獣の罪、人の罰(1)
アイラとスサは破れ屋に戻ると、どかりと土間に腰を下ろした。スサの心臓が、どくどくと落ち着きなく動いている。
アイラは静かに口を開くと、ゆっくりと続きを語り始めた。
「あたしは子供を殺した。正確にいえば殺そうとした、なんだけど、あたしにとっては殺したのと同じなんだ」
よく分からない、とスサはいう。
「順を追って話そう。どこまで話してたかね。そうそう、叔母のもとにいったとこまでだったね」
アイラは叔母であるアミタが用意してくれた町外れにある小屋で、ハキムと二人で暮らしていた。小さく粗末な小屋であったが、町の外れというハキムの希望にかなう物件はこれきりであった。アイラもまた、小屋の粗末さを気にする様子はない。
ハキムは護衛士を続けるかたわら、アイラを徹底的に鍛えた。
「それほど仇討ちをしたいのなら、まずは俺に勝ってみせろ」
そうすれば仇討ちを許してやる、とハキムは言った。が、実のところ、ハキムはアイラに仇討ちを許すつもりはない。
当然といえば当然であろう。
たとえ仇討ちを果たしたところで死者が蘇るわけではなく、なにより兄や義姉、そしてもう一人の姪、ソニアがそんなことを望んでいるとはハキムにはとても思えなかったのである。
――アイラに修羅の道を歩ませてはならない。
ハキムの密かな決意であった。
そんなハキムがアイラを鍛える、という矛盾。理由は以前に述べたとおりだが、ハキムには他にも狙いがあった。
アイラが鍛錬を積み成長する――強くなる――過程において自身の弱さを悟らしめ、仇討ちがいかに無謀なものであるかを気づかしめよう、というのである。
ハキムは一見すれば過度に思えるほどにアイラを鍛えた。投げ、突き、蹴り、倒す。ときにアイラは激しく泣いたが、歯を食いしばるとすぐ立ち上がり稽古を続けた。アイラの身体には、いつも生傷が絶えなかった。
ハキムが仕事でいないときも休むことなく己を鍛え続けた。
憎しみというきわめて負の感情を原動力にしていること事態は到底褒められるべきことではないが、わずか八歳にすぎない小娘がわきめもふらずに己を鍛え続けるという集中力には驚嘆すべきものがあるであろう。あるいは憎しみという感情が原動力になっていたからこそ、といえなくもないのかもしれない。
そうして十年が過ぎた。
アイラは十八歳になっていた。
幼かった娘はすでに手足も伸びきり、ふくよかな胸や丸みを帯びた腰まわりは十分に女を感じさせる。
そんなアイラは今、ハキムと向き合っている。右足をわずかに引き、膝は柔らかい。二本の木剣が握られた両手は腰の辺りでだらりと下がっている。一見して身体のどこにも余計な力がこめられていないことが分かる。ただ唯一、ハキムを見据える両の眼だけは、鷹や鷲などの猛禽を思わせるほどに鋭い。
二人は見つめあったまま動かない。その距離わずかに五尺(約1メートル半)である。
先に仕掛けたのはアイラであった。
不意の突風が砂塵を巻き上げる。それを合図に、アイラは一瞬で間合いを詰めると、右手に握られた木剣をハキムの顔面に向けて左から一文字に薙いだ。
ハキムは頭を後ろにそらす。
木剣が空を切った。
アイラは一瞬の間もおかず一歩踏み込み、左の木剣で胴を払う。ハキムは前に出していた足を引いて右から襲いくる木剣をかわした。
アイラの攻撃の手はなおも緩まない。
左を振った勢いのままくるりと回転すると、蹴りでハキムの足下を狙った。宙に飛んでかわせば、続く木剣をかわすことはできない。
ハキムは素早く間合いをつめると右足を大地に突き刺さんばかりに踏みしめ、回ってきたアイラの右腿を受け止めた。回転軸に近いほど、遠心力は働かない。蹴りの威力は完全に殺された。
身体の平衡を崩されたアイラは大地に手を着いた。体を起こそうと顔をあげたとき、目の前にはハキムの木剣があった。
「……参りました」
悔しげに絞りだし立ち上がる。
十年の歳月のなか、幾度立ち合ったかは定かではないが、アイラはハキムに勝つどころか、ただの一撃すらも浴びせたことがなかった。
ふう、とひとつ大きく息をつき、
「また負けか」
と、自嘲気味に笑う。
「いや、それほど悪くはなかったぞ」
「本当に?」
にわかに表情が緩む。
「ああ。上、中、下という連携は少々単純にすぎるが、動き自体は悪くない」
最後の一撃が顔か胴であればあるいは、という。
「そろそろ一人で仕事をしてみるか?」
「え?」
ハキムはアイラが十五歳を越えたころから何度かともに護衛仕事に同行させたことがあった。当然比較的簡単な――例えばきわめて安全とされている行路を行く――内容のものばかりで、十日を超える旅を要する依頼や危険とされる行路を行くようなものには決してアイラを連れて行くようなことはしなかったが。
そんなハキムが今、アイラに一人で仕事をするか、という。一体どういう風の吹き回しであろう。
「往復で十日ほどの簡単な仕事だ」
他に二人の護衛士がつくという。
「一人は熟練の護衛士だ。もう一人は最近までどこぞの町の酒場で用心棒をしていたらしい。本来なら二人で十分の仕事だ。お前はまあ、おまけだな」
乗り気ではないのかハキムの話をアイラは興味なさそうな表情で流している。
「別にあたしは護衛士になりたいわけじゃない」
「怖いのか」
見え透いた挑発であった。が、そんな安い挑発でも、軽く受け流せるほど、アイラはまだ世間ずれしてはいなかった。
「誰が怖いっていったのさ!」
いきおい、やる、となった。
ハキムは銀貨を三枚アイラに投げる。
「出発は明後日だ。それまでに必要なものを揃えておけ」
そういうとハキムは小屋へと戻った。
翌日、アイラは必要なものを買うために町へと向かった。往復で十日ほどの道のりであったが、山を越えるわけでも森を分け入るわけでもない。せいぜい雨避けの合羽と十日分の食料、それを包む油紙があればこと足りる。あまった金で菓子を買い、アミタの家へと向かった。
「おやまあ、久しぶりじゃないか」
アミタは例のごとく人のよさそうな笑顔で出迎えてくれた。アイラが手土産を差し出すと満面に喜色を浮かべた。手土産が嬉しいのではなく、そうしたアイラの気遣いが嬉しいのである。
「さ、なかへお入り。お茶を入れよう」
アイラを居間に通し台所へと向かうアミタの足取りは心なしか軽やかである。久しぶりの姪の訪問に、心が浮き立っているのであろう。
アイラは椅子に座るとぐるりと周囲を見回した。幼い頃に叔母夫婦とともに何度も食事をともにしたこの家も、近頃すっかり足が遠のいてしまっていた。
やがてアミタが茶の入った湯飲みを二つ盆に載せ戻ってきた。わずかに赤味がかった水色は、独特の香りを漂わせる。『ラコ』と呼ばれる葉を使ったシャガル王国で一般的に好まれるものである。
アミタは椅子に座り茶を一口啜ると、アイラの手土産である菓子を口に入れた。それは平たい円形をしており、小麦粉と乳、卵を主に作られている。さくさくとした歯ざわりとほのかな乳の甘みがたまらない、アミタの大好物であった。
「その荷物はなんだい?」
アミタは、アイラの椅子の脇に下ろされている荷物を指差した。
「ああ、これは食料と合羽、それと油紙です。明日から護衛仕事があって」
アイラはハキムから仕事を回された経緯を話した。
「ふうん、そりゃあ妙だねえ」
アイラの話を聞いたアミタは怪訝そうな表情を浮かべた。
「それにおじさん、最近妙に考え込んでるみたいで……」
ふむふむ、と菓子を口に運びながらうなずく。
ハキムとの付き合いはさして深くはないが、もう十年の付き合いである。ハキムという男がどういう男であるかを、アミタは少なからず理解している。およそ嘘をつくことをせず、不器用であるが誠実で、恃むに足る人物。それがアミタのハキムへの印象であった。ときにアイラに対し厳しすぎる風を感じさせるが、それも一種の父性の現れであろうと思っている。
「だからなにか意味があるんだろうさ。きっとあんたに悪いようにはしないよ」
気にするな、とアミタはからから笑いながら二つ目の菓子を口に入れた。
アイラは茶を啜ると頷いたが、何かが腑に落ちない。言葉にならない疑問のようなものが、胸の奥で、針の穴程の小さな染みをつくった。
翌日、アイラは商人が操る一台の馬車と二人の護衛士とともに街道を進んでいた。
(くそ、まんまと乗せられた)
先日の安い挑発を思い返し、あっさり乗せられた己の浅はかさに歯噛みする。
アイラは馬車の左後ろにいた。二人の護衛士は馬車を挟むように前後にいる。前方を行くのは白髪の混じった五十がらみの男で、恐らくハキムがいう熟練の護衛士であろう。となると、アイラの右手にいる男が元用心棒の男ということになる。よくよく見れば、なるほどその風貌はどこか粗野な雰囲気を感じさせる。いかにも場末の酒場の用心棒、という風体であった。
その男が、横目でちらちらとアイラを窺っている。
(なんだか嫌な感じだ)
女であると侮っているのか、初めて顔を合わせたときからなにやら不快な男であった。
(とにかく十日の我慢だ)
そう自分に言い聞かせ、努めて男の視線を無視した。
道のりはよくいえば安全な、悪くいえばきわめて退屈なものであった。平坦で開かれた道はおよそ野盗の類に襲われることなどありうべくもないし、狼や熊が出るような森林もない。何事もなく過ぎた。
五日目の昼には目的地に着いた。あとはもと来た道を戻り町に帰れば護衛終了である。
異変は七日目の夜に起こった。
いかに安全な道であろうと夜間の見張りは行う。万が一がないとはいい切れない。
護衛士を雇うものは夜間の見張りの都合上大抵二人以上を雇うということは以前に触れた。一行に護衛士は三人いる。
正確にいえばアイラは護衛士ではない――本人がそうであると思っていない――が、金を支払う雇い主からすれば似たようなものであろう。必然、アイラも夜間の見張りをせざるをえない。
(別にそれはいいんだけど……)
もう一人、例の用心棒上がりの男と一緒なのである。
未熟なものでも二人でいれば大丈夫であろう、というのがその理由であった。
一人であればいろいろ思案を巡らせることもできるのだが、この粗野な男はいちいち声をかけてくるのである。
話の中身は己の武勇伝であった。
やれ何人を相手に一人で闘っただの、やれならず者の一味を壊滅させただのと、やくたいもない話ばかりであった。こういった武勇伝をひけらかす男に、ろくな手合いはいない。
(早く交代したい)
そう思っていたときであった。男が闇の中に不審なものが見えたというのである。
「あのちょっと丘になったところだ。野盗かもしれねえ」
二十間(約35メートル強)ほど向こうの丘を指差す。
「本当に?」
月は出ているが雲間からわずかに照らす程度である。果たして二十間先で動くものなど見えるものなのであろうか。
「俺あ夜目が利くんだよ」
男は自信のある様子であった。
「ならもう一人の人を起こそう」
アイラの得物は二本の木剣だけである。もし本当に野盗や獣の類であるのであれば、少々手に余る。
「馬鹿! そんなことしたら手柄を盗られっちまうだろうが」
自分たちだけでやるんだ、というと、男は剣を手に取り静かに丘へと歩を進める。アイラは軽く舌打ちすると、男の後を追った。
「……何もないじゃないか」
丘に登り辺りを見回す。
周囲には自分たち以外に誰かいる気配はない。
「こっちだ、下りて来い」
丘の向こう側、窪地になったところから男が声を潜めてアイラを呼んだ。
声に呼ばれるまま窪地に下りる。
やはり誰かがいる気配も、ましていたという形跡もない。
「やっぱり見間違い――」
そこまでを口にしたとき、先ほどの男が背後から襲い掛かってきた。
よもやの行動に虚を突かれたアイラはなす術もなく組み敷かれてしまった。
「お前……! どういうつもりだ!」
「どうもこうもあるかよ。糞みたいに退屈な仕事なんだ。こんくらいの刺激があってもいいじゃねえか」
アイラを犯そう、というのである。
「初日からどっかで犯ってやろうと思ってたんだ。まんまと引っかかりやがって馬鹿が」
必死の抵抗を試みるが、凄まじい腕力で押さえつけられびくともしない。
(くそ!)
剣での勝負であれば、あるいはアイラが勝っていたであろう。が、いかに剣椀が優れていようとも所詮は女である。腕一本でいとも簡単に抑えられてしまった。
男は胴衣を引き裂くと露になったアイラの乳房に触れた。
脳裏に、八歳の頃の忌まわしい記憶が蘇る。
獣のような咆哮を上げ必死に抵抗するが、びくともしない。
「そう暴れるなよ。すぐに良くなるさ」
月を背にする男の顔は見えないが、アイラの目には、あの日ソニアを弄っていた男の薄汚い笑みが、はっきりと浮かんでいた。
次の瞬間、男はアイラの乳房を掴んだまま、覆い被さるように圧し掛かってきた。
(くそ、くそ!)
が、どうしたことか、それきり動かない。かわりに上から振ってきたのは、別の男の声であった。
「大丈夫か?」
そこには先ほど見張りを交代し眠っているはずの護衛士の男がいた。
身体の上の男を跳ね除ける。どうやら気を失っているらしい。
身体を起こし礼をいう。
それにしても何故この男がここにいるのか。見張りを交代し仮眠をとっているはずではなかったか。
怪訝そうに見つめるアイラに、微笑を浮かべる。
「ハキムからお前さんのことをよろしく頼まれてるのさ」
意識のない男を縄で縛りながら、熟練の護衛士はアイラの疑問に答えた。
「ハキムおじさんが?」
「ああ。腕っぷしはともかく、精神面に問題があるから心配だとな」
日頃からハキムにもそう指摘されている。
「特にお前さんは女だ。常に武器を携帯できるとは限らんし、力じゃどうしたって男にや適わん。より頭と神経を張り巡らせておかんとな」
胸元を隠すアイラに己の外套を差し出す。
「犯されるだけならまだいい。もしこの男が野盗と通じていたら、捕らえられて売られるか、下手をすれば殺されとったかも知れん」
道理であった。男を仲間であると油断し、警戒を怠った結果、危うく犯されかけたのである。剣の勝負であれば、などは体のいい言い訳で、実際にはそれ以前の問題であった。
「護衛士ってのは剣の腕も大事だが、なにより危険を避けるよう努めるのが本分だ。覚えておきなさい」
別に護衛士になるつもりはなかったが、言わんとすることはよく分かる。避けられる危険は避けるべきであり、そのために嗅覚を研ぎ澄ませるべきだ、ということであろう。
アイラは素直に頷くと、馬車へと戻った。
十日目の夕方には町へと戻った。
アイラは報酬を受け取るとハキムの待つ小屋へと戻った。
「ただいま」
戸をくぐると小屋の中には誰もいない。
おかしいな、と思いつつも、アイラは
(ちょっと出かけてるんだろう)
と、深く考えずに板の間に横になった。
よほど疲れていたのであろう、いつの間にか眠ってしまい、目が覚めたころにはすでに日が沈んでいた。火を熾していなかったため、小屋の中は暗い。
「ハキムおじさん、いないの?」
呼びかけてみても、小屋のなかはしんと静まり返っている。
(おかしい)
妙な胸騒ぎを覚えた。
二人で暮らし始めて以来、ハキムがアイラに一言も告げずにいなくなることなどかつてなかった。
アイラは、駆け出していた。




