獣の罪、人の罰(4)
一体何が起こっているのであろうか。状況が飲み込めないのであろう、アイラは剣を振り上げたまま、目を丸くして固まってしまっている。
無理もないことであった。己の人生の全てを狂わせた仇と対峙し、いざその身に刃を突きたてようとしたところで、幼い少年が両手を広げ、仇を守るように立ちはだかっているのである。混乱するな、というほうが酷というものであろう。
少年は敵意に満ちた目でアイラを見据えている。
「――な……」
なんだお前は? とアイラがいうより早く、少年の、まだ変声期を迎えていない高い声が場に響いた。
「父上を虐めるな!」
さがれ無礼者、という。
この突然の事態に狼狽したのはドルジであった。
「なにをしている、部屋に下がっておれ!」
その声音には、先ほどまで見せていたふてぶてしいまでの余裕は微塵もない。
「そこをどけ!」
と、アイラは吠えるように一喝した。
が、少年はその声にわずかに身を震わせながらも、アイラの前から退こうとしない。アイラもまた、仇であるドルジを前に、子供をたしなめる余裕などなかった。
アイラは剣を握ったままの拳で少年の頬を殴りつけた。
少年は吹き飛ばされ、床に打ち付けられた。
この光景に色を失ったドルジは、少年のもとに駆けよるとアイラの前にひざまずき、拝むように哀願した。
「た、頼む。俺の命ならいくらでもやる。息子だけは見逃してくれ!」
額を床に擦り付け、必死にせがむ。
ドルジはこのときすでに四十をわずかに過ぎていた。三十をこえてようやく授かった我が子を、ドルジはよほど溺愛していたのであろう。突如賊の前に身をさらした我が子を見て、剣を手に立ち会うことすらも忘れていた。
余談だが、この少年はこのとき十一歳であった。アイラの家族が惨殺されたのが十年前であるということを考えると、ハシムを殺し、ソニアを犯したときにはすでに、一児をなしていたことがわかる。でありながら、あれだけの凶行におよぶことができたあたり、やはりこの男の精神構造は尋常のものではないといわざるを得ないであろう。
ともかく、アイラの目の前にいたのは、憎かったはずの仇ではなく、我が子の安全を願う一人の父親の姿であった。
その姿を目にしたとき、アイラは目の前が真っ暗になった。そして次の瞬間には、その闇を払うように、網膜の奥に紅蓮の炎が燃え、景色の全てを朱に染めた。
アイラは足元で額づくドルジを蹴り飛ばすと、続けざまに目の前の少年を壁際へと投げ飛ばした。
壁に叩き付けられた少年は、力なく床へと崩れ落ちていく。
ドルジが叫ぶ。
「頼む、やめてくれ!」
アイラがドルジを振り返った。狂気に満ちたその目には、しかし涙が溢れ、頬を伝っている。
悲しげに歪んだ笑みを見せると、アイラは少年にむけて大きく剣を振りかぶった。
「大切なものを奪われる苦しみを……お前も味わえばいいんだ」
――奪ったものの大きさを、奪われることで思い知れ。
少年のまだ小さな肩口へ向け、迷うことなく剣を振り下ろす。
肉を切り裂く感触が剣を持つ手に伝わり、噴き出した鮮血が、醜く歪んだアイラの笑みを朱に染めた。
「父上!」
少年の甲高い叫び声に、アイラは我を取り戻した。足元には、少年をかばって背を割られたドルジが、血だまりのなかで倒れていた。
「父上! 父上!」
少年の叫びにドルジは答えない。少年はドルジの側にしゃがみ込み、背に手を当てて激しく揺するが、わずかにでも動く気配がない。一太刀で、絶命していた。
呆然とするアイラを、少年は睨みすえるように見上げた。
「よくも……よくも父上を……」
激しい憎悪に満ちた目であった。
アイラは少年の目を前に、足に根が生えたようにその場から動くことができない。いいようのない恐怖が全身を包んでいくような不安感を覚えた。
不意に、背後で大きな音を立てて扉が開き、アイラの縛を解いた。
背後を振り返ると、けたたましい足音とともに、十人を超える男どもが室内になだれこんできた。
「放て!」
誰かの声を合図に、男どもはアイラに目がけ、一斉に矢を射かけた。
狭い廊下ではなく、広い室内ではいかにアイラの腕が男どもに勝っていようとも多勢に無勢であろう。二、三人ならばともかく、十を超える相手に、しかも遠間から一斉に矢を射かけられたのでは到底太刀打ちできない。
アイラは数本の矢を肩や腕に受けながら、窓を割って屋外へと飛び出した。階は二階、高さにして三間(約5メートル半)ほどであろうか。いつものアイラであれば、それほど苦にする高さではなかったが、すでに全身に大小無数の傷を負っていたためか、窓を割って飛び出した際に体を崩し、大地に叩きつけられるような形になった。庭には小さいながらも篝火が焚かれており、うっすらと闇を照らしている。
大地にうずくまるアイラにめがけて、割れた窓の向こうから、さらに矢が射下ろされる。
数本の矢が肌をかすめて地面に突き刺さる。
アイラは身を起こすと闇に向かって駆け出した。いつまでもうずくまっていては、階上の射手に的にされるだけであろう。
そのとき、ひょう、と空を切り裂き飛んできた一本の矢が、アイラの右腿を貫いた。
不意に走った激痛に、あいらはもんどりうって倒れた。背後からは、駆け寄ってくる足音が聞こえる。
(これまでか)
そう思い死を覚悟したとき、にわかに雨が降り出した。
人の声を掻き消すほどの土砂降りの雨は、松明を濡らし、篝火を消し、あたりを闇にかえした。
アイラは痺れる右足を引きずりながら、闇に身を隠し、ひっそりと屋敷を後にした。
暗い森のなかを、アイラは歩いている。雨足は依然弱まることなく、激しく地面を叩いていた。
右足は引きずりながら、どこで見つけたのか木の枝を杖に、寄りかかるようにしてようやく歩いている。傷だらけのその身体は、雨に流されていく血とともに、別の何かも溶けて流れていっているようであった。
雨に助けられ虎口を逃れたアイラであったが、もはやその命は風前の灯であった。
全身に傷を負い、暗闇を無我夢中で逃げ、己がどこにいるのかも分からない。寄る辺もなく、助けてくれるものもいない。まさに、孤立無援であった。
ぬかるみに足を取られ転ぶ。
泥に顔を埋めながら、アイラは先刻の己の姿を思い返していた。
幼い少年にむけて剣を振り上げ、仇を振り返る。男の顔に張り付いた絶望の表情、あのとき男の目に映った自分は、いったいどんな顔をしていたのであろう。
――あたしは……獣だ……!
もっとも憎んでいたはずの、己のすべてを奪った人面獣心のけだもの。そんな唾棄すべき存在に、いつから自分は成り果てていたのであろう。
結果として少年を殺すことはなかったが、あのとき心のなかには、目の前の少年を殺し、自分が味わった苦しみ、悲しみを、ドルジにも味わわせてやろう、という下卑た願望が確かにあった。
(あたしも、あの男となにも変わらない)
涙が流れ、泥水のなかに消えていく。
すでに体力は尽き、身体を動かす気力も萎えた。
泥水のなかに横たわりながら、アイラは近づく死の気配を感じていた。
(それも……いいか)
そんな考えが頭の片隅をよぎった。
すでに家族の仇を討ち、人生の目的は果たした、と思っている。言い換えれば、生きる意味をなくした、生きようともがく理由がない、ともいえるであろう。
(もういい。もう……疲れた)
アイラはそっと目を閉じると、底のない闇に沈んでいくような感覚に、その身を委ねた。
瞼の裏に、アミタの顔が浮かぶ。
必ず帰るという約束を、どうやら果たすことはできそうにない。
(ごめんね、おばさん。さようなら……)
激しく地面をたたく雨の音が、耳の奥にこだましていた。
スサはただ黙ってアイラの話に耳を傾けている。
「その後、たまたま通りかかった男に助けられて、結局あたしは命を取りとめたんだ」
あのとき男が通りかからなかったなら、間違いなくあのまま死んでいただろう、という。苦笑する表情はどこか優し気な笑みに見えた。
「あのとき目の前で父親を殺された子供の顔は、今もはっきり覚えてる。きっと、今でもあたしを憎んでいるんだろう」
いつか、自分を殺しに来るときが来るかもしれない、とまではいわない。
「人の恨みを背負って生きるのは辛い。あたしはたくさんの命を奪ってしまった。彼らの友や恋人は、あたしを憎んでも憎み足りないくらいだろう」
きっと、殺したいくらいに。
「人を殺せば、否が応でも殺し合いの螺旋に乗せられちまう。罪の意識に苛まれながら、それでも死ぬまで、その螺旋から降りることはできないんだ」
アイラはスサの頬に手をやり、そっと触れた。
「あんたには、そうなって欲しくないんだよ。憎しみは新たな憎しみを生む。そんな簡単なことに、あの頃のあたしは気付けなかったけど、賢いあんたなら分かるだろう」
スサは俯いたまま、震える声でアイラに問うた。
「忘れろって、いうの?」
「忘れるんじゃない。大切なのは、乗り越えることなんだよ。あんたを生かすため、ラットは命をかけた。だったら、あんたはとことんまで生き抜いてやらなくちゃ」
それがラットの魂を慰める唯一の、そして最良の手段なのだ、という。
「憎しみに心を委ねちゃいけない。あんたのその小さな手を血に染めても、誰も喜びやしない。そんなこと誰も望まない。ラットも、あたしも、そしてあんたの母親も」
スサはなおも俯いたまま、拳を固く握りしめ、小さな肩を震わせている。
「アイラが護衛士をしているのは、命を奪ったその償いのため?」
アイラは小さく首を振る。
「いいや、人の命を奪った罪は、どんなことをしても償えない。一生背負って生きていくしかないんだ。でも、そうだね、ほんのわずかでも罪滅ぼしになれば、と思うよ」
実のところ、アイラは心のどこかで、ドルジの息子が仇討ちに来れば、殺されてやるつもりでいる。必要以上に他者と親しくなるのを避けるのも、そうであれば己の死に悲憤を感じるものが少なくて済むからであった。
親しいものがいなければ、殺し合いの螺旋は途切れる。それが確かにドルジの息子に対する贖罪になるのか、確たるものはなかったが、ドルジの息子に対する、それがアイラの罪滅ぼしであった。
――が、
(矛盾だな)
と、同時にそう思う自分もいる。
人を殺すという行為そのものが持つ業に気付いていながら贖罪のために殺されてやるという、矛盾といえばこれほどの矛盾もないであろう。あるいは贖罪という名を借りた自己満足であるだけなのかもしれない。
いつかあのときの少年と向かい合ったとき、どうするのが正しいのか、アイラ自身にもわからない。ただ、その日が来るまでは、助けられるだけの命を助けていく。それこそが、アイラが己の心に宿している、人生の誓いであった。
アイラは両手を持ち上げ手のひらを眺めると、軽く握りしめる。
「あたしの手は、血に濡れて真っ赤に染まってしまった。もう、どんなに洗っても落とせない。そんなあたしが他人の復讐心にとやかくいうなんてのは、さぞや噴飯ものだろうさ」
アイラはスサの肩に手をまわし、己の方へと引き寄せた。
「でもね、あたしはやっぱり、あんたにそうなって欲しくないんだよ」
スサはうつむき加減のアイラの横顔から発せられる、静かな、しかし力強い言葉が、胸に染み、腹の底へとゆっくり沈んでいくのを感じていた。
(ラットは俺を生かそうと死んだ。トルグも……)
彼らの死に報いる術は、まずはなにより生き抜くことであろう。でなければ、彼らの死が無駄になる。
「分かったよ、アイラ。よく、分かった」
もう馬鹿な真似はしない、というと、アイラの肩に頭を乗せた。
「俺は、とことん生き抜いてやる」
日が昇るまで少し寝よう、というと、スサは静かに目を閉じた。
天井や壁の裂け目から見える空は白みはじめている。
夜は、まもなく明けようとしていた。




