18
かつて追いかけた炎は、枯れ木ばかりの木立の間を動いていたが、今度の炎が行くのは畑の中だった。
おかげで、十九歳のラキスは、作物の育つ畑に無断で踏み込んだり、堆肥の山にあやうく突っ込みそうになったりした。
山の下で炎が止まらなくてよかった。あそこで召喚するなんて、どう考えてもいただけない。
炎の気配は、あいかわらず行ったり来たりをくり返している。東に西に。地底に地上に。
ラキスは徐々にあせりはじめた。太陽の姿は完全に森の向こうに消えて、名残りの光が景色を薄青く染めている。森に帰る鳥たちだけが、悠然とした影となって空を横切る。
まもなく、ランタンなしでは歩けない時間がやってくるだろう。
夜の森に近づくのは避けたかったし、エセルの居場所からだんだん離れていくのが気がかりだった。あまり離れると、護衛できなくなってしまう。
お姫様は、ちゃんとジンクの家に帰りついただろうか。これ以上追いかけるのは、あきらめるべきかもしれない。
思いながらも畑を越えて、今度はまばらに木々のある草地に足を踏み入れた。迷っている頭の片隅で、昔探しまわったときもこんなふうに日暮れにさしかかっていたことを、ちらりと思い起こす。
あのときは、日が暮れるからあきらめるなんて思いつきもしなかった。夕暮れの冷え込みで息が白くなった覚えはあるが、寒いと感じた記憶はない。それくらい炎を追うのに夢中だったのだ。
どうしても召喚したかった。魔法剣を手に入れたかった。
炎がすぐそこまで来ているという実感があったし、これを逃したらもう自分は生きていられないという、切実な感情もあった気がする。
だから、ついに自分の真下の位置で、炎が止まったことを感じたときは───炎の真上に自分がいると悟ったときは、信じられないくらいうれしかった。
それと同時に、まだ見ぬものへの畏れのために手がふるえて、剣を鞘から引き抜くことさえ苦労した。だが……。
幸い今回は、ふるえすぎて剣を落とすなどという、未熟な真似はしないですみそうだ。
はやる気持ちを意志の力で抑えつけながら、ラキスは足を止めた。
もう走る必要はない。
地の底を自由に動きまわっていたものが、たったいま、自分の真下の位置に入った。
深く息を吐き出すと、ラキスは下げていた長剣を冷静な動作で鞘から抜いた。腰を落として地面に片膝をつき、剣の柄をしっかりと両手でつかんだ。
そして一気に、それを大地に突き刺した。
剣の鍔が地面にぶつかるまで突き刺したにもかかわらず、なんの変化もおきないことに、十二歳のラキスはとまどった。
しばらく待ったが、期待していたように劇的な瞬間は訪れない。
しまった、場所をまちがえたかな。あわてて引き抜き、少しずれた位置に刺し直してみたが、結果は同じだった。
自分の真下に炎が「いる」ことを、はっきりと感じているのに……まるで、意志のある生き物が休憩をしているみたいに、ゆったりと下にとどまっているのを感じとっているのに。
大物の魚が、釣針の餌に見向きもしてくれないときを思い出す。自分が放った餌にまったく振り向いてもらえないときの感覚にそっくりだ。
召喚できなかったらどうしようと、ラキスはひどく動揺した。追いつめられた気分におちいったのは、ちょうど、どうにかして一人立ちをしなければいけないと、あせっていた時期だったからかもしれない。
いま世話になっている家には長くいられそうもなかったが、次の引き取り先がまったく決まっていなかったのだ。
家がなくても別にいいんだ、もう十二歳だもの。この村を出て、自分ひとりの力で生きていけばいい。ずっとそう思い続けていたけれど……。
藁布団にしがみついて眠れぬ夜を過ごしていると、どうしても余計なことを考える。こんなにさびしいのに、なんのために生きなければいけないのかと、役にも立たないことを考えてしまう。
──あきらめずに炎の気配を追うことができたのは、そうやって悩んでいたからこそなのだろう。
魔法剣さえあれば、魔物狩りの使い手になれる。仕事ができてお金も入る。
そして何より、大好きだった養父母の命を奪いとった憎い魔物を、この手で成敗することができる。悩みのすべてが解決するにちがいないのだ。
それなのに、肝心の魔法炎が取れないなんて……。
もしかすると、何か呪文みたいなものがあるんだろうか。調べておけばよかったと後悔しながら、ラキスはあちらこちらの地面に剣を突き刺してまわった。木の根が当たり刃こぼれしそうになって、ようやく動くのをやめる。
刺し込んだままの剣の上に、疲れ切った身体をかがめると、地底に向かって呼びかけた。
魔法炎。こっちを向いて、カイルがくれたぼくの剣まで昇って来てよ。
ぼく、がんばるから。たくさん魔物をやっつけるから。
お願いだから、ぼくにちょうだい。生きていく意味を。
ひたむきな声が地の底に届いたのかどうか──そのとき、ふっと、炎がこちらを振り向いた。
上がってくる……!
剣の柄を握りしめて、成長したラキスは思った。
いまの彼は、やみくもに剣を刺して無駄な体力を使ったりはしない。そんな動きは逆効果だということを、経験上知っている。
だが、いくら体力や経験があったとしても、今回の衝撃に自分が耐えられるかどうかわからない。
召喚というのは、実はたいへん危険な行為なのだ。
炎の圧力を受けとめ切れずに、剣が砕けるだけならまだしも、ほとんどは持ち手の身体までが吹き飛ばされてしまう。炎の使い手と呼ばれる人々が、世の中にわずかしか存在していないのは、そうした事情があるからだ。
少年時代の自分は、そんな事情はまったく知らなかった。あれほど無謀な真似ができたのは、何も知識がなかったからだともいえる。
そして、召喚が成功したのは、持っていたのがカイルの剣であったからにちがいない。
名工が我が子への思いをこめて打ち上げた、最高の剣だったから。加えて、持ち手の自分が心の底から剣の力を信じたから、その剣身は炎の居場所に選ばれた。
だがカイルの剣は、崖淵の闘いでインキュバスとともに砕け散り……現在使っている剣は、王城であらたに選んだ品物だ。
ラキスは瞳を閉じた。剣がちがうどころか、いまの自分はごていねいに、瘴気を吸った両翼つきの身の上なのだ。本当にできるか、この状態で……?
できる、と、彼は思った。迷いを消し去り一切の雑念を遮断すると、地底の炎に精神を集中した。
上がってくると思えた炎は、気がそぞろなのか動きを変えて、別の方角に行こうとしている。輝きながら揺れる光を心の眼でとらえながら、抑えた声で呼びかけた。
──どこを見てる。そっちじゃない。
──行き先をまちがえるな。おまえが昇ってくる場所は、この剣の中だ。
少年のころのように懇願しようとは思わなかった。魔法剣を手にしてからの長い時間が、懇願しないだけの自信をつくりあげている。
魔法の炎を使いこなして、数々の魔物を倒した。苦しんでいるたくさんの人々を救ってまわった。
そう、誰よりも大切なお姫様の命だって、ちゃんと救うことができた。
どんなにつらいと思うときでも、正しく炎を使ってきたのだ。ここで遠慮することはない。
だから……。
こっちに来い、と、ラキスは呼んだ。
きつく閉じたまぶたの奥に、さながら燃える大蛇のような炎の流れがうつっている。流れの一部が盛り上がり、頭となってあたりを見まわす。呼ぶ声がどこから来るのかさぐっている。
──ここだ。ここにいる。
──いま持っている剣も、居心地はけして悪くないはずだ。
炎が耳をすましている。この機を逃したら後はない。瞳の奥がまぶしく光り、実際に火の手があがっているかのようだ。
──剣の持ち主に翼があってもいいだろう? 銀鱗だって全然気にしなかったじゃないか。
──だから、こっちに来い。おれのところに……。
「来い!」
目を見開いて叫んだ直後に、衝撃が来た。
足元の土が透けるように輝いて、陽光にも似たまばゆい光があふれる。同時に、巨大な流れから分岐した炎の帯が、人の身には支えきれないほどの圧力となって剣の先にぶつかった。
地面に食い込んだ剣が激しく振動し、剣身を駆け上がってきた力が、両腕を通ってラキスの全身を駆け抜けた。
嵐の中の木の葉のように、髪がなびき衣服がなびく。背中ごと引きちぎれそうな勢いで、両翼がはためいている。
少年だった前回は、衝撃の強さに動転しながら剣の柄にしがみついていた。大丈夫。カイルの剣が守ってくれるから平気だと、心の内で何度も叫んだ。
風の唸りが耳を打つ中、ラキスは心のどこかで、悲鳴のようなその声を聞いていた。少年が叫んでいるから、自分は叫びはしなかった。それに、いまの剣では叫べるはずもない。
剣士としての自分を信じ、炎に選択されることを信じて、ひたすら耐えた。
耐えながらも、鍛えられた鋭い勘が、この風圧がそう長くは続かないことをかすかに感じとっていた。
少年のころには持っていなかった勘だ。大丈夫、待てばいい。圧力は必ずおさまる。
そして、その勘は正しかった。
はじまったときと同じような唐突さで、風が急速に弱まってくる。剣は砕けず、持ち手の身体も吹き飛ばされず、五体満足で残っている。少年の声はもう聞こえない。
召喚の成立だ。
まぶしかった周囲の光が、またたくまに大地に吸い込まれて、かわりににじみ出てきた夕闇が、静かにあたりにひろがりはじめた。
伏せていた顔をあげて、ラキスはゆっくりと背中を起こした。命綱にしていた剣の柄を握り直すと、おごそかな動作で土から引き上げていく。
まといついていた泥をぱらぱらと落としながら、あらわれた剣身は、水晶のように透明だった。そしてその水晶の中で、細い細い魔法の炎が、虹色の芯となってまたたいていた。
ラキスは剣先を上に向けて、目の前にそれをかかげた。
敬意をこめて、ささやいた。
「ようこそ、地上へ」
鋼の重さを持っていたはずの剣が、いまは拍子抜けするほどに軽い。魔法剣となった証しの軽さだ。
ラキスはしばらくの間、自分のものになった剣の光に見入っていたが、やがて腰の鞘にそれをおさめた。
それから、ジンクの家に戻るためにゆっくりと向きを変えたが、変えたところではっとした。
草地と畑の間の道に、エセルシータ姫が立っている。彼女の周囲には数人の村人たちが集まって、みな呆然とラキスのほうをみつめていた。




