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朴訥で働き者のゼムは、村娘のマージと所帯をもつ予定だと聞いていたが、年齢はラキスと同じだった。
おだやかな母親の気性をついでいるらしく、豪快な話しっぷりの父親とくらべると、ややおとなしい印象だ。
だが、マリスターク城の庭園に乗り込んだ三人のうちのひとりだったのだから、ただおとなしいだけではないのだろう。
素朴な人柄が、王城付き討伐隊でいっしょだったバルのことをなんとなく思い出させて、ラキスがとくに親しみやすいと感じる相手でもあった。
そのゼムが、あわてたように走ってきたため、ラキスは思わず緊張しながら問いかけた。
「どうしたんだ。エセル姫に何か?」
するとゼムは首を振って、彼の懸念を否定した。
「いや。ただ、ちょっと気になることがあったんで、あんたに話しといたほうがいいと思ったんだ」
「気になること?」
「ああ。実はさっきさ……」
ゼムの話によると、姫君を中心にした一行は、あまり森に近づかない範囲で集落を歩き、共同のパン焼き窯や粉ひき小屋などを見学した。
日没が迫ってきたので、それ以上は足をのばさず、いまはジンクの家に向けて引き返している最中だ。
だから姫にはなんの問題もないのだが、何気なく下を見ながら歩いていたゼムは、草の間を移動する小さなものたちを目にとめた。めずらしく、二度もコボルトの群れに出会ったらしい。
姫君を喜ばせようと思ったゼムは、小人のひとりをすくいあげるために、立ち止まってかがみこんだ。もたもたと遅れている赤い帽子が、ひとつだけ見えたのだ。だが手を差しのべたところで、はっとした。
そのコボルトは帽子も衣服もぼろぼろで、全身がクモの巣にまみれていた。群れに追いつこうとしているが、片足をひきずっているためにうまく走れないようだ。
小人は、差し出された掌を荒んだ顔つきで見上げると、よろけながら草やぶの中に入り込んでいってしまった。
「……汚れてるコボルトって、めったに見かけねえじゃないか」
話しているゼムの声も、不安のためかいつになく暗かった。
エルフやコボルトのような小さな存在は、なぜかいつも清潔な外見を保っていて、汚れたり傷ついたりした姿を人前に見せることはほとんどない。入浴や洗濯に熱心だとは思えないが、彼らには彼らにしかわからない理があり、それに沿って生きているのだろう。
「お姫様が来てるときに、何かあぶないことがあったらまずいだろ。平気かな。うちの掃除をしてた奴らは、みんな元気そうに見えたんだけどさ」
ラキスはかすかに眉をひそめた。その話が少年時代の記憶の一部にひっかかるような気がしたのだ。
あれはたしかコルカムの村に魔物が出たあとで……いや、前だったか? だが悪いことばかりが起きたわけではない。コボルト自体が何かするというわけでもなかったし……。
考え込んだラキスは、ゼムがこちらをのぞきこむようにして答えを待っていることに気がついた。
答えだけでなく、どのように対処すればいいか、これからやるべきことは何なのか、教えを乞おうとしているように見える。言われたとおりに動くつもりでいるのだろう。
ふいにラキスは、自分が信頼されていることを自覚した。わざわざ知らせに来てくれたゼムも、その両親やほかの村人たちも、流れ者の剣士にすぎない自分のことを信用している。認めてくれている。
半魔である身をかくすことなくさらしていても、ここではこんなに受け入れてくれる……。
感慨といってもいい気分が、一瞬、彼を包みこんだ。だが、無論いまは、そうした思いにひたっている場合ではない。
あえてあっさりした口調を選ぶと、ラキスは「大丈夫だ」と返事をかえした。
「汚れたり怪我をしたりしていても、コボルトたちは人に害はあたえない。気にしなくても大丈夫だよ」
「そうかい?」
「ああ」
「あんたがそう言うんなら……」
ゼムが呟き、ほっとしたような笑みを浮かべかけた。だが完全に笑うまではいかず、すぐにまた真顔に戻る。
それから、いつもの彼らしくもない心配そうな声で言葉をついだ。
「おれ……なんか最近、不安なんだ。コボルトのことだけじゃなくて、いろいろと。親父には気のせいだって笑われるんだけど」
「いろいろ?」
「うん。たとえば、おれたち自身がなんとなく変わってきたように感じたり……ときどき翼が大きくなったりとかさ」
「………」
「親父はああいう調子だから気にしちゃいないみたいだけど、お袋やマージは少しこわがりはじめてる。森ん中だってさ、最近ちょっとおかしいんだよ。黒っぽいエルフを何度か見たってサンガの奴が言ってたし、汚れたコボルトだって……ほら」
ゼムの声が、ふっと寒々しい響きを帯びた。
「普通なら、そんなに何度も出てくるもんじゃないだろ……?」
ゼムもラキスも黙りこんで、草陰からよろよろ歩み出てきた、あらたなコボルトを目で追った。
ずり落ちかけた帽子で顔をかくしたコボルトは、クモの巣をひきずりながら、ふたたび草の葉裏に消えていく。
「おい」
ゼムがぎょっとしたような声を出した。だが、それはコボルトに対してのものではなかった。かたわらに立つラキスが、腰にさげた剣の柄に左手をかけたので、その動きに気づいて驚いたのだ。
「先に帰っててくれ、ゼム」
視線を道の端に据えながら、低い声でラキスが言った。
「なんだよ、まさかコボルトを斬るとか」
「ちがう。コボルトたちにはかまわなくていいから、先に帰れ」
「でも」
「話しかけるな。気が散る」
ラキスの視線が移動して、今度はもっと遠い場所に焦点をあわせた。
ゼムは魔物でもあらわれたのかと怯えたが、目の前にいる剣士の顔に、そうした怯えの色は見当たらない。その瞳にうかんでいるのは恐怖ではなく、むしろ高揚した感情だ。
実際、それはラキスにとって、本当に何年振りかで味わう高揚感だった。
彼はもう、ゼムがそばにいることも、コボルトがふつうの姿ではなかったことも、一切考えてはいなかった。コンラート・オルマンドのことも考えず、ここがドーミエの田舎道であることも忘れ、エセルシータ姫の存在さえも頭の中から消え去った。
かわりに脳内を占めているのは、道の下、地面のはるか下を移動していく、熱く大きな力の気配だった。
気配とともに、記憶が揺さぶり起こされる。まだ十二歳だった少年の日、コルカムのひなびた道を、あの力を追いかけてひたすら走った。
必死になってそれを追いかけ、呼びかけ、地の底から上がってきた魔法の炎を、たったひとりで受け取った。




