34(逢瀬)
ドーミエの村の喧騒は、静謐そのもののたたずまいを見せるマリスターク大聖堂には伝わらない。ましてや、逢瀬の刻を迎えるために階をおりている途中の、アデライーダ女王のもとには。
はてしなく下へと続く螺旋状の階段を、女王はたったひとりでおりていく。
細い扇型に切られた石段は、扇のかなめ部分を軸として積まれているので、中心には空間ができない造りだ。段の幅は、大人が両手をいっぱいにひろげたほど。階段全体をすっぽりと包んでいる湾曲した壁には、燭台を置くための窪みも台も見当たらない。
それなのに、石段にも壁にも、なぜかほのかな明るさがにじんでいて、上り下りする人の足元を安全に照らし出してくれる。螺旋をたどっていく長い時間は、か弱き人間たちに対する守護聖獣の愛情を、感じとることのできる時間でもあった。
だが今日のアデライーダには、そんなあたたかな気持ちを味わう余裕はまったく残っていない。
大切な末姫の婚礼がめちゃめちゃになり、花嫁は暴漢に略奪されて、一夜明けた今日になっても戻ってこないのだ。
皆の前では出来る限りの平静を装っていた女王だが、おりていくうちに足はふるえ、段を飛ばして駆け出したい衝動に何度も駆られた。
階をおり切ったその先にひらける空間で、彼女はこれからレントリアの守護聖獣と顔を合わせ、言葉をかわす。
逢瀬の刻──建国女王エルフリーデの御世からいまに至るまで、歴代女王に受け継がれてきた神事だ。
年に数回おこなわれるこの神事は、毎年の暦の中に日時が組み込まれていて、たとえ女王であってもそれを変えることはできない。
女王が関わるすべての行事は神事に合わせて調整され、どうしても王城から離れなければいけないときは、そばに階があるかどうかが最初の確認事項となる。
今回の場合、婚礼が逢瀬の刻の前日に当たることはわかっていたが、場所がマリスターク大聖堂だったので大きな問題はなかった。
ただ……祝祭であるはずの婚儀が打ち切られるという事態は、女王であっても想定できないことだった。花嫁が略奪されるにいたっては、レントリア王家の歴史をひもといてみても前例などあるはずがない。
最後の石段をおり切ると、もう転ぶことを気にして慎重に歩く必要はなくなった。
昇降しやすいよう普段より短めにされたドレスの裾を両手でからげて、女王は小走りに出口を抜けた。
すると突然、狭かった空間が大きくひらけて、いままでとまったくちがう世界が彼女の前にあらわれた。そこにあるのは、階段よりもさらに白くやわらかな光に満たされた、広大な洞窟だった。
ほの明るい光をにじませる洞壁は、水晶とも石英ともつかない石柱が寄り集まって構成されている。天井は仰ぎ見るほどはるかに高く、そこからも同じ色合いの石がつららのように垂れ下がって、洞内をさらに神秘的に装飾する。
そして、それらにかこまれながらうずくまり、首だけをわずかにもたげているのが、この場所の主である聖獣の巨大な竜体だった。
守護聖獣リンドドレイク。
レントリアの民なら誰もが知り、国旗の柄としても親しまれている聖なる竜を、実際に拝むことができるのは王家に生まれた者だけだ。
リンドドレイクの巨体は、あたかも紫水晶や煙水晶でできた山が姿を変えて竜のかたちを成したかのように、見上げる人の目に映る。
竜体でありながら、背には白鳥のごとき翼があり、それもやはり貴石を思い起こさせる色あいと質感だ。
竜体をとる魔物は数多いが、聖獣のそれが魔物と決定的にちがうのは、この色彩と翼の形状──そして何より、人間という生き物に好意を持っていることがわかる圧倒的な気配だった。
もちろん好意といっても、聖獣のそれは人の身には計り知れないものなので、ここを訪れるときの女王はいつも、いくらかの緊張感を抱えていた。
けれどいまは、焦燥が普段の緊張を上回っている。
洞窟の主を仰ぎ見ながら、彼女は年端もいかない少女のように声をあげて呼びかけた。
「リンディ!」
守護聖獣の首が、かすかに動いた。眠たげな翡翠色の瞳がゆっくりまばたきして女王を見下ろし、おごそかな声を返してきた。
【おや、アディ。どうしたね、そんなに急いで】
アデライーダはさらに近づいてから立ち止まると、表情をゆがめた。両手で顔をおおいながら、ふるえる声を絞り出す。
「エセルが……わたくしのエセルがいなくなってしまったわ。連れ去られたのよ。半魔に……半魔なんかに……」
【泣いているのかね、アディ】
竜の顔には一切の表情がないのだが、語りかけてくる声には意外そうな響きがあった。
【エルランスが死んだときでさえ、涙を見せなかったそなたが……】
王配である夫が亡くなったあとの逢瀬は、事故日から日にちが経っていたため、すでに涙も枯れていたのだった。
それを説明するつもりはなかったので、アデライーダが黙っていると、リンドドレイクも何かを思案するように無言になった。それから何気ない声音でこう呟いた。
【エシーをさがしているのなら呼ぼうかね。いま上におるよ】
アデライーダが、驚きに目をみはりながら顔を上げる。聞き違いかと思ったのだが、そうではなく、天井から細い光の柱がおりてくるのに、ほとんど時間はかからなかった。
光は、大聖堂の窓から差し込む加護の光にも似た、陽光の明るさを持っていた。そしてその中には、ひとりの娘の姿が透けている。
洞窟の底まで達した光が消えていったあと、その場に残されたのは、瞳を見開いて立ち尽くすエセルシータ姫だった。
エセルは、女王と守護聖獣とのちょうどまんなかあたりの位置におろされて、声もなく聖獣の顔を見上げていた。あまりにも突然の逢瀬に、思考が追いつかなかったのだ。
突然も突然──たったいままでドーミエの大騒動のただなかで、土ぼこりを浴びながら叫んでいたエセルである。自分の身に何が起きたのか、わからなくても無理はない。
「リンディ様……どうして……」
うわずった声で彼女は口走った。それから、はっと我に返り、この場所がどこなのかをすばやく悟って、ふたたび叫びはじめた。
「も……戻してください。ドーミエにわたしを戻して。マージが……ラキスたちがいま大変なことに──」
「エセル!」
姫君の訴えは、切実な別の叫びに断ち切られた。
直後に母が駆け寄り、その両腕が愛娘を思いきり抱きしめた。
「よかった……無事だったのですね。本当によかった」
「お母様──」
早く戻して、と叫ぼうとしていた娘は、胸が詰まって続きを口にすることができなくなった。
冷静沈着な態度を崩したことのない母が、青い双眸を涙で濡らしながらふるえている。父が亡くなったときでさえ、母の涙を見たことはなかったというのに──。
「ごめんなさい、お母様。ご心配をおかけして」
「どんなに案じたか、とてもそなたにはわかりませんよ。殺したほうがましだなどと言った男に拉致されて……あの者が早まったことをしたらと思うと、わたくしはもう……」
エセルはふたたび、はっとした。建国女王の像をまつった天蓋の上で、ラキスが言い放った台詞を思い出したのだ。
それを聞いたとき、実はうれしい気持ちがこみ上げたとは、口が裂けても言えるものではなかった。
アデライーダ女王は娘の身体をようやく離すと、守護聖獣に向き直り、喜びにあふれる声で感謝を伝えた。
「ありがとう、リンディ。とてもうれしいわ。なんてお礼を言ったらいいか」
それからエセルを振り返り、平静に戻った口調でうながした。
「さあ、そなたもきちんとご挨拶なさい。逢瀬はとても久しぶりでしょう」
螺旋階段をおりて逢瀬の刻を過ごすのは、女王のみに許された特権というわけではない。娘たちにも機会はあたえられているのだが、それは各自の誕生日のうちの何回かだけで、数としては限られている。
エセル姫がリンドドレイクにまみえたのは、十五歳を迎えた秋以来のことだった。
「失礼しました。リンディ様、お久しゅう」
エセルはあわてて居ずまいを正し、守護聖獣に礼をとろうとした。
だが聖獣は返事をかえさず、しばらくの間、不思議そうに──そう感じられる気配だった──彼女の姿を眺めていた。
それから、先ほどと同じく何気ない言い方で、思ったことを口にした。
【そなた、魔性の色をつけておるね、めずらしい】
アデライーダが、ぎょっとしたようにエセルを見やる。
とまどったエセルが声を返せずにいると、ふいに彼女の胸のあたりで何か細いものが動き、そして持ち上がってきた。
誰の手も触れていないのに、婚礼衣装の襟元から光るものが引き出されて、宙に浮かぶ。それは、衣装の下にそっとつけていた銀の鎖だった。




