもないし、胸が苦しいわけでもない。
ただ、かつて感じたことのない不可思議な感覚が、急激に身体の内部に満ちてきて、どうしていいかわからなかったのだ。
どこか甘くくすぐったいような……まるで、やわらかな羽毛に内部をなでられているような──それから、彼女は唐突に、それが何であるかを自覚した。
身体の中に鳥がいる。
胸元に入り込んできた鳥が、白い翼ではばたいている。はばたきながら外に出て行こうとしている。
胸ではなく今度は──背中から。
エセル姫は両腕で自分自身を抱きしめた。前かがみになったその背の上で、ふいに白い輝きが生まれた。
輝きはほのかな光に変わりながら、左右の肩甲骨の上へ上へと伸び上がり、一度大きくひろがって動きを止めた。それからゆっくりと位置をさげて、背中に添う場所まで来ると落ち着いた。
白鳥のように、あるいは天馬のように白く大きな、それは一対の翼だった。
アデライーダ女王の口から、感嘆とも吐息ともつかない声がもれた。
「──エデ様の翼……」
吸い寄せられように歩を進めて、翼をみつめる。
「まあ、なんて美しい──はじめて見ました。話には聞いていましたが、こうやって現れるのですね」
細い指先を上げて、彼女は生まれたばかりの新しい翼にそっと手を触れようとした。
けれど、それはかなわなかった。光に手を差し入れたときと同じように、指先が翼をするりと通り抜けていく。
エデの翼は、伝え聞いていたとおり、目には見えても物質として存在しているわけではないのだ。
守護聖獣お気に入りの鳥が、王族の身体の中に入り込み、翼を出現させることがある──王家では古くから、そんな話が伝説のように語り伝えられてきた。
聖獣のきまぐれによって鳥が入りこんでも、翼には至らないこともあり、もっとも直近の記録は、第十一代女王の妹である姫の背中に現れた両翼だ。
それはエルフリーデ女王の直系である証しであり、聖性の象徴であり、そして……魔性の対極でもあった。
伝説の一部をになうことになったエセルシータ姫は、状況を受け入れることができずに立ち尽くしていた。
自分では全身を見ることができないため、両脇を交互に見やって確認するしかない。母や姉姫たちの賛嘆の視線を感じとっても、本人だけは同意することができなかった。
「わ……わたし困るわ」
ひどく頼りない声が、妹姫の口をついて出た。
「こんなの困るわ。次の逢瀬はいつなの? リンディ様に早く取っていただかないと……」
「大丈夫よ、エセル」
動揺している妹を励まそうと、リデルライナが声をかけた。
「普通の翼だったら生活の邪魔になるかもしれないけれど、これはさわれないんですもの。不便なことは何もないし、心配する必要もないと思うわ」
「お姉様の言うとおりよ」
と、セレスティーナが力をつけようとして言い添えた。
「それにこの翼、あなたにとても似合ってるわ。本当にきれい」
「困るの」
幼い少女のような口調になって、エセルが言い返した。
「こんな……こんなものがあったら、あの人が……」
「え?」
「あの人がますます……」
そのとき、ふいにノックの音が響き、貴賓室の扉がひらいた。
部屋に入ってきた人物は二人だったが、二人とも姫君の姿を見るや否や、声にならない声をあげて立ち尽くした。
一人は高齢のマリスターク大司教で、彼の長い人生の中でも一二を争うほどの感動を、いまこの瞬間に味わった。聖職者にとってあこがれである聖域の産物を、目の前に見ることができたのだ。
もう一人の人物はまだ若く、俗世に身をおく立場だったが、あこがれであることに変わりはないらしかった。しかも翼を持っているのが自分の花嫁であるとなれば、感動せずにいられるわけがない。
コンラート・オルマンドは翼をみつめ、魅入られたように呟いた。
「天つ御使い様……」
コンラートは、逢瀬の刻から戻ってくる女王を迎えようと、司教とともにこの部屋にやってきたのだった。
いつもより逢瀬が短く女王の帰還が早かったため、迎えには間に合わなかったわけだが、もはやそんなことはどうでもいい。連れ去られた花嫁が一段と素晴らしい姿になって現れたのだから。
彼は、女王に礼をとることも忘れてエセルに近づくと、手を差し伸べた。
「聖画から抜けだされたのかと思いました……姫様、よくご無事で戻られましたね。しかも、これほど輝かしいお姿で──」
「……」
「姫様?」
エセルは答えることができなかった。何か言わなければと思ったが、どうしても適切な言葉がみつからず、ただ瞳を見開いて相手の顔をみつめていた。
適切でない言葉なら思いつくのだった。
嫌。わたしに近づかないで。
この人の手をこばむ権利は自分にはないはずだと、エセルは思った。たった一晩離れただけでいきなり相手を拒否するなんて、していいはずがない。
黒褐色の長髪を後ろで束ねた、見目うるわしい伯爵家の嫡男。誠実で情が深く、いまも花嫁となる娘のことをこんなに思ってくれている。
でも──。
「お疲れなのですね。とりあえず椅子におすわりになったほうが」
言いながらさらに近づいてくると、花婿になるべき男はエセルの腕に手を添えた。
そのとたん、単なる拒絶とは別の何かが彼女の胸を駆け上がった。それは本能的な恐怖と呼んでもいいような強い感情だった。
「姫様、どうぞこちらへ──」
胸の中で鳥が騒いでいる気がする。警告するようにはばたいている。
手を振り払おうとしたがうまくいかなかった。頭の中ではただひとつの願いだけがぐるぐるまわった。
さわらないで。わたしにさわらないで。
こわい。この人がこわい。
視界までが急激にまわり、足元の感覚がなくなっていく。それとほとんど同時に、周囲にいた人々が声をあげた。姫君の顔からみるみる血の気が引き、その身体がかしぐのを見て驚いたのだ。
恐怖と動揺から逃れるため、姫はみずから意識を手放した。突然手折られた花のように、声もなくその場に崩れ落ちた。
あわてふためいた人々の手によって、エセル姫は長椅子に横たえられて介抱された。それから大聖堂内の居住区にある寝室に移され、一時的にそこで休養することになった。
疲労の一言に尽きるというのが、呼ばれた医師の見立てだった。
無理もないことだ。昨日から今朝にかけての激動は、華奢な姫君にとってどれほど大きな負担だったことだろう。
ただでさえ婚礼の前夜によく眠れたはずがなく、それ以前も安眠などできなかったにちがいないのだ。
姫は途中で目を覚ましたが、覚ますなり「ドーミエに戻して」「マージたちを助けて」などと口走りはじめて、休養を放棄しようとした。
睡眠作用の高いバレリアン茶や、産出量が少なく貴重なレモンバームの香油で、なんとかふたたび眠らせると──明日の朝までお目覚めにならないでしょうと医師団は受け合った──女王は愛娘の今後について、枕元にすわりながら考えた。
倒れるほど苦しいときに、この子はコンラート殿の手をはねのけようとしていた……ああいう場で頼ることができない相手と、はたして結婚させていいのかどうか。
やはり、ことを急ぎ過ぎたのだろうか──。
女王は深いため息をもらし、とりあえず娘のために最初にすべきことを決めた。パスティナーシュの王城に連れて帰ることだった。
ここにいることが、いまの娘のためになるとは思えない。早く都に戻って、住み慣れた城で養生させるべきだろう。婚儀の話はとりあえず延期だ。
駆けつけてきた伯爵夫妻は嘆いていたが、女王の決意はすばやく、帰りの手筈を整える側近たちの作業もすばやかった。
羽根布団を敷きつめてふかふかにした特別な馬車が用意され、眠り込んでいる姫君の身体が横たえられる。
正午を何時間かまわっていたが、まだ日差しは高く、夜までにはけっこう進むことができるだろう。
ほんの二日ほど前に到着して大歓迎を受けた女王一行は、こうしてごくひっそりと大聖堂から出立し、領主館を横に見ながらマリスタークから離れて行った。
そしてちょうど同じころ、まったく別の一行が、やはりひっそりと領主館に近づいた。
こちらがひっそりしていたのは、罪人を馬車に乗せていたからだった。荷車にでも乗せるほうがふさわしかったかもしれないが、一番手近にあったのが貴族専用の上等な馬車だったため、そちらが使用されることになったのだ。
乱入騒ぎの主犯格を連れた一行は、領主館の正門ではなく裏門を通り抜け、北の塔に向けて進んでいった。




