流浪の防人
松の葉のような細い雨が、桜楼宮の屋根を濡らしている。露台から見える景色も煙るような薄もやのなかに沈み、それを眼下に眺めていると、まるで雲海のうえに立っているような錯覚を覚える。
アイラと別れてから、すでに季節は一巡していた。
十三歳となったスサは、皇太子としての政務に追われる日々を送っている。今は、昼餉の後のわずかなひとときであった。
眼下では菩提樹が濡れている。
「公務には慣れましたか」
背後からサクヤが声をかけた。
「母上」
スサが軽く会釈をすると、サクヤは柔らかい笑みを浮かべ、スサの隣へと歩を進めた。
「あの女人のことを考えていたのですか?」
「はい」
そう頷くと、スサはすっと目を閉じた。
フドウとともに倒れているところを発見されたアイラは、付近の町に運ばれたときには、ほとんど助かる見込みがなかった。
応急処置を施され、そこからより高度な治療を施すために、五日をかけて都まで運ばれた。
アイラが目を覚ましたのはそれからさらに八日が過ぎてからであった。
そのときの周囲の反応は、なんとも形容しがたいほどの滑稽さであったが、ただひとり、スサだけはさして驚く様子も見せずにいた。
アイラの生還を信じていたのであろう。祈りや願い、といった類のものではなく、なにか確信めいたものをスサだけは持っていたのかもしれない。
アイラが目を覚ますまでの間、スサは懸命に看病に務めた。
汗をぬぐい、衣を変え、薬湯を飲ませる。
手馴れたその姿は、かつて宮城内で見せていた小さな子供のそれではなかった。周囲の人間の狼狽も、想像すればさぞ滑稽なものであったであろう
桜楼宮にアイラを運び込むことを決めたのはスサであった。
バラムは他国の、まして平民を神聖な宮城に入れることに不快な顔を示したが、スサはまるでこともなげに、
「黙っていれば、帝にばれはすまい」
と押し切り、自身が宮城を出るときに使った道を使い、アイラを運び込んだ。
バラムもまた、スサの放つ威に感じるものがあったのであろう。
無論、帝とてそこまで愚鈍な人物ではない。
スサやサクヤ、さらにその周囲の人間数人が、自分に黙ってなにやらこそこそしているらしいことに気付いていた。
が、黙殺した。
やはり、息子であるスサを暗殺しようとした、という負い目があったのであろう。このあたりにも、この帝の非情に徹しきれぬ甘さのようなものが垣間見れる。
ともかくもアイラを桜楼宮に運び込んだスサであったが、アイラが眠っているあいだの宮城の慌ただしさというのは尋常一様のものではなかった。
最も大きな事件はいうまでもなく、第三皇妃ミヤビの失脚であろう。
結論からいうと、この事件をきっかけにミヤビは見張りをつけた山の離宮で生涯を送ることになった。
実のところ、ミヤビの謀略を暴くための切り札であったフドウは、都へと護送している最中に、煙のように忽然とその姿を消し、衛士らも懸命に捜索したものの再び捕らえることはできなかった。
確たる証拠もないままに皇族を問い詰めることなどできないとバラムは憂鬱そうにいった。が、事態は思わぬ方向から動いた。
一人の女官が、ミヤビとエゼルを告発したのである。生きて宮城に戻ってきたスサを見て、良心の呵責に耐え兼ねたのであろう。
涙ながらに己の知る全てを打ち明けると、まるで砂の山が崩れるように、我も我もと女官が後に続いた。
こうなってはもはや事態を静観することはできない。
大神官バラムがミヤビとエゼルを詰問した。
ミヤビはどこまでも胆の太い女である。
バラムの問いに、眉ひとつ動かさずに平然と知らぬ存ぜぬを貫いた。
が、エゼルは違う。
問い詰められ、耐えられなくなったエゼルは、己の保身のため、全ての罪をミヤビに擦り付けるように打ち明けてしまったのである。あるいはその内容は、多少の誇張を含んだものであったであろう。
結局、ミヤビは皇族の、そして皇妃である己自身の威を過信し、人間の持つ『善意』というものを侮りすぎたのであろう。
取るに足らぬ――それこそ羽虫のような――と思っていた存在にその足元を大きくすくわれてしまったミヤビは半ば自失したように悄然としていた。
このことを知った帝は頭を抱えた。
エゼルを死罪にすることにはなんの躊躇いも覚えないが、ミヤビは違う。皇族であり、なにより己の妻なのである。死罪か流罪か、いずれにせよ情がある。
「山の離宮に見張りを立て、終生そこで暮らしていただきましょう」
そういいだしたのはスサであった。
「お前はそれでよいのか?」
帝は意外な、といった表情でスサを見た。
スサからすれば、それで済ませられるほど、容易い話ではないはずであった。
ところが、
「母と離れて暮らす辛さは身にしみております」
ミヤビの子、第四皇子ハクが哀れだという。
ハクはスサにとっても腹違いの弟、憎からぬ存在なのである。
「帝さえよければ、そうしていただけませんか」
こうしてエゼルは宮城から放逐、ミヤビは前述のとおり山の離宮で暮らすことになった。ハクとは、見張り付きではあるが三十日に一度は会うことを許されている。
その後ミヤビは六十を少し過ぎたところでこの世を去るまでを、その内実はともかく平穏に過ごした。エゼルのその後の消息は誰も知らない。
「スサよ」
立ち去ろうとしたスサの背に、帝が呼びかける。
「愚かな父を、許してくれ」
帝は他国の王とは違い、国を統治するだけの存在ではない。ナワト国においては神と同義なのである。
神は、過ちなど犯さない。
が、帝は頭を下げた。帝としてではなく、父として、息子に詫びたのである。
スサは首を左右に振った。
「いいのです、父上。おかげで私は素晴らしい体験をすることができました。黄金のように輝く、とても素晴らしい体験を」
そういって微笑むと、スサはその場を辞去した。
目を覚まし、スサからすべてを聞いたアイラはスサの振る舞いに感嘆するように息を吐いた。
「なるほど、それじゃああんたの命を狙う不届きものはもういないってことだ」
そういうとアイラは目を閉じ、
「あたしがあんたを護衛する理由も、もうないってことだね」
と、小さく呟いた。
アイラとの別れの日、スサは中庭に立つ菩提樹の下にいた。
「どうするか決まったかい」
アイラが声をかける。
どう、とは当然、このまま宮城に残るのか、それとも自分とともにいくのか、である。
無論、ともにいくことなどできるはずがない。宮城に戻った時点で、スサのとるべき道はひとつしかない。アイラの命を救うため、それを承知で戻ってきたのである。もしアイラとともにいこうとすれば、アイラは大罪人として国中から追われることになるであろう。
アイラはそれを承知でスサに問うていた。
スサもまた、知っている。ともにいくといえば、アイラは全てを、例えそれが帝であろうと打ち倒してスサを連れて行くであろうことを。そうなれば、アイラの命はない。
スサは黙って首を左右に振った。
その目には、大粒の涙が溜まっている。
スサはアイラの胸に顔をうずめると、声を殺して泣いた。ふたりの歩く道が、今後決して交わることがないことを、スサは理解していた。
アイラもまた、一粒の涙をこぼしスサの頭をそっと抱いた。口元には、ほんのわずかに笑みが浮かんでいた。
ひとしきり泣いたあと、スサは赤い目で菩提樹を見上げた。
「俺、この木の上から見る景色が好きで、よく登っては外の世界を想像したんだ」
でも、という。
「想像していたよりも、外の世界は簡単じゃなかった。住むところがない人や、食べるものがない人もいる。それはどんなことより辛いことだと思う」
それまでの自分の暮らしぶりを振り返り、スサは口中に苦いものがひろがっていくような気がした。
大きな建物、立派な服、ありあまる食べ物。外の世界で目にしてきた人々と、なぜこれほどに違うのか。
「俺、帝になるよ。帝になって、この国をもっと豊かで平和な国にしてみせる」
誰もが飢えず、夜露に濡れることもない、そんな国に――。
「しっかりやりな」
アイラは微笑むと、ぐしゃぐしゃとスサの頭を撫でた。
別れのときが来た。
アイラは上ノ町へと続く裏道の入口に立っている。腰帯には剣を差し、肩には小さな荷を担いでいる。見送りは、スサとサクヤだけであった。
「別になんだってかまいやしないよ」
すまなそうにするスサの頭に手を置くと、アイラはくるりと背を向けた。
「アイラ!」
歩き出し、遠ざかっていくアイラの背に、スサは呼びかけた。
「ありがとう! 俺、頑張るから!」
スサの声に、アイラは振り返ることなく握った拳を天に突き上げた。
「今頃、どうしているのでしょうね」
サクヤの言葉にスサは目を開き、天を見上げた。
雨がやみ、鉛色の雲の隙間から、晴れ間がのぞいている。
「きっと、この空の下のどこかで、今も剣を振るっているのだと思います」
今も瞼の裏にはっきりと残る、厳しく、優しい笑顔。
きっと諸国を流れながらその背に誰かを守っているのであろう。
旅行くものを守る、防人として――。
後世、スサノナワトノミコトの名は、史上類を見ない稀代の名君として、ナワト史に記されることになる。
が、その神話のなかに、異国人の女護衛士に関する記述は、ない。




