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大地の守護は地の底にあり、炎の姿でこの地上まで昇り来る。大気の加護は蒼穹にあり、光の姿でこの地上へと降り来たる。
蒼穹は深淵と地上を隔て、淵の魔物がこちら側に泳ぎ出るのを防いでいる。蒼穹に亀裂が走り裂け目が広がり、汚濁がこちらに流れ出すこと…人はそれを古来から、恐れを込めて決壊という名で呼んでいる。
──シガルに亀裂が入ったとき、町を救ってくれた勇者様って、ディーのお父さんだったんだね。
守護に加護、蒼穹、深淵……綴りかたが難しい語句を、石板にチョークで何度も書きながら、少年が言った。
──リュシラが教えてくれたよ。すごいなあ、お父さんが勇者様だなんて。
──シガルじゃなくてシガール。
そう訂正した相手は、向かい側の椅子にすわり、柳の小枝と針金を組み合わせている最中だった。
彼は二つ年上だったから、もう綴りかたの練習なんてしなくても、すらすらと上手に字が書ける。でも、小枝と針金でつくる馬のおもちゃに関しては、まだカイルみたいにうまくはできないようだ。
──それに、全然すごくなんかないよ。おれはさ、嫡子じゃなくて愛人の子なの。嫡子と庶子じゃ天と地ほどもちがうんだ。
──ショシって何?
ディーは手を止めると、やれやれといった態度で無知な相手に説明した。
星の神様に誓いをたてて結婚した女性、つまり正妻の産んだ子どもが嫡子。結婚していない女性、つまり愛人に産ませた子どもが庶子。
嫡子と庶子では生まれたときから扱いがちがい、生まれた価値も全然ちがう──。
つっけんどんなディーの言葉を、ラキスは少し驚きながら聞いていた。
ふたつ年上であることを差し引いても、ディーという子は自分にくらべて何でもできたし、頭脳も優秀なような気がしていた。でもどうやら、そんな彼にも教えてあげられることがあるらしい。
そこでラキスは、自分の気持ちをごく正直に口にした。
──ディーって頭いいと思ってたけど、案外そうでもないんだね。
相手が目を剥いて何やら言い返したが、かまわなかった。ラキスとしては親切心のつもりだったのだ。
──だって勘違いしてるもん。天と地ほどちがうってのはね。ぼくとディーの違いみたいなことをいうんだよ。
相手に伝わらないようだったので、今度はラキスが説明した。
ラキス自身は両親の顔も名前も素性も知らず、川に捨てられ流された、半魔の子という身分である。
それにひきかえディーの父親は勇者様だし、母親はそこまでではないにしても、名前も素性も知れている。両親ともに生粋の人間で、捨てられたわけでもなんでもない。
チャクシだかショシだか知らないが、そんなことはラキスから見れば本当にささいな問題だ。生まれた価値に違いなんてあるはずはなく、むしろ十分すぎるくらいの価値がある──。
ディーは返事をせず、ずいぶん長い時間、ラキスの顔を凝視していた。それから無言のまま馬のおもちゃの制作に戻り、その日は一日中、口をきいてくれなかった。
年下の半魔に、頭がよくないなどと言われたことが、ショックだったのかもしれない。
薄い布団を重ねたベッドの上で、エセルシータ姫は目を覚ました。
建てつけの悪い鎧戸の隙間から、早朝の光が洩れてきて、部屋の中はすでにうっすらと明るい。ぐっすり眠り込んでいるうちに、いつのまにか夜が明けていたようだ。
コルカムの少年たちの夢をみていた気がする──エセルは横になったまま、ぼんやりと夢の余韻を味わった。ラキスといっしょに育ったという人物に出会えたことが、夢にまで大きく作用したらしい。
そのおかげで、エセルは城の寝室とは大違いの場所にも、さして違和感を覚えなかった。ラキスやディーも、こんなふうに粗末な部屋と天蓋のない狭いベッドで、寝起きしていたことだろう。
こんなに鎧戸から光が洩れるということは、冬場はさぞ隙間風が寒いにちがいないと、エセルは考えた。だが、いまの季節は明るいことが心地よく、彼女は布団から身を起こすと、苦労しながら向きを変えてベッドからおりた。
なぜ苦労したかというと、身体中が筋肉痛だったからだ。腹筋が妙に痛いのは、おそらく昨日ラキスに吊り下げられたせいだろうが、首筋や肩のほうは、慣れない固いベッドで眠ったせいかもしれない。
しかし、動きがぎくしゃくするからといって、そうのんびりしているわけにもいかなかった。
農村の朝が忙しいことくらいは、エセルも知っている。夜明けとともに起き出して、体力や集中力のある朝のうちに、できるだけ農作業を進めるのだ。
畑だけではなく、鶏小屋や牛舎にも行かなければならない。家畜たちの健康状態を確認し、餌をやり水を取りかえ、散らばる糞などの掃除をしてから、やっと人間たちの朝食の時間になる。
しかも予想では、今日からしばらくの間、大事な働き手である男たちが家を空けることになるはずだった。だからますます、朝の間にできるだけ仕事をすませておこうと、皆思っているにちがいない。
ジンクにサンガにテグ、加えてもちろんラキスという、大聖堂乱入組は、いったんはマリスターク側に捕らえられて収監されることになる──ゆうべラキスたちが、夕食後に打ち合わせていたのは、そんな物騒な内容だった。
収監だなんてぞっとする話だったが、その後、全員が出廷することになるので、それまではやむをえない処置なのだそうだ。自宅で裁判を待つなどということが許されるわけがない。
嫌がったり気遅れしたりするかと思いきや、頭領たちは逆にやる気満々だった。
出廷すれば、公の場で堂々と自分たちの意見を主張をすることができる。しがない炭焼き職人や木こりが、貴族たちに直接話を聞いてもらえる機会など、めったにあるものではない。これは絶好のチャンスなのだ。
男たちがそんなふうに息まき、女たちまで「あんた、がんばってきな」だの「留守はちゃんと守っとくよ」だのと言いはじめたので、彼らを落ち着かせるには一苦労だった。
裁判でとにかく大事なのは、落ち着いて話すこと。怒ったりわめいたり、あからさまに逆らったりしては、絶対にいけない。行儀よくして、貴族たちの機嫌をそこねないことが肝心だ。
ラキスとディーが、しつこいくらいそう念を押して、ゆうべの打ち合わせは終わったのだった。
エセルの見解では、もっとも貴族たちの機嫌をそこねるのは、コンラート卿が殺人犯であると言い張ることだった。そしてもちろん、ジンクたちはさんざん言い張るだろうし、冷静に見えるラキスだって同じだろう。
だからこそ、裁判がはじまる前までに自分が女王や伯爵たちに会って、ちゃんと話しておかないと。誤解があるにしても、彼らの心根は正しいものであるということを……。
エセルは、いますぐにでもマリスタークに飛んでいきたい心境になったが、リドがいてくれるわけでもなく、自力ではとても無理だった。川を越えなければいけないのだし、やはりラキスたちの考えるように、向こうから迎えにきてくれるのを待つのが一番いい。
とりあえず、いま自分にできることとして、彼女は長い金髪を三つ編みにすると、冠のように頭に巻きつけてみた。ラキスをさがして丘に登ったときもしていた髪形で、大きく動いても邪魔にならない。
着ているのは婚礼用の白いドレスで──こんな格好のまま寝たなんて──農作業を手伝うにはたいへん不向きなようだった。
だが、着替えがないので仕方ない。朝食の用意をするくらいのことはできるかもしれない。
家の中には人気がなかったが、外ではニワトリたちの鳴き声がにぎやかだった。すでに鎧戸を開いた窓からのぞいてみると、元気のいいニワトリたちにかこまれたルイサが振り向き、にこにこと声をかけてきた。
「あれ姫様、早起きですね。まだ寝といてくださいよ。朝ごはんはもう少しあとになっちゃいますからね」
いかにも働き者らしい頭領夫人は、平飼いにされている鶏たちを引き連れながら、さっさと裏手にまわっていってしまった。
何を手伝えばいいのかわからなかったので、エセルは玄関扉から外に出ると、ニワトリとは別の方向に歩いてみた。
ラキスはどこにいるのだろう。やっぱり畑のほうだろうか……。
面積だけはやたらと広い庭を見まわしながら、物置小屋の脇を通り過ぎようとする。だが完全に通り過ぎる前に、横を見やって気がついた。
少し離れた場所、ニワトコの花が咲く木々の間に、めざす人がいるのをみつけたのだ。ラキスだけでなく、ディーとチャイカもいっしょだった。
剣士ふたりは、チャイカをまんなかにして丸太の腰かけにすわっていた。畑仕事ではなく、意外にも子守りを任されていたようだ。
チャイカがディーの手元を熱心にのぞきこみ、ラキスもなんとなく興味ありげな様子で見下ろしている。おそらくチャイカのために、小枝か何かで、おもちゃでもつくってあげているところなのだろう。
昨日の夕食時は、驚くほどそっけない態度をとりあっていたラキスとディーだが、並んでいる様子は、これもはっとするほど自然な空気感に包まれている。
黒い翼がいくぶん異彩を放ってはいるものの、なんだかやけにほのぼのとした光景だ。
エセルは、少ししたら声をかけようと思いながら、しばらくの間、三人の様子を眺めていた。だがそのうちに、なぜか妙に気持ちが乱れてきて、予定を変えざるをえなくなった。
いま近づいて声をかけることなどできそうもない。近くに行ったら、こんなふうにラキスを問い詰めてしまいそうだ。
ディーと暮らしていたことを、どうしてわたしに一度も教えてくれなかったの? コルカムでのいろいろな出来事を、どうしてわたしに何も教えてくれないの?
わたしも知りたいのに。どんなふうに暮らしていたのか、どんなふうに成長したのか、ディーならあたりまえみたいに知っていることを、わたしだって……。
ある種の嫉妬にも似た感情にとまどって、エセルは物置小屋のかげに身をかくすと、壁に寄りかかった。
すると、びっくりするほど近くから女性の呟きが聞こえてきた。
「チャイカになりたい……」
いつのまにやら村娘のマージが壁際にいて、やはり身をかくしながら三人の姿をのぞき見ている。しかも、見ているのはマージだけではない。数人の女たちが、壁にへばりつきながらそれぞれの所感を呟いていた。
「なんなの、あれ。なんでチャイカひとりが、あんないい場所に……」
「いいよねえ、両手に王子様……」
「無邪気な子どもってのは得だねえ……」
たしかにこの人たちなら、頭領たちがいなくても留守をしっかり守れるにちがいないと、エセル姫は思った。




