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かつて、剣士とインキュバスが闘ったときに砕けてしまった魔法剣。
銀の鎖は、その剣のかけらを肌身離さず身につけるために姫君が用意した、思い出の品だ。剣士が生死不明だったときはもちろんのこと、無事に再会したあとも、首飾りとして胸元に残り続けてきた。
花嫁を飾るのにふさわしい装飾品だとは、けして言えない……良心の痛みを覚えなかったわけではないのだが、エセルはどうしても、いままでそれをはずすことができなかった。
その鎖がどんどん離れていってしまうことに驚いて、彼女は手を伸ばすと、あわててそれをつかみ取ろうとした。
けれど間に合わず、か細い銀のきらめきは聖獣の顔近くまで浮上して、引き寄せられるように見えなくなってしまった。
「返し……」
叫びかけた姫君の声も、同じように途中で頼りなく消えていった。守護聖獣の意志で成されたことに対して、さすがに二度も反対することはできなかったからだ。
先ほどは思わずドーミエに戻してほしいと叫んだ彼女だが、それが本来、僭越な行為だということはわきまえていた。とくに女王ではなく、飛び入りでこの洞内に招き寄せられた自分には。
不思議な白い洞窟がいつからあるのか、そしてリンドドレイクと呼ばれる聖なる竜が、いったいいつからそこに存在しているのか。エセルはもちろんアデライーダ女王も、先代の女王も、そのまた先代の女王も──誰ひとりとして、それを知る者はない。
知っているのは、はるかな昔、この地が想像もつかないほど荒れ果てていたころ、のちに初代女王となるエルフリーデが偶然出会った聖獣が、リンドドレイクだったのだと伝えられていることだけだ。
少女と心をかわしあった聖獣は、この地に国をつくることを許し、自分は地の底深くもぐって国を守護する身となった。
大地の芯に近い場所、星の芯に届く場所にその身を置いて、地上には一切姿を現さず、地上で起きる出来事に一切の力を使わない存在であることを好んだ。
その在りかたは、たとえば山にある巨岩や、何百年もの樹齢を持つ巨木などに似ているかもしれない。守護というのは、護衛のように助けてくれるという意味ではなく、ただ──人間たちのことを好きでいてくれる、という意味なのだ。
そんなリンドドレイクが選んだ、唯一の地上との交流方法が、ほのかに光る洞窟に王族を招き入れることだった。
人々の営みや心の在処は、エルフリーデの子孫である歴代女王たちが、聖獣に語って聞かせる言葉によってのみ、伝えられていく。エルフリーデが最初にそれをしたように、子孫たちも皆、友人のように話しかけたり他愛もないおしゃべりをしたりすることで、聖獣と人との心をつなぐ──。
逢瀬の刻という神事の、それが由来なのだった。
【おや、まだ色が取れないようだ。どうしようかね】
巨岩や巨木とたとえられるわりに、親しみ深い雰囲気のリンドドレイクが、のんびりとアデライーダ女王に問いかけた。
鎖が気に障ったというわけではなく、単にいつもとちがう色をみつけたから取ってみただけ。そんな気楽さがにじむ口調であり、花嫁の倫理観について気にしている様子もなさそうだ。
だが、女王のほうはとても気楽にはなれないようだった。表情をかたくこわばらせたまま、銀鎖が消えたあたりを見上げている。母親の敏感さで、その鎖が誰に所以の品なのかを察したのだろう。
返答しない彼女にかわって、聖獣がのんきに提案した。
【気に入らないと見える。ではエデを入れてやろう。魔性の色を消してくれる】
巨大な首がかすかに動き、翡翠の両眼がゆっくりまたたく。と、それに呼ばれるように、どこからか一羽の白い鳥があらわれて、洞窟内にゆるやかな円を描いた。
純白の羽根とほっそりした胴体、大きさは鳩と同じくらいの鳥だ。天井から来たようにも、聖獣の後ろから出てきたようにも見える。
鳥は、エセル姫のほうに舞い降りてくると、はばたきをゆるめずに胸元まで寄ってきた。そして、まるで全身が空気でできているかのように、そのまま姫の胸の中に吸い込まれてしまった。
実際に、空気でできていたのかもしれない。エセルが感じとったのは、あたたかなそよ風が吹き込んできたような感覚だけだったのだから。
姫君は、びっくりして瞳をみはったが、その感覚が続いたのはほんのわずかな間だった。本来の不安と焦燥感がすぐに舞い戻ってきて、胸の中のかすかな気配を押し流していった。
その後、エセルは母に促されるままに、ドーミエで起きている騒動の経緯を話して聞かせた。
できる限り短く、しかもドーミエの村人たちが不利にならないように話さなければならない。エセルは苦労して言葉を選んだが、なかなか難しい作業で、何度も声がもつれて流れを止めた。
アデライーダは、複雑な表情を浮かべながらそれを聞いていた。
必死になっている娘の言葉を否定しようとはしなかったが、ドーミエに戻してほしいという願いについては、娘が言い出す前から却下した。
「そんな状況でそなたを戻すなど、もってのほかですね」
「でも……」
「そなたがそこに戻ったとして、いったい何ができるというのです? 地面から魔物の群れが出てきたとなれば、今頃は皆、闘うのに手いっぱいでしょう。かえって足手まといになってしまいますよ」
「それはたしかに……でもこうしている間にも、誰かが死んでしまうかもしれないと思うと……」
頭上から母子の会話を聞いていたリンドドレイクが、深くゆったりした声音で口をはさんだ。
【ふむ……エシーがいた場所のことを言っているのかね】
「は、はい、リンディ様。もちろん」
【そのあたりで命が消えた気配はないが……】
「え……本当に?」
思わずたずね返すと、天井近い位置で魚のひれのようにひろがっている聖獣の耳が、わずかに動いた。何かに耳をすましているようだ。
【そう──いまはとても静かだね】
「静か……」
安堵のあまり、エセルシータ姫の全身から力が抜けた。静かとはどういうことだろう……でも命は消えていない。大丈夫、みんなちゃんと生きている──。
その日の逢瀬は、いつもにくらべればずいぶん短時間であったにちがいない。立ち合っているエセルシータ姫の気持ちが、あまりに乱れているので、ほかのふたりも話に集中できなかったようだ。
もうお帰りと告げられることが、逢瀬の終了する合図だった。
螺旋階段が淡く光って、のぼっていく人間たちの足元をほのかに照らした。




