邂逅(2)
階下ではにわかにざわつく人の声が聞こえる。バズスの野太い声がなにかわめいているようにも聞こえた。
と、やがてその声を階下に残したまま、どかどかとけたたましい足音が階段を上ってくるのが聞こえた。
――窓から逃げるか、と思う間もなく大きくなった足音が扉を蹴破る。
床に転がった扉の破片を踏みながら、手に槍を持った数人の衛士たちが部屋へとなだれ込んできた。
槍の穂先をそろえ、アイラへと向ける。
アイラはスサを背後に庇うと剣を抜き、右手を前へ差し出した。
「と、突然なんです、お役人様」
突然のことに狼狽するマルクルを、衛士はわずらわしげに一瞥すると首根をつかみ、部屋の外へと放り出した。
転がるように倒れるマルクルはぱっと立ち上がると、
「営業妨害はやめてください」
と叫ぼうとしたが、じろりとねめつける衛士の迫力に小さくなり、声を絞り出すことすらできない。
アイラは剣を構えたまま、じりじりと窓の側へと寄っていく。
背後にいるスサにそっと囁く。
「あたしが連中の隙を誘うから、あんたはその窓から外へ逃げな」
二階ではあるが、屋根をつたえば降りることは容易い。上手く闇に乗じれば子供一人、見つけるのは容易ではないであろう。
「でも……」
複数の衛士を相手にアイラ一人で無傷で済むのか、とスサは不安げにアイラを見上げた。
「大丈夫、心配はいらない」
とでも言うように、アイラは目顔で笑った。
実際のところ、スサだけを逃がすのはそう難しいことではないであろう。が、果たして無傷で済むものかどうかは分からない。
衛士たちが数を恃む臆病なものたちなら容易い。狭い室内で自由に長い槍を振り回すのは難しく、下手をすれば同士討ちの危険性がある。懐に飛び込んで当身を食らわせるのは、アイラの腕であればそう難しいことではないであろう。
が、一人一人の腹が据わっていればどうか。
おそらく同士討ちを恐れず、いや、むしろ仲間ごとアイラを串刺しにすることすらやってのけるかもしれない。
(こいつらは――)
果たしてどちらの種類か。
(どちらにせよ、このままじゃ結果は一つだ)
アイラは腹を決めた。
「いいね、いくよ」
そう囁くと、いざ相手の懐に飛び込まんとぐっと身体を沈みこませた。その姿からは、猫科の猛獣が想起される。
と、次の瞬間、一人の男の声が衛士とアイラの間に割ってはいった。
「待て、みな槍を引け。」
有無をいわせない威厳に満ちた声である。
次の瞬間衛士たちを間を割って部屋に入ってきたのは、なんとナワト国の大神官、バラムであった。
「突然の無礼を詫びる。ともかく、まずは話を聞いてはくれまいか」
バラムは衛士たちに槍を下ろすよう命じる。アイラはそれらの動きを油断なく見据えながらなおも剣を下ろさない。
その様子にバラムはわずかに眉根を寄せたが、アイラを警戒させないよう慇懃な態度をくずさない。
バラムはその場に膝をつくとまずスサに向かって深く叩頭した。
「スサ皇子、御身ご健勝のこと、祝着至極に存じます」
そうして立ち上がると、今度はアイラに視線を向ける。
「まずは今日まで皇子の御身を預かっていただいたこと礼をいう。ついてはある御方が直接礼を述べたいとのこと、我らとともに来てはくれまいか」
「断る」
と、アイラはいいたいところであったであろう。
どこへ連れていかれるにしても、そこは敵に囲まれた場所に相違なく、いわば自ら進んで罠にはまりにいくようなものなのである。
が、迷った。
敵に囲まれているのは今も変わりない。なにより目の前にいる男からは不思議な凄みのようなものを感じる。権謀術数に長けていることは一目で分かるが、それだけに今の言葉に嘘がないことも分かるのである。
「あんた……何者だい?」
「ナワト国大神官、バラム」
バラムの名乗りにアイラは言葉を失った。
ナワト国の神官の長がアイラのような身分のものと直に顔を合わせて言葉を交わしていることも異例であれば、帝の共をする以外でこんな国境の町に直々に赴くこと自体異例なのである。
いよいよ本腰を入れてスサを殺しにきたか、と思わざるを得ない。
「まさか大神官様直々のお出ましとはね」
「そうではない」
という。
「我らにスサ皇子を弑し奉るつもりはない」
いまはもう、という。
その表情には慙愧の念がありありと浮かぶ。
「すべては大神官たるわたしの愚かなるがゆえだったのだ」
ことの始まりが六合嘱に現れた不吉の相であることはかつて何度か述べた。
スサが生まれるのと相前後して行われた六合嘱に見たこともない奇妙な相が現れ、かつての資料にそれと酷似する相を見つけ推察したところ、バラムは凶兆を感じ取った。
いわば不吉の相、といってもバラムや神官たちの見るところ、というほどの意味である。
その後、バラムは三度、事故に見せかけてスサを暗殺しようとしたこともすでに述べた。そのいずれもが失敗に終わっている。
「そうこうしているうち、皇子が病に倒れたと聞いた。かつて二人の皇太子のお命を奪った忌むべき病だと」
これで国は救われるとバラムは思った。
ところがスサが病に倒れて以来、不吉の相はその凶兆をますます濃いものにしていったのである。
怪訝に思ったバラムは書庫にこもり、かつてスサが生まれるころに見た相について改めて徹底的に調べなおした。
そこで信じがたい事実を知ったのである。
「我らが初めに見た相は、不吉の相ではなかったのだ」
それは瑞兆だったのである。
かつて初代ナワト帝が大地に降臨するときに見られたとされる吉兆で、意味するところは新たに生まれかわることを意味しているという。
滅びの相に酷似していたのは、古く錆た殻を破り、新たに生まれ変わる――抽象的な意味での滅びを意味していたのだというのである。
その後サクヤの狂言を知り、スサがいまだ国外に逃れていない可能性にかけ、国境を行き来するもの――とりわけ国外へ出ようとするものを厳しく取り調べることにしたのだという。
さらに、バラムは配下のものを使い、スサの足取りを追わせた。
――碧い瞳をした子供を見なかったか?
町々でくまなく聞き込みをすれば、碧い瞳の少年と、女の武人が連れ立って歩いているのを目撃しているものが、ほんのわずかであったがいた。
「この町に来るという確証はなかったが、これも天の神のお導き」 バラムは膝を折ると、スサに向かってふたたび叩頭した。
「スサ皇子、いえ、皇太子様。なにとぞわたくしと宮城へお戻りください」
唐突なバラムの告白にスサは言葉がない。
口を開いたのはアイラであった。
「じゃあなにか、あんたが占いを間違えたおかげでこの子は命を狙われたってのかい?」
剣を持つ手に力がこもり、ぶるぶると震えている。
「で、その占いが間違いだったから、ごめんなさい戻ってきてくださいって、そういうことかい?」
徐々に語気が荒くなっていく。
バラムの言い分を反芻しながらこれまでの旅でスサが味わった苦難を振り返り、アイラは腸の煮える心地がした。
「ふざけるんじゃないよ!」
感情が爆発し、声を荒らげる。
衛士が一斉に槍の穂先をあげアイラへと向けた。
「そんな手前勝手な理由ではいそうですかと素直に従うと思ってんのかい! この子がどれだけ辛い思いをしたか、どんな気持ちで髪を切ったのか、どんな思いでそれらを乗り越えてきたのか……あんたらに分かるってのかい!」
バラムは手をあげ衛士たちを制止する。
「そなたの怒りももっともだ。わたしは皇太子様に対しなんら申し開きするところもない。が、まずは我らとともにきて、ある御方と話をしてはくれまいか」
いったい誰がなにを話そうというのか、アイラはこの場にくることもしないその御方とやらにも、無性に腹が立ってきた。
「分かった、いこう」
行って、たとえそれが誰であれ、徹底的に罵ってくれよう、そう思った。
連れていかれたのは町のはずれの小高い丘の上にある屋敷であった。
こういった屋敷は国境の町に必ず建てられている。皇族が国境を越えるさい、卦が悪かったり、あるいは不意の天候不順などの際に一時的にこういった屋敷を居館とするのである。
皇族とそれに関わる人間以外でこの屋敷に入ったのは、史上おそらくアイラが初めてであろう。
そのアイラはいま湯につかっている。
ある御方に会うために、一度外界の穢れを落としてもらいたい、というのである。
(いったい誰と会うっていうんだろうね)
浴室内に漂うヒノキの香りが鼻孔をくすぐり、先ほどの鋭くとがった苛立ちを幾分和らげていく。
アイラが今こうしてゆっくりと湯につかっているのにはマルクルの宿からこの館までの道中の、アイラとスサの扱いにあった。
スサは皇子なのだから当然のことであったが、アイラにすら、縄をかけず剣を奪わず、無用の警戒心を与えぬよう客としての礼をもって遇してくれているようであった。
であれば理由はどうであれ、スサとアイラに会って話がしたい、という話は真実のことなのであろう。
それにしても、と浴室内をぐるりと見渡す。
浴槽だけでもハキムと暮らした小屋がすっぽりと入るほどの大きさである。
(たかが浴槽にこれだけの広さがいるもんかねえ)
国境の町に立つ館程度でこれなのである。
庶民と皇族との暮らしの隔絶ぶりは、言語に絶してなおあり余るほどの隔たりがあるのであろう。
湯船をあがり浴室を出ると、濡れた体を拭うべく、女官が二人控えていた。
アイラは身体を拭おうとする女官から手拭いをひったくると、さっさと自ら身体を拭い始めた。
「他人に触られるとくすぐったくてね」
と、笑顔なくいい、素早く拭うと服を着、腰帯に剣を差すとその場を後にした。
大広間に通される。
いったいどれほどの広さなのであろうか。先ほどの浴室さえ小さく思えてしまうほどのその広間は大きな正方形をしており、アイラの正面には高座が設けられている。
高座の両脇には美しい彫りの入った衝立が二枚立てられ、その間に薄い布が渡されている。位の高いものが位の低いものと対面する際にそうして仕切りをするのであろう。
おそらくスサはその仕切りの向こう側に着座するはずである。
しばらく座っていると、衝立の向こう側から戸の開く音が聞こえ、衣摺れの音とともに誰かが歩み出てくる気配を感じた。
スサであろう。
都の下ノ町での出会い以来、常に側にいたあのスサが、今こうして衝立の向こうにいるのだと考えると、否応なしにその身分の違いを感じさせられる。
(なんだか寂しいじゃないか)
思いもよらず湧いた感傷に、アイラは自嘲するように口元を歪めた。
が、次の瞬間、スサは衝立の間に張られた布を取っ払い、そのままするするとアイラの下まで歩み寄ってきたのである。
手には上段に置かれていたのであろう座布団がある。
「いいのかい、上座に座っていなくて」
「いい、俺はもう皇子じゃないんだ。あんなとこに座って他人を見下ろすなんて、したくない」
思えばスサは、館に向かう道中でも用意された輿に乗ることを拒否していた。
アイラとともに歩くスサに、周囲のものたちはしきりに輿に乗ることを勧めたが、スサは頑としてこれを拒んだ。
あくまでも皇子として扱う彼らを疎ましがる風さえあった。
いつか口にした、「皇子をやめる」という言葉は、その場の雰囲気から口走ったものではどうやらないらしい。
が、絹の衣をまとい、煌びやかな宝飾品に飾られたその姿は、アイラの知るスサの姿ではない。
「なんだか、随分偉くなったね。それとも、それがあんたの本来の姿なのかい」
皮肉交じりにそういうと、スサは眉根を寄せてアイラを見た。
「やめてよ、俺はもう皇子じゃない」
湯からあがったあと、女官たちに無理矢理着せられたのだという。
「耳飾りや冠がこんなに邪魔なものだったなんて知らなかったよ」
苦笑しながらいうと、スサは手に持っていた座布団をおろし、アイラの隣に腰を下ろした。
やがて戸が開くとバラムが進み出、脇に退くとその場に叩頭した。
奥から、衣摺れの音とともに足を運ぶ音が聞こえる。
姿を現したのはスサの母、ナワト帝の第四皇妃、サクヤであった。




