兇手(2)
スサを乗せた荷馬車は枝道の先、岩壁の向こう側に広がった森のなかを駆けていた。
「どう、どう!」
右腕は矢に貫かれ自由が利かない。残った左腕でどうにか馬をなだめ制止したとき、周囲の景色は一変しており、岩壁に挟まれた狭隘地から、四方を木々に囲まれていた。
日はまだ中天を過ぎたあたりであったはずが、生い茂った樹木が遮っているのか、あるいは日が岩壁の陰に隠れているのか、まるで夕刻の薄闇のなかに置き去りにされたような心許なさであった。
視界の先には闇がわだかまっている。
ぐるりと周囲を見渡せば、不気味ななにかに取り囲まれてしまっているような錯覚すらあった。
「兄ちゃん、ここどこ?」
ラットが荷台から降りてきた。よほど激しく揺れたのであろう。頭をさすりながら兄であるカカに問うた。
カカ。頭の三番目の息子である。
「分かんねえ。完全にはぐれちまったみたいだ」
そう言って辺りを見回す。「親父たち、無事だといいんだけど」
「兄ちゃん、腕」
矢の刺さったカカの右腕を見てラットが兄を気遣う。カカは大丈夫、と強がって見せたが、かなり痛むのであろう、額には大粒の汗が浮いている。
と、そのとき遠くから馬の蹄が大地を削る音が聞こえた。
「皆が迎えにきてくれたのかな?」
徐々に音が近づいてくる。
「ラット、スサと一緒に馬に移っとけ」
注意深く音に耳を向けながら御者台を降りたカカの言葉には、反問を許さない緊張感があった。
ラットもまた旅と商いを生業とする一家の男子である。そこは心得たもので、素早く荷台に戻るとスサに声をかけ荷台を乗り越え、先ほどまで兄が腰掛けていた御者台を踏み、スサともども馬の背に跨った。
ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、スサもまた、疑問を口にすることなくラットの誘いを受け入れた。
鞍のない馬の背に触れる。
筋肉質なその背は適度な弾力があり、ほのかに温かい。
「けっこう暖かいだろ」
そっと耳打ちする。
「寒い季節にしがみつくとじんわり暖かくて気持ちいいんだ」
緊張した雰囲気のなかスサを和ませようとしているのか、それともそういう性格なのか、ラットが悪戯っぽく笑う。スサはそれほど物珍しげな顔をしていたのかとわずかにその頬を染めた。
カカは音のするほうに目を向け薄闇の向こう側を注意深く見つめている。
次第に蹄の音が大きくなる。
そうして薄闇の向こうにぼんやりした影が動いているのが見え、次いでその影の輪郭がはっきりとした像を結んだとき、
「くそ、やっぱりか!」
と、叫んだ。
野盗であった。
四人の男たちが馬を駆って迫ってくる。
複数の護衛士に守られた大きな獲物と丸裸になったであろう小さな獲物。その両方を秤にかけ、どちらがよりうまみのある獲物か、考えた末の行動なのであろう。あるいは二兎を追ったのかもしれない。
いずれにせよ真っ向から闘ってどうにかなるものではない。
カカは近づく影が野盗であると判断すると、痛む右腕に鞭を打ち、腰に下げた剣を抜き放った。そして剣を左手に持ち帰ると、馬と荷台を繋ぐ器具を固定している太い綱を断ち切った。
自分たちの引いている荷を『捨て荷』にするらしい。
荷台に積まれているのは水と食料だけで金目のものは何一つないが、野盗どもにそんなことが分かるはずもない。荷に群がっているうちに馬を駆けさせ森を抜ける腹積もりなのであろう。
荷台を蹴って馬に飛び乗ると、スサとラットを抱きこむように手綱を握り馬の腹を蹴った。
「飛ばすぞ、落ちないようにしっかりしがみついとけよ!」
ひとつ大きくいなないたあと、大地を蹴って駆け出した。
すでに道は失っている。どちらへ駆ければいいかは分からないが、とにかくまずはこの場を離れることが先決であった。父たちとの合流は安全を確保してから考えればいい。
が、ことはカカの思い通りには運ばなかった。
馬を駆けさせてすぐに振り返り、野盗たちの反応を見たところ、意に反し野盗たちは『捨て荷』には一瞥もくれず、カカが操る馬を追ってきたのである。
野盗たちのこの反応にはカカも狼狽した。
当然であろう。
『捨て荷』を無視する野盗など聞いたことがない。隊商を襲う連中が欲しいものは運ばれている荷そのものであって、それらを運ぶ人間の命になど路傍の石くれほどの価値も興味もないのである。
そのとき、野盗の放った一筋の矢が馬の尻に突き立った。
狂乱した馬が暴れると、カカとラット、スサは宙に投げ出され大地に叩きつけられた。
カカは素早く立ち上がるとラットとスサを背後に庇い、剣を抜いて構えた。
野盗の一人が馬を降り、ゆっくりと近づいてくる。
「荷はくれてやったろう。なんで俺たちを追う」
男は下卑た笑みを口の端に浮かべながら、手に持った剣をカカが背後に庇うスサへと向けた。
「そこの小僧を殺せば大金を払うっていわれてな。ちょっとやそっとの荷なんぞ、どうでもいいんだよ」
狙いはスサである、という。
「大人しくその碧い目をした小僧をよこせば二人は見逃してやる」
「…………」
わずかに見せたカカの逡巡。
ごくりと喉を鳴らす。
否、というよりも早く、スサがカカの背後から身を出した。
「その話、本当か。二人は絶対に助けるんだな」
「なに言ってんだよ、スサ。兄ちゃんから離れるな」
ラットがスサを制止する。
「いい。狙いは俺だ。二人が死ぬことはないよ」
毅然としたスサの態度にカカは言葉もない。先ほど己の見せたわずかな逡巡を恥じた。
「スサ、馬鹿な真似はやめろ」
その勇気に感服しながら、同時にその無謀を諌める。
その言葉に振り返ったスサはカカとラットに向けてにこりと微笑んだ。
ここまでありがとう、という意味か、あるいは気にしなくていい、という意味か、カカとラットにはその意味をはかることができなかった。
「いい度胸だな、小僧」
男の言葉が冷たく響く。
ともすれば震えだしそうな両足を意思の力で抑え込み、スサは男の目を真っ直ぐに見返した。
「本当に二人は見逃してくれるんだな」
堂々としたスサの態度に男が狼狽する。
今まで殺しをしたことがないわけではない。むしろこれまで殺した人間の数は、ゆうに十を超えていることは間違いない。が、どんなに屈強な男でも、いざ白刃を突きつけられたときには見苦しいほどに命乞いをしたものであった。
それがどうであろう。
潔く、かつ、この期に及んで他者を気にかけるその態度は、今まで殺したどんな男どもにもその類例を見ない。
「――ああ、嘘はいわねえよ。そもそも俺たちの本業は殺しじゃねえ」
何か目に見えない力に圧されるように、男は明らかにスサにの態度に呑まれていた。
スサは俯くと、きゅっと唇を噛んだ。
そうしてもう一度カカとラットに向き直ると、
「アイラにごめん、と伝えてくれ。それから、ありがとう、と」
その言葉を潮に、男は剣を頭上に振り上げた。
「安心しろ。痛みがないように、一瞬で済ませてやる」
(母上、どうかお元気で)
スサはそっと目を閉じた。
剣が、スサの細い首筋に向かって振り下ろされる。
スサの耳に、ひゅっ、と空を裂く音が聞こえた。
ラットの、カカの悲鳴が薄暗い森に響き、木々の間を通り抜けてこだまする。
次の瞬間大地を赤く染めたのは、スサではなく剣を振り下ろした男の血であった。
異変を感じたスサが目を開けた。
目の前で剣を振り上げていた男が、今は左腕を真っ赤に染めてうずくまっている。その腕に、見覚えのある剣が突き立っていた。
スサは何が起きたのか、そしてその剣が誰のものなのか、瞬時に理解した。
迫りくるけたたましい蹄の音に、野盗たちが背後を振り返った。
そこにいたのは、馬上剣を振りかざす女であった。
「スサー!」
鬼気迫るその姿に、野盗どもは色を失った。
左右に散るように飛び退き道を開ける。
アイラは駆けざま馬から飛び降りると、スサと、そしてその前にうずくまる男の間に立った。
「怪我はないかい」
右手に持った剣で足元の男を捉えながら、背後に背負ったスサに問う。
スサがうんと頷くと、アイラはふっと笑い、次いで鋭い視線を目の前の男たちに向けた。
「さあ、どうするね。やろうってんならあたしが相手になるよ」
突然の事態に狼狽を隠せない男たち。最初に動いたのはアイラの足元でうずくまる男であった。
右腕が無事であることを幸い、目の前にあるアイラの足に向けて一閃、切りつけた。
が、正確には男の右腕がアイラの足を薙ごうと動いた刹那、アイラの蹴りが男の顎を蹴り砕いた。
泡を吹き、失禁しながら気絶する。
その姿に、残された三人の男は完全に気勢をそがれた。
アイラは男の左肩に刺さった剣を抜き鋭く血振るいすると、
「さあ、どうするね」
と、再び問うた。
いかに大金とはいえ命にはかえられない。
結局、残された男たちは気絶した男を抱えると、すごすごと退散していった。
その場にはアイラとスサ、そしてラットとカカだけが残された。
カカの腕に刺さった矢を抜き止血を済ませると、スサが事情を語って聞かせた。
「ごめん、アイラ。俺……」
申し訳なさそうなスサの頬に手をやり、アイラは労わるように撫でた。
「いいんだ。あんたはあんたなりに闘ったんだろう? なにも間違っちゃいないさ」
アイラがカカとラットに目をやる。
ほんのわずかとはいえ、野盗の持ちかけた取引に見せた逡巡。それを知るはずのないアイラに見透かされているような気分がするのか、カカはどこかばつが悪そうであった。
「スサの話じゃ、狙いはこの子だったらしいね。どうも巻き込んじまったみたいで、本当に申し訳ない」
などと謝られたことも、かえってカカの気分を惨めにさせた。
「とにかく、親父たちのもとに戻りましょう。きっとみんな心配している」
いたたまれない気分なのか、とにかくこの場を動こうと促すカカ。
そんなカカに対し、アイラは首を左右に振る。
「そうしたいのやまやまだけど、どうやらまだあたしらに用があるらしい」
アイラの言葉にその場にいた三人が首をひねる。
「出てきな、さっきから見てることは分かってんだ!」
アイラの叫びが木々の間を駆け抜けこだまし、そしてその先の薄闇に消えたとき、
がさり
と、一人の男が姿を現した。
その姿にスサは息を詰まらせた。
それは、風抜き山の吊り橋で出会った、巌のような大男であった。




