獣の罪、人の罰(3)
深更、シャガル王国の王都に建つ、さる官人の屋敷が大揺れに揺れていた。
大きな足音を響かせながら廊下を行きかう男たちの手には、剣や槍、弓などが握られている。
「いたか?」
「こっちにはいない」
「庭の方に現れたらしいぞ」
男たちは言葉を交わすや、廊下を蹴るように走っていった。薄暗い廊下にはそこかしこに血溜まりがあり、壁や扉にも赤い模様を貼り付けている。
「もっと灯りを持ってこい!」
どこかで誰かが叫ぶ。
昼過ぎから垂れ込み始めた鉛色の雲は、月の光を完全に遮っており、部屋や廊下、庭のそこここに、濃い闇を住まわせている。
ある一室では、女たちが怪我をした男たちの手当てを行っている。そのほとんどが、もはや虫の息であった。ほんのわずか致命傷を避けえたものもいたが、なかには腹を裂かれ飛び出した内臓を、手で押さえながら喘いでいるものもいる。屋敷内は、まるで戦時下のような様相を呈していた。いったいこの屋敷のなかでなにが起こっているのであろうか。
横たわり呻く男たちをかいがいしく介抱する女たちの手が不意に止まり、身体を強張らせたまま視線を泳がせた。また誰かが斬られたのであろう。どこかで、男の悲鳴が聞こえた。
屋敷内のある一室に、一人の男がいた。
見たところ、四十歳前後であろうか。よほど暮らしぶりがいいのか、椅子に腰かけたその身体には、だらしなく脂肪がついており、いかにも重たげである。
ただ、目だけはどこかふてぶてしい光を放っていた。
男はこの館の主人で、名をドルジという。
ドルジはかつて、シャガル王国の兵士として一隊を率い、百人の兵卒をまとめていたほどの武人であったが、五年ほど前にあったさる戦において、膝に受けた矢が原因でかつての動きを失い、第一線を退いていた。
以来、酒色に溺れた。今もその手には酒の入った杯がある。
そのドルジが、左右に控えた男たちに声をかける。
「賊はまだ捕らえられんのか」
あからさまに苛立っているその声は、傲慢で、どこか他者を見下しているような響きがある。
「ドルジ様、賊の狙いは恐らくドルジ様です。どうか、我らとともに避難を」
左右に控えた男たちが叩頭しながら避難をうながすと、ドルジの目に怒りが灯った。
「たわけ! このドルジ様に、たかが賊の一人や二人が屋敷に侵入したくらいで逃げろとぬかすか! この俺を、誰だと思っている!」
怒号を発しながら手に持った杯に満たされた酒をぐいと飲み干すと、そのまま杯を足下に叩きつけた。杯は乾いた音ともに砕け散り四散した。
ぎょろりと左右をねめつけるその目は真っ赤に充血しており、すでにかなりの酒が入っていること現している。そうしてドルジは左右の男らに、己の武勇伝を語り始めた。
「昔、西方の国境線での戦に赴いたときにくらった夜襲はこんなものではなかったわ。なにせ――」
かつては勇猛な兵士として知られたドルジは、よほど自尊心が強いのか、酒がはいり酔いがまわると、過去の戦場での武勇伝を異様に誇る、という癖があった。
事実、往時のこの男の働きは凄まじいものがあり、単純な武力や武略だけでいえば、当時の将軍に並ぶ剣腕を持ち、統率者としても、百人どころか千人の兵士を戦場で縦横に使いこなすだけの才があった。鬼才であったといっていい。
が、この男、人の上に立つには少々、いや、かなり性格的な問題があった。
傲慢で、己の才に溺れ易く、他者の意見を頭から受けつけようとしない。軍議の席でも上官の策を真正面から非難したことは一度や二度ではなく、ときに上官のたてた策を拙劣と断じ、面罵したことすらあった。疎ましがられるのは必然であろう。
結局こういった性格が災いし、常に前線の人間たらしめられたことが、先に述べた第一線を退く原因となる負傷をもたらしたのだといえなくもない。それらに対する鬱屈――ある意味では自業自得だが――が、第一線を退いてなお、この男の傲慢さをいささかも衰えさせない要因になっているのであろう。
話がそれた。
この屋敷に侵入した賊、アイラへと視点を戻す。
ドルジが酒をあおりながら気焔をあげているころ、アイラは屋敷の中庭に植えられた木の陰に身をひそめていた。胴衣は返り血で黒く染まり、血に濡れた髪が頬にべったりと張りついているのを、焚かれた炎が浮かび上がらせている。
視線の先に、二階へと続く階段が見える。階段の側に、男が三人立っていた。右手に剣を、左手に手燭を持ち、階段を守るように立っている。
屋敷中が大騒ぎになっているなか、視線の先の男たちは、その場を離れようとしない。それは、目指す先がそこにあることを物語っている。
暗闇に、猛禽の目が光る。すでに、アイラの身の内に棲む獣は、自我の鎖を九割九分、解いていた。
(あの先に、いる)
この屋敷にたどり着くのは容易かった。公開処刑の際、読み上げられた罪状を聞いていた人間が何人もいたのである。少し話を聞けば、誰もが簡単に口を開いてくれた。誰もかれもが処刑されたハキムのことを、馬鹿だ愚かだと吐き捨てることに、腸の煮えくりかる思いがしたが、そこで騒ぎを起こしてしまえば元も子もない。アイラはそれらの罵倒を、必死の思いで耐えた。
それにしても、と思う。
(ハキムおじさんはどうして失敗したんだろう)
はっきりいって、アイラから見れば、屋敷に詰めている男たちは、みな弱い。アイラでさえ、今こうして屋敷内を血に染めることができているのである。ハキムにできなかったはずがないのである。
(考えても詮無いことだ)
アイラは疑問を振り払うように小さく首を振った。
(今はただ、目の前の仇に集中するんだ)
アイラの手には、木剣ではなく二本の真剣が握られている。それは粗末なものであったが、なけなしの金で買った初めての真剣であった。木剣と違い、ずしりとした重みがある。
アイラは闇に紛れて縁側へと近づくと改めて周囲を見回した。
階段を守る三人の男以外には誰もいない。みな、アイラを探して右往左往しているのであろう。
アイラは闇から素早く飛び出すと、右手の男の喉を切り裂いた。
男は声もなく崩れ落ちる。
突然の出来事に呆気にとられ、男たちは声もない。
噴水のように噴き出す生暖かい血を浴びながら、続けて左手の男の喉を真っ直ぐに突き通した。
失策であった。
男の身体が崩れ落ちる重さで剣を抜くのがわずかに遅れ、小さな隙を生んだ。
不意に、右肩に焼けるような熱さを感じた。
男の剣がアイラの右肩を斬ったのである。
アイラは剣を抜くと身体をひねり、振り返りざまに男の腹を深く割った。
裂けた腹から腸がだらりと垂れ下がり、床に落ちたかと思うと、そのままその上に、男の身体が重なった。
生臭いにおいが鼻につく。
アイラは右肩を押さえて膝をついた。
幸い男の腕が未熟であったせいで、骨までは切られていなかったが、右腕全体が痺れたように力が入らず、剣を持つことができない。
「くそっ……!」
アイラは胴衣の腹部を裂くと、右肩に巻きつけた。縛りつけると、刺すような痛みが走り、頭の芯を打つ。
「――――!」
唇を噛み、声を押し殺す。額には汗の粒が浮かんでいる。
ついで剣を落とさないよう、握りこんだ右拳に巻きつけた。
目指す仇はきっと上にいる。
アイラは踏みしめるように階上へと向かった。
この期に及んでなお、ドルジは杯を重ねている。
部屋の外ではアイラが大立ち回りを演じているが、徐々に近づきつつある襲撃者の気配を感じていながらわずかの狼狽も見せずに杯を重ね続けられる神経は、やはり並の男ではないのであろう。
階上へと上がったアイラは迫りくる男どもを切り伏せつつ、廊下を猛然と駆けていた。背や肩、腕には無数の切り傷があり、全身を濡らす血は、自身のものか相手のものか、もはや判然としない。血の匂いを鼻孔の奥に感じながら、本能のままに暴れだしそうになる己のなかの凶暴な獣を懸命に押さえつけていた。
気が付けば目の前には誰もなく、ただ閉じられた扉があった。
肩で息をしながら扉を押し開く。
がらんとした部屋の奥に、男がいた。かたわらの小さな机には、酒器が置かれている。この騒ぎのなか酒をくらっているからには、ただの家人ではなかろう。
「お前がドルジか?」
かすれた声で問う。その顔は、かつて見、かついまだ夢に現れる、記憶のなかの獣と符合する。
「様、をつけろ、無礼者が」
いいながら、杯をあおる。
「先日処刑した男といい、貴様といい、一体俺になんの恨みがある」
ドルジの言葉に、アイラは身のうちがざわざわとざわついていくのを感じた。
「十年前……ヤクモ族の村でしたことを……覚えているか?」
臓腑が、きりきりと痛む。
「ヤクモ族? なんだそれは」
聞かぬ名だ、とドルジは鼻で笑った。
「待てよ、十年前……まさか貴様、あのとき焼いた村の生き残りか」
アイラはぎりぎりと歯噛みしながらドルジを睨みすえ、言葉を絞り出す。
「あのとき、お前が犯した少女の妹が……あたしだ!」
ドルジはわずかに目を丸くすると、次の瞬間、口元を歪め、
「なるほど、仇討ちというやつか。まさか先日の男もきさまの仲間か?」
と自嘲するように笑った。
「どうした、俺を殺したいのだろう?」
左右に控えていた男らはすでに逃げ、周りには誰もいない。
が、アイラはドルジを睨みすえたまま、足に根が張ったかのようにその場に立ちつくしている。出会うや否や、有無をいわさず飛びかかるであろうと思われただけに、その光景は意外なものであった。
「十年前のあの日、なぜ村を襲った。あたしたちに、一体どんな罪があった」
十年間、抱え続けた疑問であった。
アイラの心情からすれば、今すぐにでも殺してしまいたいはずで、言葉を交わすことさえ吐き気をもよおさせる相手であるが、幸福であったはずの日常のすべてを一瞬で奪い去った不条理を、そのまま置き捨てておくことはできなかったのであろう。
そんなアイラの問いに対し、ドルジの放った言葉は信じ難いものであった。
「特にない」
たまたまそこに村があったから襲った、というのである。
「なん……だと……?」
ドルジの言葉に、酷い眩暈を覚えた。
歪んだ笑みを浮かべながら、ドルジが口を開いた。
「あの頃、あの村から山ふたつほどむこうでちょっとした戦があってな。あの日離れた場所にいた俺の部隊にも応援要請があった」
自惚れの強いドルジにすれば、戦場は己の才を披露する最高の舞台である。部隊を引き連れ意気揚々と戦場へ向かったであろうことは、想像に難くない。
「ところがいざ到着してみたらどうだ。すでに勝敗は決まり、俺たちの部隊は剣を一振りすることもなかった。高ぶった血を発散しなければ、気が狂いそうだった。そこで、手近な村を襲った。それだけだ」
戦場ではよくあることだ、という。
ドルジの言葉はどこまでも無感動である。
アイラは想像だにしなかったその答えに、頭の芯が痺れていくような感覚を覚えた。
「たった……それだけの理由で……」
震える足で一歩、また一歩と、ドルジへと近づいてく。
「たったそれだけの理由で、お前はあたしの全てを奪うのか!」
咆哮とともに駆け出し、目の前の仇に剣を突き立てるべく跳躍しようとしたとき、小さな影がドルジの前へと躍り出てきた。
それは、まだ幼い少年であった。




