24(上空)
姫君を乗せた天馬が遠ざかっていくのを、ラキスは大木の枝に腰かけたまま見送っていた。
星の光をいち早く吸い取ったようなリドの翼が、夕闇の中に白く浮かび上がって見える。翼の根元あたりでひらめいているのは、お姫様の白い婚礼衣裳だろう。
彼女の長い金髪も、きっと同じようにたなびいているにちがいない。
天馬は、道の上を散歩でもしているように、低くゆったりとはばたきながら、高い木立の向こう側に消えていった。
似合いの一対だと、ラキスは思った。聖獣にはレントリアの第三王女がよく似合うし、もちろん王女にも、天つ御使いさながらの白い翼がふさわしい。
似つかわしい者どうし、あのままマリスタークまで無事に飛んでいくことだろう。何にしても、これで本当にお別れだ。エセルとも、たぶんリドとも。
リドが以前の乗り手に見向きもしなかった件については、とくに驚きはしなかった。そうなるだろうという、漠然とした予想があったのだ。背中を突き破って生えた黒い翼を、リドは受け入れないだろうという予想が。
もの好きで気まぐれな天馬。銀鱗持ちの小さな子どもが気に入ったのか、さわってもじゃれついても嫌がらず、またがることさえすんなりと許した。成長してもそれは変わらず、ずっとなついていてくれた。
好き勝手に現れたり消えたりしていたものの、完全に離れてしまうことはなく、魔物狩りにつきあうという気前のよさまで発揮した。
その理由は推測できる。リドはとにかく、瘴気というものが嫌いなのだ。魔物を浄化してまわるという乗り手の意志は、リドの気性に沿うものだったにちがいない。
だから、こちらが剣をふるうときには、頼まなくてもすすんで動きに加担してきた。浄化がうまくいったときは満足そうだったし、うまくいかないと、むきになって我を忘れることもあるようだった。
インキュバスと闘ったときがいい例で、あのときは闘いに夢中になるあまり、自分が川に叩き落とされてしまったくらいだ。
聖獣には<星の道>という奥の手があるのだから、闘いを切り上げ、さっさと退散することだってできたはずだ。それをせず、乗り手に合わせて居残っていたなんて、天馬というのは意外と──ラキスは遠慮なく考えた──頭が悪い生き物にちがいない。
深いため息を吐き出すと、彼は視線をそらして身じろぎをした。それから、天馬に嫌われた禍々しい両翼を活用して、ふわりと空に舞い上がった。
とりあえず、いまはジンクの家に戻らなければならない。そしてエセル姫の帰りを待っている村人たちに、もう待つ必要がないことを伝えて……せっかく家中の掃除をしたのに、肝心の客人が来ないだなんて、さぞかしみんな失望するにちがいないが。
飛行のためにラキスが身体を水平にすると、剣帯に下げていた長剣が腰から離れてぶらぶら揺れた。彼は左手で剣をしっかりと握り、念のために右手で腹のあたりを探った。
チュニックの下には腹帯が巻かれていて、そこに報償で得た宝石類や小銭がおさめられている。いくら空中飛行が便利でも、大事な剣を落としたり財産をばらまいたりするのだけは願い下げだ。
ラキスは、生まれたときから飛んででもいたような器用さで翼を動かしながら、今後のことを考えてみた。
追手の大半が今日中にドーミエ側に渡っているのは、まず確実だった。エセルの行動にかかわらず、彼らは明日も予定通りに捜索をし続けることだろう。
そして、この村を突きとめて中に踏み込み、そこに守るべきエセルシータ姫の姿を見出せなければ……。
彼らにとって、村にいるのはただの暴漢たちの群れ。姫に遠慮する必要もないわけだから、非常に荒っぽいやりかたで、ジンクたちを傷つけながら捕えるかもしれない。
……やはりエセルには、ここに残ってもらったほうがよかったのか?
だが──リドに乗ってまでマリスタークに帰ることを決めたのは、エセル自身だ。彼女が自分自身の意志で──。
ふいに、ラキスは翼の動きをゆるめた。それから、ふたたび大きくはばたき上がると、今度は集落とは反対の方角に向きを変えた。反対方向にはドーミエの暗い森林が迫っていたが、かまうことなくそちらをめざして飛びはじめる。
夜の森には、たとえ上空であっても近づくべきではないのだと知っていた。知っていたが、どうでもいい気分だった。
急にすべてがばかばかしくなってきたのだ。
どうしてわざわざ、頭領の家なんぞに帰らなければならないのだろう。あそこに泊まって、追手が来るのをおとなしく待っているなんてばかげている。おれ一人だけなら、いくらでも好きなところに逃げられるじゃないか。
ジンクみたいな種類の人間には、家族や仲間たちと離れて生きることなどできやしない。だが、自分にはそれができると、ラキスは思った。
ずっとそうやって生きてきた。これからだってそうして生きる。
もちろん追手は来るだろうが、そんなものにおれは捕まったりしない。厄介な村人たちが後ろにくっついてさえいなければ、どうにでもなるのだ。
ラキスであっても「楽な道」という言葉を知っていたため、いまそれを心にとなえることを、彼はためらったりしなかった。根拠となる理由を考え出すのも簡単だった。
そもそもジンクたちが大聖堂に乱入したりしなければ、こんな面倒なことにはならなかったのだ。それに……そうだ、やっとの思いで手にした魔法剣を嫌がるような輩たちに、これ以上つきあってやる義理はない。一人で逃げるほうが、はるかに楽だ。
荒んだ気分を抱えたままで森林近くにたどり着くと、彼は目的地も定めずに森の端を飛びはじめた。
翼の調子は良好で、こんなに自由に使えたのかとあきれてしまうくらいだった。広大な森の向こうまで一気に連れていってくれそうなほど、力強く感じられる。
その強さが魅力的だったので、ラキスはしばらくの間、まったく気づかないままだった。森の瘴気が、翼に力をあたえているということに。
頭上の夜空には清浄な星の光がやどっているが、ドーミエの森の奥底に、星の光は届かない。陽光の恵みが去ったそのあとで、森を支配するのは暗黒だけだ。
もちろん暗黒の中にも輝くものは多様にある。
夜に目覚めるコウモリやフクロウたちの、丸くひらいた大きな目。樹木の間をうろつくオオカミ、キツネ、すばやいネズミ──夜行性の獣たちの、鋭く光る金色の目。
そして、それらを喰らう魔物たちの、邪気にまみれた異形の目。
魔物が喰うのは人とは限らず、人が踏み入らない場所でくり返される動物と魔物の攻防は、自然界の掟の一部となっていた。
動物たちは苦労を重ねていたものの、考える習慣がなかったため、それについて悩んだりはしなかった。攻防しながら共存する。そんなやり方は、動物たちだからこそ身につけることができた智恵なのだ。
だが、ドーミエの森で行われたここ何カ月かの攻防は、智恵者たちにとってさえ、うんざりするほど激しいものだった。
もしも動物たちの声が聞きとれたなら、聞いた者はふるえ上がったにちがいない。その声はこんなふうに叫んでいたであろうから。
これは前兆。大気が裂けて魔性のものがあふれ出てくる、これは前触れ。逃げよ。逃げよ。浄化の炎が邪気のすべてを焼き尽くすまで、森にはけして近づくな。
彼らの警告を聞きとることのできる者は、無論一人もいなかった。森林の深奥部で起きた変化は、人間たちが感じとるには遠すぎた。
上空を行くラキスにしても例外ではなく、だから彼は、暮れ落ちた森林に無防備に近づくことができたのだった。
だが、遠いはずの変化はいきなり体感として現れた。樹木の梢から噴き上がってきた瘴気の塊が、突然、翼にぶつかってきたのだ。
翼が破れ飛んだかと思うほどの波動に、ラキスは驚愕した。
少し前、魔法の炎を召喚したときも引きちぎれるかと思ったが、衝撃の種類がまったくちがう。あちらが清流の激しさだったとしたら、いまのはまるで泥水の滝だ。
我に返ってあたりを見まわし、そこでようやく自分が森の奥めがけて進んでいることに気がついた。森のきわに沿っているつもりでいたはずなのに、いつのまに……。
ぞっとした。何よりもぞっとしたのは、いまの衝撃で翼が破れるどころか、かえって力を得たような感覚が満ちてきたことだった。
あわてて進路を変更し、森林上から草原のほうへと移動した。強い波動は一過性だったらしく、静まり返った樹木群から、ふたたび瘴気が上がってくる気配はない。
逃げるように飛びながら、彼は以前ジンクたちから聞いた事実を思い出した。
前から飛べたわけじゃない、去年の秋くらいにいきなり飛べるようになったんだ。たしか頭領はそんなことを言っていた。
怒ったり悲しんだりすると翼が大きくなるような気がする、ともつけ加えた。
気のせいではなく実際に大きくなっていたことは、おれがこの目で確認している──。
この森に近づいてはいけないのだと、ラキスは強く思った。おれはもちろん、ジンクもルイサも、ゼムもマージも全員だ。
チャイカのように特殊な子どもの存在自体が、警告だったかもしれないのに、平気で暮らし続けるべきじゃなかった。
ジンクたちにこのことを伝えて、早くどこかに移住を……。
あれ、でももしかすると、いまは引っ越しなんかしている場合じゃないんでは? 明日になったら警備隊が暴漢を捕まえにきて……荷作りなんかしていた日には、逃亡罪で即刻──。
ラキスは若干混乱しながら、せわしなく翼を動かした。
この際もっとも楽なのは、一人で逃げる道だったのだが、すっかり忘れ去ってしまい、集落のほうに向けて飛行していった。




