31
物陰からこっそりみつめて悶々とする、などという行為はエセルらしくなかったし、村人たちにしても同様だった。そこで皆はそれぞれの持ち場に戻っていったが、エセルはジンク宅には帰らず、マージとともに移動することにした。
マージは畑か牛舎にでも行くのかと思ったのだが、そうではなく、散歩に出ている兄のドニーを、これから迎えに行かなければいけないという。ドニーのいるところは見当がつくが、迎えがない限り一歩も動かないから、食事時間の前に連れ戻してあげたいらしい。
同行してもいいだろうかとエセルがたずねると、マージは目を輝かせてうなずいた。
「もちろん! 兄さんもきっと喜ぶよ。お姫様に会えたおかげで、ゆうべはすごく機嫌がよかったもの」
それからあわてて口を押さえた。
「あっ、喜びますよって言わなきゃね。礼儀知らずなもんだから」
「全然かまわないわ。敬語はわたしも苦手なの」
笑いながらエセルが言うと、マージも安心したように笑い返した。
マージによれば、昨夜の兄は、ここしばらく見たことがないほど食欲があり、元気もよかったらしい。エセルの目には、やつれた病人が嫌々席についているようにしか見えなかったのだが、いつも世話をしている妹の評価は違っていたようだ。
しっかり者で明るい妹が、兄を気遣いながら食事していたきのうの様子は、エセルにとっても印象的だった。
いまだって、ただでさえ忙しい時間帯に、本来なら一番の働き手であるはずの青年を迎えに行かなければいけないなんて、大変なことだ。それなのに、マージは嫌がりもせず進んでそれをしようとしている。
村の女たちもちゃんとわかってくれていて、別れ際に「乳搾りはあたしたちがやっとくからね」「卵はもうとった?」といった声をかけていた。皆で家族のように支え合いながら暮らしているのだと、エセルは感銘を受けた。
ふたりは民家の集まりをあとにして、牧場や木立の横を通り過ぎていった。一面にひろがるキャベツ畑や、ところどころに立っている案山子を眺めながら歩いていく。
畑をへだてた向こう側には別の集落らしきものが見え、西側は深い森に続いていた。キャベツの様子を見てみると、濃い外葉の中で大きく結球していて、もうすぐ収獲できそうだった。
かなり遠方で何人かの農夫たちが作業していたが、そのうちの一人がこちらに気づいて手を振ってきた。もちろん、王族が歩いているとは夢にも思っていないから、単に知り合いの村娘に挨拶しているのだろう。
手を振り返したマージが、いまの人たちは畑向こうに住んでいる住人なのだと説明した。そちらにいるのは生粋の人たちばかりだが、どちらも同じドーミエ・シザの村民だという。
共同で使用している畑も多く、マージたちも市場や鍛冶屋などに用があるときは、向こうに出かけていくそうだ。
生粋とそうでない者の双方が、ちゃんと交流できていることを知るのは、うれしいことだった。
エセルは少し歩調を落として、早歩きのマージの後ろ姿を、あらためてみつめてみた。
腰の下あたりまで届く両翼は、いまはきゅっとすぼめられている。ワンピースの背中側が深くあいているので、翼の付け根部分の素肌がそのまま出ているはずだが、特に目立った感じはしない。
ひとつに束ねた焦茶色のくせっ毛が、長く伸びてそこをかくしているからだ。
そういえば、マージは跡取り息子のゼムと婚約中だという話だった。少し気が強そうな彼女と、どことなくおっとりしているゼムは、ぴったりの組み合わせだ。
婚約の話を聞きたかったので、エセルは足を速めて村娘に追いつこうとした。
だがそのとき、マージの足元の道から、何か淡い色合いのものが煙のように舞い上がるのが見えた。淡いものは、彼女の背中に吸い込まれるようにして、あっというまにかき消えた。
蜘蛛の糸かしら? エセルは思わず目をこすった。銀色っぽい糸の集まりのように見えたのだ。それとも単なる目の錯覚──。
「お姫様、どうしたの。歩くの疲れた?」
マージが振り向いて、声をかけてきた。
「いいえ。いまちょっと……何かの糸みたいなものが見えた気がして……」
「あ、蜘蛛の巣ひっかけたかな。自分ではわかんないけど、最近よく見かけるんだ。ほかの人がひっかけてるとこ」
春だから蜘蛛も忙しいんじゃない? と、マージがなんでもないことのように笑った。
「虫がくっついてたら嫌だけど、そんなことないから大丈夫だよ」
「そうね……」
マージらしいシャキシャキした口調で言い切られると、なんの問題もないような気がしてくる。
でも、もう一度同じことが起きないかどうか、ちょっと注意して見ていよう──そう考えたエセルは、田舎道に視線を落としたが、すぐに中断することになった。目的の人がいる場所に到着したからだ。
「兄さん、朝ごはんの時間だよ」
マージが声を投げた先にあるのは、小さな墓地だった。数本の林檎の木に守られた狭い敷地、そこだけ草を刈り込んだ中に、村民たちの素朴な墓石が並んでいる。
林檎の花はもう散っていたが、根元で咲く可憐な野茨の花が、舞い散った花びらを受け継いだように白い。
その一番端、一番新しそうな石の前で立ち膝をついた青年は、妹の声に振り返ろうとしなかった。ただ虚ろな視線を墓石に落として、石に同化するようにじっとしている。
マージは、それ以上呼ばなかった。少し離れた場所で唇を噛みしめて立ち尽くした。
エセルもやはり、近づくことができなかった。あの墓石の下には──事件の説明を受けたときに、ラキスから聞かされた言葉がよみがえる。
下には誰も入っていない。気の毒なカーヤを村まで運ぶことができなかったから、遺体はみつかったときの場所にそのまま埋葬された。だから石は、残された人たちの思いを受け止めるためだけに、そこに置かれている……。
「……ひどいよ」
唇から無理やり押し出すように、マージが呟いた。
「なんでこんなひどい目にあわなきゃいけないの? カーヤも兄さんも、なんにも悪いことなんかしていない。ふたりともほんとにいい人たちで……もうすぐ子どもが生まれるんだって、あんなに喜んで……」
「……」
「それなのに、悪いことをした奴がのうのうと生きてるなんて。しかも訴えたラキスやお義父さんたちのほうが、捕まって裁判にかけられるなんて。ひどいよ、納得できない」
「マージ……」
「お姫様」
マージがいきなり振り向いた。涙のたまった瞳をエセルに向けて、詰め寄るように身体を寄せた。
「ラキスはわかってくれた。会ったこともないカーヤのために悲しんで、うんと親身になってくれた。ラキスが味方でいてくれて、あたしたち本当にほっとしてるんだ。お姫様もあたしたちの味方だよね。あたしたちのこと、助けてくれるよね?」
エセルはとっさに返事ができなかった。マージの翼がぐっと持ち上がり、異様に大きくなったように見えたからだ。迫力に気圧されて、思わず視線をそらすと、ちょうど視線の先にいたドニーが立ち上がったところだった。
興奮した妹とは正反対に、こちらに向けてきた青年の顔は意外にもおだやかだった。エセルが来ていることに気がついて、かすかに喜んでいるようにさえ見える。
エセルはかろうじて微笑みかけたが、本当はもっと別のことがしたかった。絶対に味方だとマージに請け合い、ドニーにももっと声をかけ、そしてカーヤの墓前に花を手向けたかった。
けれど、それらのことをする前に、馬のひずめの音が急速に接近してきた。
「姫様、お戻りください。お迎えが来ています」
馬上から呼びかけてきたのはディーだった。栗毛の馬から身軽に降りると、姫君を乗せるために手を差しのべてくる。
エセル姫が自由に出歩ける時間は、どうやら終わりになったようだった。




