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 何にしても、この手の人物とはできるだけ会話しないほうがいいと、ラキスは考えた。ファゴが引き受けている役目は、エセル姫と暴漢たちをマリスタークに護送することだけのはずだ。ジンクがあと少し我慢してくれれば……。

 エセルのかたわらにいたディーも、同じように考えたらしい。

「姫様、馬車へ」

 やんわりした口調のまま、エセルの腕をとって馬車のほうにいざなおうとした。


 しかし姫の考えはちがっていた。

「乗るのはジンクさんたちよ」

 ディーの手をはずしながら、ファゴに怒りのまなざしを向ける。

「あなたの失礼な発言は、言い違いだったと思うことにします。でも同じ間違いは二度としないで。彼らを馬車に乗せてください」

「ですから」

 ファゴが、わずかに苛立ちを見せながらも丁寧に説明した。

「あれは姫様のために用意したものなのです。たとえ彼らが、罪人だの半魔だのでなかったとしても、炭焼きや木こりを乗せるわけにはいきません。匂いが移りますからな」


 突然ジンクが、縄につながれたまま指揮官に突進しようとした。頭領の前で、けして言ってはならないことがあったのだが、いまのファゴの言葉がまさにそれだった。心身ともに打ち込んでいる職業を見下す言葉だ。


「お貴族様は炭を使わねえって言うのか」

 と、頭領が吠えた。

「さんざん便利に使ってるくせに。高価な炭を自由に使えるのなんて貴族ぐらいだもんな。薪はどうだ、でっかい暖炉で山ほど燃やしてるんだろ。なのに誰がその炭をつくったか、誰が森で木を切ってやったのかも知らねえのかよ」

 ジンクの綱を引いていた兵士が黙れと叫び、ラキスも制止しようとしたが、頭領の勢いはそれらを上回った。

「男爵様も気の毒に、こんな男が跡取りだなんて。そういや噂で聞いたことあるぜ。跡取り息子が大人げなくて、男爵様が困ってるってな」


 だが、これもまた禁句だった。頭領に言ってはならない言葉があるように、ファゴ・オレフにも、どうしても聞きたくない言葉があったのだ。

 ファゴの顔色がみるみる変わった。エセル姫から離れると、大股でジンクめがけて進んでいく。そして間にいた兵士を荒々しく押しのけ、頭領の顔を殴りつけた。


 固唾を呑んでいた村人たちの集団から、悲鳴があがった。まるで自分たちが殴られたかのように、皆がよろけてふるえながら騒ぎはじめる。うちの人に何するの、というルイサの声が高く響いた。

「おまえらを、わざわざマリスタークまで運ぶ手間はかけない」

 と、男爵の跡取りが言い切った。

「わたしがこの場で裁けば十分だ」

 そして本気であることを示すために、鎧の腰につるしていた剣をすばやく引き抜いた。

 そのときだ。騒ぎの中心から離れた場所で、見張りに立っていた兵士が、いきなり何ごとかを叫びはじめた。

 その叫びは「魔物」と聞こえた。ついで、原因となったものが人々の上をふらふらと横切り、皆の真上で動きを止めた。


 あらわれたのは、黒い飛膜の翼をいっぱいにひろげたドニーだった。

 魔物ではなく人間だ。

 だが、兵が魔物と口走ったのも無理はないかもしれない──空中を見上げながら、ラキスは思わざるをえなかった。ドニーの姿がそれくらい人間離れして見えたのだ。

 焦点の定まらない目をぼんやりひらいた顔からは、人間的な知能や感情、意志の気配が何ひとつ感じられない。心の動きを失くした者が魔性の翼をひろげていると、こんなにも別の生き物に見えてしまうのか──そう考えたのは、ラキス一人ではなかっただろう。


 けれど、ラキスはドニーのすべてを知っていたわけではなかった。

 半魔の青年がここまで来たのは、エセルシータ姫を追いかけてきたからだ。最初は走っていたのを、わざわざ飛行に切り替えてまで追ってきたのは、わずかにしても心が動いた証拠である。

 しかも彼は、ジンクの危機にも目をとめたようだった。不安定ながらも向きを変えると、ゆっくり舞い降りてこようとした。


 ジンクの前に立っていたファゴは、この動きに動転した。抜き放ったばかりの剣を持ち上げると、真上から来る敵に対して勢いよく振りかざした。

 ドニーの両眼がそれを捉える。そのとたん、虚ろだった目が見開かれ、向けられている剣の光を吸い込んだように輝いた。

 その次に起きたことは、彼の意志が最大限に活かされた瞬間だったかもしれない。

 人のそうと魔物の相が入れ替わり、完全な魔物の姿に変化する──反転の瞬間だ。

 防御のためだったのか、それとも攻撃のためだったのか、それは誰にもわからない。ただ、とにかく人間の姿ではいられないと思ったのだろう。


 下方にいたすべての人々は、半魔の男が一瞬にして姿を変える様子を、目撃することになった。

 宙に浮かんでいる生き物は、もとから持っていた翼の形状はそのままに、頭部も胴体も、恐ろしい竜体の魔物であるヴィーヴルにそっくりだった。


 竜体のものの常として、ヴィーヴルはわにか何かを思わせる裂けた口、鱗におおわれた背中、前後の脚と太い尻尾を備えている。あまり大きくはないのだが、明らかに魔物狩りの対象だ。

 後方に並んでいた弓兵たちは、ドニーがあらわれたときから矢をつがえて、迎え討つ体勢をととのえていた。さすがに射ることはできず、命令が下るのを待っている状態だったが、こうなっては命令など必要ない。

 彼らは迷わず矢を放ち、その一本が魔物の胴体に突き刺さった。続いて別の一本が、首筋あたりに突き立った。


 ヴィーヴルは空中でもんどり打って動きまわり、切り裂くような悲鳴が響いた。

 だが、悲鳴をあげたのは魔物ではなかった。

 マージだった。

 息せき切って追いついてきたマージが、立ちすくみながら叫んでいる。

「兄さん! 兄さん!」

 叫んだ次の瞬間、彼女は人の姿を振り捨てた。一瞬にして反転し、村娘の姿が消えて、人の片鱗も持たない魔物が出現する。

 そしてそれが合図であるかのように、その場にいたすべての村人たちが、ほぼ同時に反転した。

 まるで、大勢で乗っていたひとつの盆が、一気に裏返ったかのようだった。

 ジンクとサンガ、テグを捕縛していた兵士たちは、縄を引きちぎってあらわれた魔物に弾き飛ばされて転がった。

 民家の庭近くにいた兵士たちも、舞い上がる多数のヴィーヴルたちの翼に叩かれて尻もちをついた。

 兵士たちの視界が、いっとき何十もの数の翼で覆い尽くされる。魔物の群れは、それら自身が突然の変化に驚き興奮しているように、好き勝手にはばたきはじめた。


 全員が家族のように親しく暮らしていた村人たち──同じ土地で長年暮らし、同じものを食べ同じ水を飲み、支え合って生きてきた。心も身体もつながるものがあったのだろう。

 ラキスは、そこまでつながってはいなかった。背中側から突き上げられるような衝撃を感じたものの、持ちこたえた。だが精神的には、まったく持ちこたえていなかった。後ろ手を縄でくくられたまま、宙に向けて叫んだ。

「ジンク! だめだ、もとに戻れ!」

 それから地上に目をやって怒鳴った。

「やめろ、攻撃しないでくれ。人間だ。もとの姿に戻れるんだ」


 兵士たちは強者揃いだったが、今日は魔物狩りをする予定ではなかった。それに、これほどの人数が反転するとは予想だにしていなかったため、行動をとるのが若干遅れた。

 だが、弓兵たちが我に返りはじめている。狙いのはずれた矢が魔物の翼をかすめていくのが、ラキスの目の端に映った。


 ラキスとは離れた場所にいたエセルも、必死になって叫んでいた。

 「マージ、もとに戻って!」

 ふたりの脳裏を同時によぎっていたのは、以前、目の前で反転してみせたチャイカの姿だった。

 軽々と姿を変え、軽々ともとに戻ってみせた女の子の様子がよみがえる。戻ってみれば、あの子は反転前と何ひとつ変わらない無邪気な子どもだった。魔物なんかであるはずがない。

 目の前で飛びまわる群れの中にチャイカもいるにちがいなかったが、どれが彼女なのかまったく見分けられなくなっている。

 でも戻れるはずだ、必ず。

「お願い、殺さないで。人間なのよ」

 答える者はなく、かわりにファゴ・オレフの怒鳴り声が響き渡った。

「第五座、何をしている。早く浄化しろ!」

 頭上すれすれに寄ってくるヴィーヴルに対して、剣を振りまわしていた指揮官が、ようやく命令することを思い出したらしい。


 ディークリートは、魔物に向かって走り出そうとするエセルを抱き止めながら、上ではなくなぜか地面のほうをにらみつけていた。そして、指揮官の指示とほとんど同時に顔をあげると、すばやく魔法剣を抜き放った。

「何するの、ディー」

 エセルが悲鳴をあげた。

「やめて、ひどいことしないで」

「わたしから離れないでください、姫様」

 左腕でエセルを抱え、右手に輝く剣を構えながら、強い調子でディーが言った。それから、いきなり前方の地面に向けて魔法の剣を振り切った。


 銀色に燃え立つ炎が地表を駆け抜け、めざすものに激突した。激突されたものが、たちまち銀の炎に包み込まれて燃え上がる。地中から上がってきた新たな魔物を、浄化の炎が捉えたのだ。

 それは反転で姿を変えたものではなく、もとから大地の奥深くに潜んでいた本物のヴィーヴルだった。

 翼があるにもかかわらず、ヴィーヴルという魔物の群れは地底に棲むと言われている。それが時おり、いかなる力を持ってしてか、黒い翼で土を掘り起こしながら人間の里に上がってくる。


 おそらく、森の瘴気が村に流れ込んでくるのとともに、ヴィーヴルたちも移動していたのだろう。それが村人たちの一斉反転にひきずられて、地上に呼び出されてきたのかもしれない。

 あるいはその逆か。地下からヴィーヴルが出てこようとしていたちょうどそのとき、地上で負の感情があふれたため、両者が呼応しあって一気に反転を引き起こしたのか──。


 いずれにしても、この場でそれを考えることができる者は一人としていない。土砂を巻き上げながら地上に上がってきた魔物が、一匹ではなかったからだ。

 魔法炎を受けたものは浄化されたが、地面のあちらこちらから翼が突き出し、竜体が持ちあがってくる。庭先を囲む木の柵がひっくり返り、灌木が根元から倒れる。

 捕縛されたままのラキスは、ファゴ・オレフの足元を揺らして出てきた魔物が、鎧に包まれた身体をくわえて大きく振りまわす様子を確認した。


「この縄を切れ」

 手首に巻かれた縄をはずそうともがきながら、ラキスが背後を振り返った。

「応戦する。早くしてくれ」

 彼を担当している兵士は、青ざめながら首を横に振った。

「そんなこと言って、この隙に逃げる気だろう」

 驚いたことに、こんな場合でも忠実に任務を果たすつもりでいるらしい。

 状況をよく見ろ、と、ラキスが怒鳴り返した。

「おれの剣を貸せ。あれは魔法剣だ」


 この一言は、さすがに効果があった。剣帯ごと剣を取り上げたのはこの兵士だったが、中身が魔法剣だとは思っていなかったのだ。

 没収された剣が馬車の中に置かれているにもかかわらず、兵士は相手の勢いに押されるように、短刀で縄を切った。

 そして、自由になった若者がヴィーヴルに立ち向かうことを期待したのだが、若者がまず最初にしたのは、いきなり駆け出すや否や、弓兵に体当たりすることだった。ちょうど上空を狙って矢を射るところだったのだ。


 ラキスの耳に、貴様やっぱり、とわめく兵士の声が聞こえ、さらに遠くでは、自分の名を叫んだディーの声が聞こえていた。あとの声は、おそらく制止しようとする声だろう。

 だが止まるわけにはいかなかった。彼は振り向きざまにもう一人の弓兵を思いきり蹴り飛ばして、攻撃するのを食い止めた。止めながら叫んだ。

「ジンク、ゼム、ルイサ!」

 地上から出てきた魔物と上を飛んでいた魔物が混じり合い、どれがどれやらわからなくなりつつある。名前を呼ぶしかないのだ。

 と、ラキスの耳に今度は高い女性の声が届いた。

「ラキス」


 振り向くと、必死にこちらに来ようとしているエセル姫の姿が、垣間見えた。

 ラキスとエセルがいる場所はかなり離れていて、飛びまわるヴィーヴルと応戦する兵士たちが、その間で乱れ合っている。

 魔物たちはよく見れば、意味もなく地表近くを飛ぶものと、明らかに人を攻撃してくるものに分かれており、それが村人たちを見分ける鍵になるのかもしれなかった。だが、兵士たちがそんなことを気にするはずもなく、現場は大混乱になっている。


 ディーが、エセルの身体を抱えてかばいながら避難させようとしているのだが、肝心の彼女が抵抗していた。ラキスのほうに駆け寄ろうと、身を乗り出して叫んだ。

「ラキス!」

 彼女の立っている真下の地面が、いきなり丸く輝いたのは、その瞬間だった。

 エセルとディーの足元に、小さな輝く円があらわれ、その円からまぶしい光があふれだして光の柱をかたちづくる。

 柱はまたたくまに上に伸び、二人の全身をすっぽりと包み込んだ。


 それは禍々しい光ではなく、かといって魔法炎のような輝きでもなく、しいていえば太陽の光に似ていた。円柱の中に入った二人は呆然としていたが、すぐに変化があらわれた。

 エセルシータ姫の身体が、光にとけるように薄れはじめたのだ。

 ディーが両腕で姫を抱き止めていたのだが、薄れていくのはエセルの全身だけだった。直後、彼女の姿は、地面にすっと吸い込まれるようにして消え失せた。

 ディーの両手が宙を掻く。足元を見下ろしても、そこには光の残る地面しかない。


 一瞬のうちに起きたこの出来事を、ラキスもただ呆然とみつめていた。エセルの消失が受け止められず、声を出すことも身動きすることもできなかった。

 だから、剣の柄頭を下にして握った兵士が、背後から思いきりそれを振りあげたことにも、まったく気づかなかった。

 後頭部に衝撃が走り、彼は昏倒した。光の残像がよぎっていった気がしたが、またたくまに暗闇が訪れ、視界のすべてを覆い尽くした。




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― 新着の感想 ―
[良い点] またまた波乱が起こりましたね。 魔物でもなく、半魔でもなく、人間。 だけど、魔物みたいな状態。 どのように展開するのか気になります。
[一言] 部分別感想初めて書いてみます! えっ、どうなっちゃうの? という展開ですね!今までずっと物語の奥に潜んでいたものが耐えきれず、一気に爆発した印象を持ちました。これからどうなるのか楽しみに待っ…
[一言] おおうっ、手に汗握る感すごいです(@_@;) 誰か、冷静に動ける人がいれば良かったのに…… ディーは比較的冷静だった気がしますが、一人では厳しかったですね。 ラキスたちにとって、状況が悪…
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