橋上の闘い(1)
夜が明けた。
頬をなでるひんやりとした空気に刺激され、アイラは目を覚ました。隣ではまだスサが寝息をたてている。
身体に巻きつけていた大きな油紙を脱ぐ。
水気を弾く油紙を身体に巻きつけ、そうして二人寄り添い、毛皮を被る。こうすることで山の夜でも凍えることなく眠ることができるのである。もっとも冬山ではより防寒に気をつけなければならないが、幸い季節は春なので、この程度でも凍える心配はない。
立ち上がり、軽く伸びをする。スサの体温がまだほんのりと身体に残っていた。
朝の山中にはわずかにもやがかかっていた。東の空に目をやると、薄闇が白々と明けようとしている。すでに太陽が昇り始めていた。
アイラは昨夜の焚き火のあとに手早く火を入れると小さな鍋をかけ、そこに水筒の水をあけると干し飯を放り込み煮始めた。
しばらくすると鍋の中身がふつふつと湯気を上げ泡立ちはじめた。
旅のあいだ口にするのはこうして作った雑炊と干し肉だけである。味付けは塩を少々しか用いない。護衛士の中には味噌や醤油を用いるものもいたが、それらは塩に比べはるかにかさばるためアイラは好まなかった。が、味の点から考えれば数段に劣る。
「スサ、起きなさい。飯にしよう」
揺り起こされたスサは身をよじると毛皮から抜け出し、眠たげな眼をこする。
「ほれ、しゃんとしな」
くつくつと煮立った雑炊を椀によそいスサに手渡す。
スサはのろのろと手を伸ばし椀を受け取ると、匙ですくい、ゆるゆるとそれを口へ運んだ。
寝起きの冷えた体に染みるのか、ほう、とひとつ息を吐く。吐いた息が白くなって朝もやの中に消えていった。
朝食は薄い塩味だけの雑炊である。
スサはこの粗末な食事に一言の不満も漏らさなかった。
アイラもまた、雑炊をひとくち、ふたくちとすする。身体の芯がじんわりと温まっていくのを感じた。
「アイラは何故そんなにすぐ起きれるの?」
朝食を終え目の覚めたスサが焚き火に手をかざしながら訊ねた。
「護衛士ってのはね、訓練やなにかで、大概そういう体質になっちまうのさ」
護衛士に限らず、闘いの中に身を置いているものにとって、最も防ぐのが難しくかつ恐ろしいのは、睡眠中の襲撃であろう。
いかなる達人であろうと完全に眠っているあいだは無防備なのである。もっともそうならないため、護衛士を雇うものは二人以上雇う。こうすることで交代で夜間の警護が行える。とはいえ、もしも夜間や早朝に襲撃を受けた際、寝起きの動かない身体では命を落とす危険性があるため、ほとんどの護衛士は訓練により浅く眠り、素早く目覚めることができる。
「ふうん」
スサは不得要領に頷いた。
「今日はかなり歩かなきゃならないから、覚悟しておくんだよ」
昨夜は一刻半(約3時間)ほどで野宿をした。国境の町まで、まだまだ少なくとも十日以上はかかるであろう。
焚き火のあとを始末し、荷物をまとめると、アイラとスサは国境の町へむけて歩き出した。
朝の山中を歩いて分かったことだが、スサはかなり好奇心の強い子供であった。
道中見るものを何でも珍しがった。
花や草、鳥や虫など、その興味はありとあらゆるものに注がれるのである。
こんなことがあった。
道の脇に生える木の根元に、薄い長楕円形の葉が地面から四、五枚生えており、その中に数本、花弁の開ききっていない薄紅色の花が、花茎の先に揺れている。
「アイラ、これはなに?」
「これは紫蘭だね。止血や痛み止めに効くんだ」
しらん、と呟きながら、それを記憶にとどめるようにぼそぼそと何事かを呟くのである。
終始こんな具合であったが、日が落ちると様子が一変する。夜の闇がある種の寂寥感を呼び覚ますのであろう。どこか塞ぎこんでしまう。無意識のうちに無理をしているのであろうか、毎夜眠りの中で母を呼ぶのである。
そうして目覚めた朝にそれを感じさせることなく振舞うその姿は、健気どころかもはや剛毅とさえ言えよう。
――気骨がある。
アイラもまたそう思いながら、できることならいつか母親に会わせてやりたい、と思った。
タルクの町を発ってから四日目の朝を迎えた。
三日目に大雨に見舞われ足止めを食ったこと以外は概ね順調であった。たまたま見つけた大きな木のうろの中で火を焚きながら雨をしのいだ。ときおり響く雷鳴に怖がるスサのために、北方の国に伝わる雷神バルクの神話などを語って聞かせるなどしてその日を過ごした。
四日目の朝は前日の大雨が嘘のように空は晴れ渡った。
雲ひとつなく、抜けるような青空が目に痛いほど眩しい。
追っ手の気配はまるでなかった。
――考えすぎだったのだろうか。
そんな思いが頭をよぎった。
(もしかしたらスサを都から追い出した時点で目的は果たせたのかもしれない)
急峻を踏みしめて歩いていく。
首筋の汗が胸元へ伝い落ち不快感を煽る。
ときおり吹く風が身体の熱気をさらって涼やかな心地にさせてくれるが、それも一時のことであった。
山坂の左右には木々が生え、所々にその影を落としてはいるが、それもほんの気休め程度に過ぎない。
「今年の夏は暑い」が「今年の夏も暑い」に変わって久しい。近年は雨の量も減っている。
(今年も穀物の値段が上がるだろうな)
そんなことを考えていた。
スサに目をやる。
険しい山道を連日歩く。まるで表情には出していないが、その小さな身体には疲労が色濃く漂っている。
(大した子だ)
と、密かに感心しつつ、しかし先のことを考えて少し休むことにした。
無理をしたそのツケというものは、往々にして最も面倒なときに払わされることになるものなのである。
アイラはスサを木陰に座らせると水筒を手渡した。
「一気に飲み下すんじゃないよ。十分に口の中に含んでから、ゆっくりと飲み込むんだ」
次いで袋から小さな丸い焼き菓子を二つ取り出しスサの手に乗せた。
「これは?」
自分の手に乗せられた初めて見る物体に首を傾げる。
「トュコっていうお菓子さ。食べてごらん」
トュコとは牛の乳を練りこんだ生地を丸めて焼き上げ、砂糖と少量の水、さらにザフルと呼ばれる花の蜜を混ぜ、それを煮詰めたものをかけて乾かした甘い焼き菓子のことで、ナワト国の庶民の間では広く親しまれている菓子のひとつである。
ひとつ摘み上げ口に放り込む。
「甘くて美味しい」
「疲れてる時は甘いものを食べれば元気が出るからね」
アイラもトュコを一つ、口に放り込む。
「もう少し行けば橋がある。それを渡れば少し道がなだらかになるからちょっとは楽になるよ」
アイラは橋と言ったが、実際には山間の渓谷に架かる吊り橋である。
小休止を挟みしばらく歩いたところで水の音が聞こえた。
「うわあ」
スサが感嘆の声をあげた。
木々の生い茂る山の中を歩いていた二人の目の前に、突如渓谷が姿を現したのである。
地続きの山の間を、長大な川を通すためだけに無造作に抉り取ったような雄大な渓谷は、自然の持つ荒々しい一面を具現化したかのように悠然と構えている。
風抜き山という名はその昔、この山に住むという仙人が風に乗って山を降りるために配下の鬼に命じ山の一部を抉り取った、という伝説に由来する。橋の架かった山間は絶えず強い風が吹き、無風の夜には化生が出る、などと言われている。
スサは言葉もなくただその景色に息を呑んでいた。
しばらくその場に立ち尽くした後我に返り目の前の吊り橋を見つめる。
「これ、渡るの?」
「まあ、ぞっとしないけどここしか道がないからねぇ」
山と山を繋ぐ橋はサルナシと呼ばれる植物のつるを用いて架けられたかずら橋と呼ばれる原始的な橋で、風が吹くたびきしきしと小さな音をたてて揺れる。大人が二人並んでも楽に通れる幅がある。渓谷を渡る手段の一つとして細々と利用されているが、馬車の通行が不可能であるため隊商などはこの橋を利用せず山を大きく迂回する。アイラがこの道を選んだのは、より早く国境の町へ行きたいがためであった。迂回すれば二十日は余計にかかるであろう。
下を覗き込むと昨日の大雨で増水した川が濁流となり、水飛沫をあげながら轟々と音をたてている。
それを眺め、スサはごくりと大きく喉を鳴らした。




