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エセルは立ち上がりはしたものの、あとを追うことはせずに、しばらくのあいだ黙ってその様子を眺めていた。
遠ざかっていく集団を後ろ側から見ていると、翼の存在が否応もなくきわだって、生粋の人々との差異を主張しているように見える。王都で生まれ育ったエセルにとって、そうした光景は、いままで一度も目にする機会のなかったものだった。
けれど、いまの彼女はすでに、翼の持ち主たちのいきいきした顔や声を知っている。はずむ会話や人間味にあふれた態度を知っている。
婚儀に乱入するなどという前代未聞の行動が、実は思いやりの気持ちから出たのだということが納得できる。
やがて彼女は、胸に抱いた素直な思いを、ひとことの言葉にこめて言いあらわした。
「──とてもいい人たちね」
エセルと同じく、たたずんだまま口を閉ざしていたラキスが、小さく同意した。
「ああ」
「あなたがマリスターク城の庭からいなくなったあと、どこに行ってしまったかとすごく心配したけれど……あの人たちがあなたの力になってくれたのね」
「……ああ」
「わたし、しっかり伝えるわ」
ふいにエセルは口調をあらためると、かみしめるような声音で言った。
「あなたのことはもちろん、あの人たちのことも、捕えられたり裁判にかけられたりしないように全力を尽くすわ。手段にはちょっと問題があったかもしれないけれど、心がけがまちがっていたわけじゃないんだもの。でも、それをわかってもらうためには」
澄んだ茶色の瞳をラキスのほうに振り向けて、まっすぐに彼を見る。
「一刻も早くマリスタークに戻って、お母様にお話ししないと」
「あそこには……」
ラキスが口をはさみかけたが、彼女はそれをさえぎって続けた。
「都に帰ってから説明するんじゃ遅すぎると思うの。お母様は、もともと明後日まではマリスタークにいらっしゃるご予定なのよ。でも、わたしが行方不明のままだったら滞在を延長なさるかもしれない」
「……」
「できれば、いますぐに飛んで戻りたいくらいだわ。明日の午前中は逢瀬の時間に決まっていて、それが終わるまではお母様とお話なんてできないと思うから」
「逢瀬……マリスタークで?」
エセルはうなずいた。
建国女王の代から続いている<逢瀬の刻>は、歴代の王、または女王だけが受け継いでいる大切な神事だ。神事に際しては、どんな大事件が起ころうとも──たとえ実の娘が拉致されようとも──けして時刻をずらしたり日延べしたりすることはできない。
「もちろん、いつもなら王城の礼拝堂から降りていかれるのだけど、今回は日程的に間に合わないかもしれないでしょう? だから特別にマリスターク大聖堂から降りることに決めていらっしゃるの。あそこには、ちゃんと逢瀬の階があるんですって」
逢瀬はたいてい午前中からはじまるが、所要時間はそのときによってまちまちで、すぐに終わることもあれば夜まで続くこともある。だから母が逢瀬にのぞむ前に事情を話しておきたいのだと、エセルは熱心に説明し、それからたずねた。
「レントール川を渡るための舟着き場は、ここから遠いの? 日が落ちる前に行くことはできないかしら」
マリスタークに引き返すには、もう一度レントール川を越えなければならない。ここに来るときには、チャイカの翼が川も森も飛び越してしまったが、残念ながら同じ道は通れないだろう。
魔物に乗るという抵抗感はともかく、あの姿で町中に入るなんて討伐してくださいと言っているようなものだ。
「……舟着き場までは、かなり離れている」
しばらく間をおいたあと、ラキスが不本意そうに口をひらいた。反論したかったようだが、説得力のある言葉がみつからなかったらしい。
「道も悪いし、渡し守がいつもいるとは限らない。このへんの人たちは、わざわざ川向こうまで出かけたりしないからな。領主館ともちがう方向だから、たとえうまく舟に乗れたとしても、夜になってしまうと思う」
「じゃあ、明日の朝に出発したほうが?」
「たぶん……迎えは向こうから来るよ」
エセルが問いかけの視線を向けると、ラキスはあきらめたようにため息をついて、ゆっくりとしゃべりはじめた。
「追手がまだこちらに来ないのも、いま言ったのと同じ理由だ。でも明日には……早ければ今夜ってこともありえるが、必ずここをみつけるはずだ。だからといって、第三王女がいるのにいきなり攻撃したりはしないだろうから、まずはエセルを迎えに来たというかたちになるんじゃないかな」
ふつうの誘拐犯にさらわれたのなら、姫君の奪還をひたすらめざしてくるだろう。だが、犯人と姫の関係を考えてみると、姫が好んで誘拐犯のそばにいるという可能性もかなり高い。だから最初は姫の様子を見る方向から入ってくるのではないだろうか。
ラキスはそんなふうに話してから、ふたたび少し間をおいた。次の台詞はいままでとはちがう調子のものだった。
「こんなつもりじゃなかった──おれはただ、エセルに結婚をやめて都に帰ってもらいたかっただけなんだ。でも、こうなってしまった以上、エセルの力を頼る以外にジンクたちを助ける方法がない。よろしく頼むとしか……言いようがない」
「頼むだなんて」
と、エセルが応じた。
「言われるまでもないわ。遠慮しないで、どんどん頼って。わたしの力が役立つなんてうれしいわ」
ラキスがわずかに苦笑する。
「役立つ自信があるみたいだな」
「自信じゃなくて決心よ」
「いくら決心していても、女王陛下がなんと──」
そこまで言ったとき、彼が急に小さく身体をふるわせて、言葉を切った。
はしばみ色の瞳を見開くと、何かをさがすように視線をさまよわせてから動きを止める。
じっと見据えているのは、椅子がたくさん並んだ場所の向こう側にある一画だった。
そのあたりだけ、雑草がていねいに刈られて土が耕され、小さな畑になっている。たまねぎやリーキ、レタスなどの野菜が少しづつ育っているようだ。水の入った桶やスコップなどが脇に置いたままになっていた。
庭に自家用の畑があるのは、農村でなくてもごく普通の光景だし、エセルの目にはなんの異常もないように見えたが……。
そういえば、さっきビスケットを食べていたときも、ときどき付近の地面に視線を向けているようだった。考えごとをしているのかと思っていたが、下に何かあるのだろうか。
「どうしたの?」
とまどったエセルが声をかけると、彼は夢からさめたように顔を上げてまばたきした。
「なんでもない、ごめん」
「何かあるなら、かくさないで教えて」
「なんでもないよ」
「もしかして瘴気がまた……?」
「そうじゃない。本当になんでも……いや」
自分の言い方が不安をあおっていることに気づいたらしく、彼は途中で言葉を置きかえた。
「おれにもよくわからないんだ。でも……瘴気みたいに悪いものではないと思う」
「……」
「心配しなくていい。わかったら、ちゃんと話すよ。それより、今夜はたぶんジンクの家に泊めてもらうことになるから、家の中の様子を──」
「ラキス」
ふいに、自分でもはっとするほど強い感情が突き上げてきて、エセルは彼の名前を呼んだ。突き上げる勢いのままに両手をのばし、かたわらに立つ若者の腕をすがるようにつかんだ。
「本当にちゃんと話してね」
ラキスが、すがりつかれた腕をぎょっとしたように見下ろし、彼女の顔をみつめ返した。
「ラキス、約束して。何かあったらすぐにわたしに話すって。自分ひとりで思いつめたり我慢したりしないって」
返事がすぐに返ってこなかったのは、迫力に押されたかららしい。エセルはかまわず、硬直している若者にさらに近づき、訴えるようにその瞳をのぞきこんだ。
「わたし、がんばるわ。必ず、誰も悪い扱いを受けないようにしてみせる。あなたやジンクさんたちを、罪人なんかにさせやしない。だからあなたも、絶対に自分の命を粗末に扱わないでほしいの。自分が囮になればほかの人が助かるだろうなんて、絶対に考えないでほしいの。わかった?」
一気にしゃべると、若者は反射的に答えを返した。
「わ、わかった」
「約束してくれる?」
「する」
かなり、おうむ返しな返事だったため、エセル姫は満足しなかった。じっと彼を見上げると、挑戦的ともいえる目つきになって、こう言った。
「あなたが無事でいることが、ジンクさんたちの無事につながるの。いざとなれば自分だけ罪をかぶればいいなんて、くだらないことを思っているなら甘いわよ。そんなにうまくいくはずないんだから。助かるときは、みんないっしょ。わかってるわよね?」
実に素直にラキスがうなずいた。エセルはようやくほっとして、彼の腕を解放し、コボルトたちが掃除してくれている頭領の家を見に行くことに決めた。
一方、ラキスのほうは、歩き出したお姫様の後ろ姿を突っ立ったままで見送っていた。自分もいっしょに行ったほうがいいと思いはしたが、足が動かなかったのだ。
心の内でこだましているのは、以下のような切実な叫び声だった。
逃げたい……!
男らしくないと言われようが無責任だと言われようが、かまわない。姫君のいない国まで、いますぐ高飛びしてしまいたい。
この状況はいったい何なんだ。別れる決意をかためたはずの相手から、気安く腕にすがられて、キラキラした瞳でみつめられて、クラクラするような声を聞かされて……もしかすると新手の拷問か?
ラキスの中で理不尽な怒りがかけめぐった。が、姫を大聖堂からひっさらうという、気安いにもほどがある行動をとったのは、ほかならぬ自分自身なのだった。
肩を落とした彼は、振り向いたエセル姫がこちらに引き返してくる前に、みずから彼女のほうに近づいていった。




