都落ち(3)
季節は春である。冬枯れていた山も新緑に覆われ、若々しい賑わいを取り戻している。よく見ると、山を染める新緑の中に淡い桃色の塊があるのが見える。山桜であろうか。あちらに一群、こちらに一群と咲いている。
そんな平和でのどかな風景の中をアイラとスサを乗せた馬車が進んでいた。
「スサ、見てごらん」
アイラに促され前方に目をやると、うっすらと町の影が見える。
「あれがタルクの町だよ」
都から定期の馬車便に揺られておよそ一刻(約2時間)、たどり着いたのは馬車便の終着点の町、タルクであった。馬車便はここから都へ向かう客を乗せて来た道をたどり帰っていく。
「これからどうするのじゃ……どう、するの?」
舌を噛みそうになりながらたどたどしく言い直す。
――言葉遣いを直さなくちゃね、とアイラが言い出したのは馬車に乗ってしばらくしてからのことであった。
スサは言葉遣いを直すことに難色を示したが、いつまでもそのままでいては目立ってしまう。特に語尾がまずかった。
普通の子供は語尾に「じゃ」などとつけたりはしない。そうアイラが理由を話すとしぶしぶながらそれを受け入れた。もともと利発な子供なのであろう、半刻ほどで要点を理解した。もっとも、上手く話すことは難しいらしい。意識して語尾に注意を払っていなければ「じゃ」が顔を出してしまうようなのである。
「ここから少し行ったところに風抜き山ってのがあってね。そこを越えた先に国境の町があるんだけど、そこから国境を越えようと思う」
「シャガル王国に行くのか?」
「あぁ、よく知ってるね。そこにあたしの叔母がいる。叔母ならあんたの面倒を見てくれるはずだよ」
シャガル王国はナワト国の西側にある大国で、国土面積はナワト国のおよそ四倍ほどになる。温暖な気候で実りの豊かな南部と、寒冷地ではあるが高価な玉を産出する北部と、二つの顔を併せ持っている。また、さまざまな部族が暮らしている多民族国家でもあった。
多民族国家の抱える大きな問題のひとつに、民族紛争がある。主に民族間の経済的な利害対立や言語、価値観などの相違から対立に至るということが多い。さらにシャガル王国を支配する王家は在来の民族から起こった勢力ではなく、いわば異邦人であった。このため特に特定の地域に暮らすいくつかの少数民族は、民族自決の考えから異邦の民族に支配されることを喜ばず、これに激しい抵抗を見せた。それゆえ数十年前までは内乱が絶えなかったが、名君と名高い現在の王が玉座についてからは落ち着きを取り戻している。
「さあ、山越えの準備をしないとね」
タルクの町と国境の町のあいだにある山の名を風抜き山という。風抜き山を越えるために擁する日数はアイラ一人でも早くて六日はかかる。スサがいるとなればゆうに十日はかかるであろう。必要な物資がそれだけ多くなる。
(ああ、また当分干し飯と干し肉の日々か)
タルクは人口が百人にも満たない小さな町で、その猥雑さは当然ながら都とは比ぶべくもないが、ただ一つ、山越えのための物資は都よりも品揃えが豊富で、なおかつ安価であった。これはこの町が、風抜き山を越えるための中継点のような役割を果たしているためであった。
アイラは手馴れた様子で次から次へと店を回って必要なものを買い込んでいく。子供用の外套、雨避けの合羽、防寒のための大きな毛皮を一枚、夜露をしのぐための大きな油紙と食料を包むための小さな油紙、食料は十二日分の干し肉と、雑穀を交ぜた干し飯、そして水、その他諸々。都に向かう男を護衛した際に得た報酬のうち、そのほとんどを使ってしまった。
「銀貨三枚が痛かったね」
残った金で粗末な夕食を口に運んでいるとき、ぽつりと呟いた。
思えば半日も滞在しなかった貸し家に銀貨を三枚払った。半日で都を出るはめになることが分かっていれば貸し家など必要なかったし、銀貨一枚あれば平民は二ヶ月以上は普通に生活していける。どうにもならぬことと理解してはいても、思い返せばやはり痛い。愚痴を零すのも止むを得まい。
必要なものを買い終え、食事を済ませた頃には、すっかり日は傾いていた。時刻はまだ辰の下刻(午後四時)を過ぎたあたりであったが、風抜き山が西方にそびえているため、タルクの日没は平地にある町と比べて早い。
見る間に日は山の向こうへと沈み、町は薄闇に包まれた。
ぽつり、ぽつりと各商店の軒先に明かりが灯る。
「さて、行こうか」
「え? 今から行くのか?」
この町で夜を越して翌朝の出発だと見当をつけていたのであろう。
「当然だろう。できるだけ早く都から離れたほうが、刺客に追いつかれる可能性が減るんだ」
とはいえ、本当にそんな追っ手がいるのかどうかは甚だ怪しい。根拠はアイラの勘でしかないのである。ただ、護衛士として十年以上を生きてきたアイラにとって、用心はしすぎるくらいでちょうどいい、ということを経験則で知っている。
スサはしぶしぶといった様子で荷を背負う。
荷の重さは約一貫(約4キログラム弱)ほどで、スサの華奢な身体には少々重く、食い込む肩紐がどこか痛々しい。
アイラはスサの肩と肩紐の間に不織布を挟み込んだ。
「こうして挟んでおくとね、肩への負担を減らせるんだよ」
挟まれた不織布が落ち着かないのかもぞもぞと肩を動かしていた。
アイラは自身の荷を背負うと、その荷が剣を抜く際の邪魔にならないように、肩紐の長さを調節する。護衛士にとって旅の荷が抜刀の妨げになっては本末転倒であろう。
この辺り、アイラは入念であった。
アイラの剣は腰帯の背に逆さに差し込まれているのだが、絶妙な加減なのであろう、抜こうとしない限り剣が鞘から抜け落ちることは決してない。
二度三度と抜いては納めてを繰り返し、納得がいったのか、「よし」と呟くとスサを振り返った。
「行こうか」
わずか数刻の滞在で、アイラとスサはタルクの町を後にした。
山越えが始まった。
山を越えるといっても実際に山中を掻き分け道なき道を行くわけではない。タルクの町から国境の町までの、いわば商人や旅人など人が通る道であるため、当然のことながらある程度の整備はなされている。それゆえアイラは日が落ちはじめていながらもあえて山越えを強行しようとしたのである。
とはいえ、それでも夜の山が危険であることに違いはない。道に迷わないという保証などどこにもないし、道から外れた山の奥には狼や野犬などの獣もいるのである。
にもかかわらずアイラがこの強行軍を実行したのは、どうにも胸騒ぎがしたからであった。
勘である。
運命には人間を引き寄せる引力のようなものがある、ということを以前に述べたが、この勘というものも、あるいは運命の持つ引力のようなものがなにかしら働きかけているのかもしれない。あるいは虫の知らせや風の便りといった第六感といいかえる事もできるであろう。
事実、このときアイラが感じていた胸騒ぎは、四日後に現実のものとなって二人の行く手に立ち塞がるのである。




