死闘(2)
フドウは左足を前に半身になり、切っ先を天に向け、剣を顔の横に構えている。
「どうした、来ぬのか?」
落ち着いたフドウの声を前に、両手に剣を持ったアイラは動こうとしない。
(こいつは――)
強い。
おそらく今まで出会った誰よりも。
到底ひと息で仕掛けるには及ばない二間(約3メートル半)という距離をもってしても、アイラは不用意には動けないでいた。
思いはフドウも同じであったであろう。
二度に渡ってアイラが退けた巌のような大男、あの男はフドウの配下――厳密にいえば同士であり、主従の関係にはないが――のなかでも最も剣腕に優れた男であった。
およそ暗殺というじめじめとした、一種陰湿とさえいえる仕事に向いた男ではなかったが、反面武人としての尋常の立ち会いにおいてはフドウの知る誰よりもその腕は確かなものであった。それを一度ならず二度までも退けたものがいる。それも相手は女であるという。フドウの興味が俄然そそられたであろうことは想像に難くない。
そのときにわかに突風が吹き、おりから強くなりはじめていた雨を巻き上げた。
二人の間の空間を、横殴りになった雨粒が走り抜けた。
その刹那、アイラはフドウに向かって飛びかかるように間合いを詰めた。
得物は、フドウのほうが長い。
フドウの刃圏にはいったアイラはくるりと背を向けながら身をかがめ、フドウの足元に蹴りを放った。
フドウは半歩、身を引く。
(かかった!)
アイラの放った蹴りは誘いであった。
伸び上がるように身体を起こす。
左から、逆袈裟に斬り上げる。
が、アイラの狙いを読んでいたのであろう、フドウはさらに半歩下がった。
アイラの剣が虚しく空を斬る。
と、そのとき、アイラの視界の端に、白刃が煌めきながら走ってくるのが見えた。
いつの間に構えを変えたのか、下段から放たれたフドウの斬撃であった。
身を引きながら首をひねる。
剣はアイラの頬と前髪をかすめていった。
素早く飛び退り、フドウの刃圏から逃れる。
斬られた髪が風に乗り、いずこかへと流されていく。
頬を流れる熱いものとは逆に、アイラは全身が急激に冷えていくのを感じていた。
鼓動が、早鐘のように鳴っている。
フドウもまた、半ば驚愕するような思いでアイラを見ていた。
(確かに、普通の女ではないようだ)
なるほど見た目は女である。
器量はそれほど悪くはないし、豊かな胸、引き締まった腰、そこから腿へと流れていく曲線など、剣など持たせず女の衣を身に纏わせれば、欲しがる男などいくらでもいるであろう。
が、こうして剣を手に対峙していると、その内側に秘められた獰猛な気配に気付かざるをえない。
(こいつは虎だ)
猫と侮りあやそうとうかつに手を出せば、その凶暴な爪と牙で引き裂かれ、たちまち食い殺されてしまうであろう。
フドウは腰のあたりに構えた剣を横に倒し、じわりじわりと間合いを詰めはじめた。
切っ先が、わずかに下を向いている。
無造作に、しかし大胆にアイラの刃圏を侵していく。
アイラの剣を誘っているのであろう。その屈強な身体がアイラの刃圏にはいったとき、フドウは足を止めた。
アイラもまた動かない。
(不用意に動くな)
ともすればフドウの放つ圧力に突き動かされそうになる身体を、アイラは懸命に押さえ込んでいた。
フドウの構えから、己の仕掛けに対し後の先をとろうとしている、とふんだのである。
事実であった。
並みの使い手であれば重圧に負け、刃圏を侵された瞬間に飛びかかり、待ち構えていたフドウの剣に、斬って落とされていたであろう。
雨足は、さらに強くなっている。
(やはり、相当つかえる)
容易には誘いにのってこない。
そう悟ったフドウは飛び退り、アイラの刃圏を脱した。
大きく息を吸い、吐く。
「やはり貴様、相当つかえるな」
わずかに口の端を持ち上げながらいうその姿は、どこか闘いを楽しんでいる風であった。
対するアイラは無感情に、
「そりゃどうも」
と、短く吐き捨てた。
フドウの背後の景色にちらと目をやる。
牛車を連れた一行の姿がはっきりと見える。
「ふむ、もうじき滝だな。どうした、のんびりしていていいのか」
一行が滝を通過するとき、五人の同志が一斉に飛び出し牛車ごとスサを串刺しにするという。
「貴様の配した伏兵は既に始末してある。ぐずぐずしているとあの小僧、死ぬぞ」
フドウの言葉の終わりを待たず、アイラは間合いを詰めると矢継ぎ早に剣をくり出す。
突き、払い、斬り上げる。
目にも止まらぬアイラの剣さばきに、しかしフドウは動じない。
ときに流し、ときに受け、巧みに捌いていく。
ふと違和感に気付く。
剣をかわされ体を崩し空いたアイラの脇腹に、フドウの拳がめり込む。
肋骨の折れる音とともに走った激痛が脳天に響く。
ついであびせられた蹴りをかろうじて受け止めると、アイラは素早く間合いを離し、その場に膝をつきそうになるのを辛うじて堪えた。
脇腹の痛みを口中で噛み潰し、ふたたび剣を構える。胸元を、嫌な汗が流れていた。
「貴様、どういうつもりだ」
フドウが怪訝そうに眉根をよせ、アイラに問うた。
「俺を殺さずに捕えようというつもりか?」
くり出す剣に、必殺の意志が感じられない、という。
「なめられたものだな」
苦々しげに口元を歪める。
「それともほかになにか狙いがあるのか」
フドウは痛みを堪え、必死に平静を装うアイラを見据え、不敵に笑った。
実際のところ、アイラになにか特別な狙いや策があるわけではない。あるのは、己自身への誓いだけであった。
かつてアイラは幼い頃に父母と姉を失った。長じてのち、己を鍛え育ててくれた叔父も失った。過酷というには過酷に過ぎるであろう運命をたどり、アイラはすべての仇を討ったが、果たしてその先に得たものは、血と、死と、傷、そして新たな恨みであった。
アイラの背には、無数の恨みが乗っている。
血に濡れた両の手を見つめながらそれらを感じ、アイラの出した答えは贖罪であった。
(いつか恨みを持つものがあたしを殺しにくるだろう)
そのものに殺されてやるまでは、救えるだけの命を救おうと、そう誓った。そしてもうひとつ、
(もう誰も殺さない)
その後のアイラの人生は決して楽なものではなかったが、不思議と辛いと思ったことはなかった。
なぜなのか、アイラ自身にもわからない。
自嘲気味に笑うアイラを、フドウは怪訝そうに見据えた。
「まあいい、いずれにせよ、殺すには惜しい腕だ」
そういうと、さらに意外な言葉を続けた。
「貴様、我らの仲間に加わる気はないか」
言葉の意味が理解できないのであろう、アイラは眉をひそめ、フドウの目を見た。
「さきほど言ったとおり、我らは王家打倒のために戦っている。そのためには一人でも多くの腕のたつ同志が必要だ」
フドウの言葉が徐々に熱を帯びてくる。
「貴様も王家には煮え湯を飲まされてきたのではないか? ともに王家を打ち倒し、シャガルの大地を我ら部族の手に取り戻そうではないか」
誘うように差し出された手を一瞥し、アイラはべっ、と血を吐いた。
「お断りだね」
「なに?」
アイラは口元を拭う。
「あたしは流れもんの護衛士だ。国のごたごたなんざ関係ないね。だいたい――」
フドウの目を、鋭く睨み据える。
「あんたらみたいな馬鹿どものせいで、一番煽りを食うのは今を幸せに生きている小さな人たちだ。そんなもんに加担する気はない」
かつて奪われた小さな幸せを思い出し、アイラは痛みを堪えながら毅然と言い放った。
「……そうか」
フドウはすうっと目を閉じ、そして開いた。
「ならば死ね」
フドウがそういった瞬間、どん、という衝撃を背に感じるとともに、腹に、焼けるような痛みを感じた。
目をやると、血に濡れた白刃が己の腹を貫いている。
喉の奥から熱いものが逆流し、口の中に鉄の味がひろがる。
アイラはその場に膝をつくと、どうとうつ伏せに倒れ込んだ。
目の前に、例の小男が立っている。
(――油断した!)
アイラはほぞを噛む思いで歯噛みした。
いつか大男が、自分たちは常に二人一組で行動するといっていなかったか。
「間もなく牛車が滝を通過する。お前も行け」
フドウがいうと、小男は血振るいした剣を鞘に収め、崖を降っていった。
「せめてもの慈悲だ、貴様には皇子の最期を見届けさせてやる。貴様が守ろうとしたものの最期を、な」
牛車はもうすぐそこまで来ていた。ほどもなく、白藤の滝を通過するであろう。
アイラは力を振り絞り懸命に立ち上がろうとするが、足に力が入らない。なおも剣を握ったまま、眼前のフドウを無視し、崖を降ろうと這いはじめた。
あがいたところで間に合うはずもない。
目的こそ違えどフドウもまた己の守るもののために戦っている。懸命に足掻こうとするアイラの気持ちが、痛いほどに理解できるのであろう。
「許せよ、これも大義のためだ」
そういって背を向けると、崖下を通過する一向に目をやった。
(大義の……ため?)
フドウの言葉が頭のなかで響く。
得体の知れない怒りが奥底から湧き上がり、アイラの身体を奮い立たせた。
「大義の……ためだって?」
「貴様――」
予想外に立ち上がったアイラを見、わずかに狼狽したフドウであったが、そこは百戦錬磨の男である。
(くる)
素早く気持ちを落ち着かせ、後の先をとるべく剣を構えた。
「あんたの大義と、あの子の人生と、何の関係がある!」
咆哮とともに、アイラはまるで大地を縮めたかのように一瞬で間合いを詰めた。
(――速い!)
上下左右から繰り出されるアイラの猛攻に、後の先をとるべく構えていたフドウの剣は、ただ受け止めるばかりでなす術がない。
(これは……虎の尾を踏んだか!)
徐々に受けが間に合わなくなっていく。
アイラの剣が、拳が、蹴りが、フドウの肌を裂き、肉を斬り、骨をきしませ始めた。
このままではいずれ押し切られ、やがて致命の一撃をもらうであろう。
そう悟ったフドウは覚悟を決めた。
アイラの繰り出した斬撃を、あえて腕で受け止める。
フドウの逞しい二の腕を食い割った剣であったが、しかし骨を断ち両断するだけの力はアイラの腕にはない。
剣は、骨にくい込んだままその動きを封じられた。
アイラの動きが止まったのを見てとったフドウは剣を捨て、懐から短刀を取り出しアイラの胸へと突き出した。
腕一本と引き換えに、アイラの命を奪おう、というのである。見事な覚悟といえるであろう。
が、アイラの覚悟が上回った。
読んでいた。
己の命を餌に、フドウを誘ったのである。
一歩踏み込み、己の胸で短刀を受け止める。
わずかに、心の臓を外した。
覚悟の量が、明暗を分けた。
「な!」
刹那、アイラの肘が、フドウの顎を打ち砕いた。
その場に崩れ、膝をつくフドウ。視界が揺れ、動くことができない。
(この期に及んでなお……俺を殺さんというのか)
朦朧としていく意識とともに、得体の知れない敗北感が胸の中にひろがっていく。
(――だが)
フドウはにわかにざわついた崖下に目をやった。牛車が、白藤の滝を通過しようとしている。
現れた五人の男らが、衛士らの間を縫って、一直線に牛車を目指しているのが見えた。
男らが身をたわめ、牛車に向かって跳躍する。
(本願は達成せり!)
フドウが内心で勝利を確信したそのとき、牛車の屋根や壁から無数の槍が飛び出してくるのが見えた。
予期せぬ出来事に、五人の男らはなす術もなく突き出された槍に貫かれる。
驚愕したのはフドウである。
(馬鹿な)
ありうべからざることであった。
皇子を乗せた神聖な牛車に兵を潜ませ、あまつさえ武器を置いておくなど考えられることではない。
そのとき、不意に近づいてくる人の気配を感じた。
遠くなっていく意識をつなぎとめ、暗くなっていく景色に目を凝らす。
それは、牛車に乗っているはずの、スサであった。
アイラは最初からスサを牛車には乗せず、兵を潜ませておいたのである。
「き……さま」
忌々しげにアイラを睨み据えると、フドウはそのまま倒れ伏し、それきり意識を失った。
アイラは大の字に倒れていた。
生気のない目を天に向け、耳の奥でこだまする雨音だけを聞いていた。




