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流浪の防人  作者: まいたけ
26/42

けだものの皇妃(2)

 後宮の中庭には大きな菩提樹ぼだいじゅがある。かつてスサが宮城にあったとき、この菩提樹に登ってはそばに仕える女官たちをやきもきさせていた、ということは以前に述べた。その菩提樹の下に、サクヤがいた。離れたところに女官が控えている。

 サクヤは仰ぐようにその枝葉を眺めていた。葉は、目に痛いほどに青い。

 「スサ……」

 不意に、我が子の名が唇から零れた。

 望まれて、異国の帝にして以来、憂き目を見ることも少なくなかったが、スサが生まれてからは、それらもさほど気にならなくなった。他の皇族が、「他国人風情が」と蔑むように投げかける視線も、己の腕のなかで穏やかに眠る我が子に比べれば、取るに足らない些末さまつなことだと思えるようになったからである。

 帝はサクヤを愛していたが、妃はサクヤだけではない。そもそも神の子として育てられてきた帝に、通常人が当然感じるような寂寥感せきりょうかんというものを察することができるかどうか。

 現帝は慈悲深く、他を思いやる心というものを持ちすぎるほどに持ちすぎているが、特殊な環境で育った人間がそういった人の心の機微というものを理解できるのかどうか甚だ疑問ではある。事実、帝はサクヤが他の妃から白眼視はくがんしされているという事実を知らなかった。自然、サクヤの心は帝から離れていかざるをえないであろう。

 そんな、ともすれば荒んでいきかねないサクヤの心を慰めたのが、スサであった。今頃どこでなにをしているのか。

 「どうか、あの子にご加護を」

 そのとき、背後に人の気配を感じた。

 「おや、誰かと思えばサクヤ様ではありませんか。このようなところでなにをされておるのです」

 声に背後を振り返ると、そこには第三皇妃ミヤビが立っていた。美しい笑みである。その笑みからは、蓮靜宮れんじょうきゅうの露台でサクヤを「卑賤の淫売」と毒づいていた様子は微塵も感じられない。ミヤビは手を振って女官に離れているようにうながした。

 「これはミヤビ様」

 サクヤはうやうやしく礼をすると、

 「ハク様はお元気ですか?」

 と、ミヤビの八歳になる皇子へと話をむけた。

 双方、丁寧な言葉遣いである。ミヤビは第三皇妃、サクヤは第四皇妃であるが、そこに上下はない。妃はみな、立場的には同列であった。

 サクヤの問いかけに、ミヤビはいよいよ笑みを深くし、「ええ、少々元気が過ぎるくらいでしょうか」と、手に持った扇で口元を隠しながら、ほほ、と笑いながらいった。次いで表情を曇らせながら、「スサ殿のお加減はまだよくなりませんか?」と問うた。内心、茶番だと笑っているであろう。

 「ええ」

 と、言葉少なに返す。

 「わらわにできることがあれば何でもいってくだされ。スサ殿はいつか帝になられるお方、御身おさおさおろそかにすることのなきよう」

 眉根をよせ、心底心配そうなおもてをつくっているが、その仮面の裏ではけだもののような笑みを浮かべているであろう。なぜそれほどまでにスサを狙い、サクヤを憎むのであろうか。

 「では、わらわはこれで」

 軽く会釈をすると、ミヤビはその場を後にした。

 蓮靜宮の最上階、露台のある部屋に戻るとそこにはフドウが立っていた。ミヤビは不快気な表情を浮かべた。

 「わらわのおらぬ間にこっそり部屋に入るなど、まるで盗人のようじゃのう」

 言葉に、けんがある。

 ミヤビはフドウに一瞥いちべつをくれると露台へと進み、そこに置かれた揺り椅子に腰掛け、そこから見える景色に目をやった。眼下には、ニタイの森の緑が広がっている。

 「それで、スサは始末できたのかえ」

 ふん、と鼻を鳴らした。できていないのであろう、という侮蔑ぶべつがうかがえる。

 そんなミヤビの、ある種挑発ともとれるような言葉を気にする様子もなく、フドウは口を開いた。

 「先ごろクルクを使って報告がきた。マラキという町で隊商の護衛を引き受けともに西へ向かっているらしい」

 クルクとは、小型の伝書鳥のことである。飛翔能力と帰巣本能に優れたこの鳥は、同時に飛行速度にも優れており、訓練次第では長距離を長時間、高速で迷うことなく行き来でき、優れた通信手段になる。

 「居所をつかんでおるならなぜさっさと殺さぬ」

 怪訝な表情を浮かべたミヤビは苛立たしげに問うた。

 「まさかその護衛士とかいう女に恐れをなした、などとたわけたことをぬかすつもりではあるまいな」

 あいも変わらぬ権高けんだかな物言いである。

 「例の護衛士はすこぶる勘の鋭い女らしく、下手に動けぬようですな。どうやら直接的な手は打てぬらしい」

 からめ手から攻める、という。

 「方法などどうでもよい。さっさとスサの首を持ってまいれ」

 まるで茶でも要求するような口ぶりである。

 「用件はそれだけかえ」

 よほどフドウが目障りなのか、口調がいちいちわずらわしげで棘を含んでいる。

 「近頃、大神官殿が神学寮のなかにある書庫にこもっておられるそうですな」

 ミヤビは、それがどうした、といわんばかりに先をうながす。

 「確か第三皇子殿がお生まれになる頃にも、同じように大神官殿は書庫にこもっておられたとか」

 「それがどうしたというのじゃ」

 「いや、少々気にかかりましてな」



 フドウのいうとおり、ここしばらく、大神官バラムはしきりに書庫に出入りしていた。

 神官の居室は神学寮のなかにある。三層からなるこの建造物は、おおまかにいえば一階に神官になるために修業中の見習いたちが共同生活をしている大部屋や、日々の勉学に励むための部屋がある。二階には神官たちの個室と六合嘱りくごうしょくをおこなうための儀式の間があり、三階には大神官の部屋と書庫がある。書庫には神官以上でなければ入ることはできない。

 この書庫には膨大な数の蔵書があり、ナワト国の歴史や神話、政治その他諸々を書き記したものが納められている。当然六合嘱の結果などを記した書物もこの書庫には納められており、いわばナワト国の全てが書にされて納められている。

 深更しんこう、その書庫のなかに、大神官バラムの姿があった。古文書や過去の記録の山に埋もれたバラムは一心不乱に書物をめくりながら、ときおり「せぬ」と呟いては黙考もっこうしている。

 ――解せぬ。

 そんな思いがこの数日来バラムの胸中に端座しているらしく、一日の政務が終わると書庫に足を運び、翌朝まで一切人を寄せ付けないのである。他の神官の書庫への立ち入りをすら禁じている。そうして翌朝、また政務へとおもむくのである。

 食事はおろか睡眠すらまともにとっていないのか、近頃のバラムは頬こけ、手燭が浮かび上がらせるその形相は、一見すれば幽鬼のようですらあった。ただ、その双眸そうぼうだけはどことなく生気に満ちているようでもあった。

 はらりと書物をめくる。手燭てしょくの炎がわずかに揺れた。

 「解せぬ」

 再びバラムが呟く。

 「いや、そうではない」

 と、さらにひとりごちる。視線は手元にある書物と、その前に並べられた紙片へと注がれている。それはスサが生まれる前後から今日に至るまでの間に観察された六合嘱の結果である。

 なにが解せないのか。

 六合嘱に見られた不吉の相に変化が見られないのである。

 いや、正確にいえば変化はあった。

 かつてスサが生まれるのに相前後して現れた今だかつて目にしたことのない奇妙な相。神学寮中をひっくり返して見つけ出した一枚の覚書に記されていた不吉を意味する相によく似たそれが、近頃ますますその表情を覚書にあるものに似せてきていた。

 「不吉が……濃くなっている」

 スサがすでに崩御ほうぎょした二人の皇子と同じ病に倒れたと聞いたとき、バラムは内心安堵した。

 スサの死を喜ぶつもりは毛頭ない。

 真実痛ましいことであることは間違いなく、悲劇であることは疑いようもない。個人としてであれば、バラムはいかなる祈祷きとうも惜しみなく捧げるであろう。

 が、大神官としてナワト国の行く末を憂う立場にあるものとしては、スサの存在がナワト国を傾ける――あくまで六合嘱の結果から導き出したバラムの観測ではあるが――である以上、いかに不本意であろうと、『公』としてその死を望まなければならないのである。

 ただ唯一、スサに迫りつつある死が、父である帝の手によってもたらされたものでなかったことが、ほんのわずか、バラムの心を慰めた。

 父が子を殺さなければならない。

 子が父に殺される。

 どういい変えようと悲劇であることには変わりはない。

 あるいはスサの病はそんな父と子を憐れんだ天の神が特別に下賜くだされたものではないか。

 いずれにせよ、やがて訪れるであろうスサの死と引き換えに、ナワト国の安寧あんねいは約束されるはずであった。

 それからしばらく後、いつも通り午前の政務を行ったあと自室で神官たちから挙がってきた六合嘱の結果を見て、思わずバラムは眉をひそめた。その相は、どう贔屓目ひいきめに見ても好転しているようには見えない。それどころか新たに示された六合嘱の結果は、覚書にある不吉の相に酷似こくじしてきているのである。

 ところでサクヤはスサを病と偽った。かつて二人の皇子の命を奪った病と同じものであるとし、桜楼宮の部屋で臥せさせ誰にも――父である帝にすら――会わせようとしなかった。

 本来であれば帝はサクヤの制止を振り払ってでもスサを見舞うべきであったし、宮医を総動員するか、あるいは国中の薬師くすしをもってスサの治療にあたらしめるべきであった。少なくとも、ニニギやイスルギに対してしたのと同じだけの手を尽くすべきであったであろう。が、帝はそれをしなかった。六合嘱の結果もあったであろうが、それ以上に帝やその周囲――スサの暗殺を企てていることを知らない大多数の人間――には、この謎の病に対する諦めの気持ちがあったに相違ない。そんな周囲の不思議な配慮によってこの狂言は成立していた。

 もしも仮に帝やバラムが早くにサクヤのこの狂言に気付いていれば、あるいはその後のナワト国の歴史はどうなっていたのか。が、サクヤがそれほどにしたたかな女性であるとは帝もバラムも、露ほどにも思っていなかったのである。必然、バラムは六合嘱の結果とにらみ合いながら思考を回転させることになった。

 この物語を振り返ったとき、スサには常に多大な幸運がついてまわっているということが確認できるが、この辺りのバラムの思考の動きもまた、そのうちのひとつといえるかも知れない。

 ともかく、大神官バラムはこの数日を、えもいわれぬ感覚とともに過ごしている。

 (なにかを見落としているのではないか……)

 漠然ばくぜんと、そう思っている。

 と、不意にバラムの身体が大きく揺れた。

 疲労のせいであろう。危うく椅子から転げ落ちそうになったところを辛うじて支えたとき、かたわらにうず高く積み上げられていた書物が崩れ、床に散乱した。

 軽く目頭を押さえる。

 床に散らばった書物を拾おうと手を伸ばしたとき、偶然目に飛び込んだ一節が、バラムの脳内に一筋の閃光となって走った。

 バラムはその一冊を取り上げると、机の上に積み上げられた全ての書物を床へとぶちまけた。そうしてスサが生まれる前後から今日に至るまでの間に観察された全ての六合嘱の記録を並べた。

 見開かれた目は、しきりに書物との間を往復している。

 「まさか……そんなことが……」

 手燭の炎に照らされた唇が、小さく震えていた。

 


 翌朝、サクヤが桜楼宮にある自室の露台で眼下に広がる景色を眺めていると、にわかに階下が騒いでいるのが聞こえた。なにごとかと自室を出ると、廊下の奥からバラムが神官を一人従えて歩いてくるのが見えた。女官たちが、必死に制止している。

 「火急の用事だ、容赦せよ」

 女官たちの必死の言葉も、バラムは意に介する様子もなく足を運んでいる。

 「なにごとです、騒々しい」

 サクヤが、毅然きぜんとした態度でバラムの前に進み出、詰問した。

 「後宮は帝と皇子以外、基本殿方の立ち入りが禁じられていることはご存知でございましょう。一体どういうつもりです」

 基本、というのは、事前に申し入れをし、許可を得れば大神官は立ち入ることが許されているからであったが、このような半ば押し入るような訪問は過去に前例がない。

 「スサ様のお加減を見舞いたく参りました」

 バラムの言葉に、サクヤの顔がほんの一瞬歪んだ。

 「不要です。スサは、体調が優れません。引き取りなさい」

 声に、小さな動揺が見られる。サクヤは震える右手に左手を重ね、強く握った。

 バラムはサクヤの目を射抜くような視線で見つめる。

 短くも重たい沈黙に、女官が狼狽していた。

 「許されよ」

 ぼそりと呟くと、サクヤの手を引き強引に前を空けさせた。皇妃に対し、前代未聞の暴挙であろう。

 「ぶ……」

 ぶれいな、とサクヤが口を開くよりも先に、バラムは廊下の奥、スサの居室へと向かった。

 サクヤの表情に濃い狼狽が浮かぶ。喉が引きつれ、言葉が声になろうとしない。

 バラムはスサの居室の前に立つと、無遠慮にその扉を開いた。部屋は窓が締め切られており、濃い闇の中、四隅に置かれた燭台に灯された蝋燭の炎だけが辛うじて部屋の中央に敷かれた寝具を浮かび上がらせている。

 バラムは窓を開けると寝具のそばに膝をつき、上掛けの端をつかむと一気にそれをめくった。同時に、サクヤがその場に崩れ落ちる。

 寝具のなかに、スサの姿はない。

 「やはり、狂言であったか」

 バラムは神官に目をやると、小さく頷いた。それを受けた神官が、足早にその場を去っていく。何かしらの打ち合わせが事前に行われていたのであろう。

 手で押さえた口元から漏れるサクヤの嗚咽が、主のいない居室に響いていた。

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