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流浪の防人  作者: まいたけ
25/42

けだものの皇妃(1)

 都の北部、上ノ町のさらに奥に宮城はある。

 宮城はその周囲をニタイの森と呼ばれる広大な森林に囲まれている。広大なその敷地には複数の建物をもち、その全てがそれぞれの役割を持つ、いわばナワト国の中枢ちゅうすうである。

 宮城の最北には、帝の住まいである皇神殿こうしんでんが建つ。豪奢ごうしゃで華美なところが微塵もなく、一見すれば簡素にも見えるこの殿舎だが、その佇まいは、百年以上にわたって繁栄を続けるナワト国の歴史そのものであり、幽玄という言葉がいかにもこの殿舎を表すために存在するかのように錯覚してしまうほどの威厳に満ちている。

 その皇神殿の西側に建つ天祥殿てんしょうでんには皇后と皇子が住まう。

 現ナワト帝は四人の妃との間に四人の皇子と、三人の皇女をもうけた。もっとも、第一皇子と第二皇子は先年病没し、現在皇子は第三皇妃の息子と第四皇妃の息子であるスサしかいないが。

 天祥殿、と一括りになってはいるが、実際には五つの棟が立ち並んでいる。各棟はそれぞれに違った意匠いしょうが施されており、それぞれが殺しあうことなく引き立てあい、控え目ながらも雅やかな印象を与えている。

 後宮はその他にも皇后の親族が住まう眷宗けんしゅう殿でん、皇子が勉学を修めるための叡明殿えいめいでん、帝や皇后、その親族の身の回りの世話をする女官の住まう御令舎ごれいしゃなどがある。

 皇神殿と後宮の南側には帝が政務や祭事を執り行う祀祭殿しさいでんがあり、さらにその東には、神官たちの住まう神学寮が建っている。

 その天祥殿のひとつ、桜楼宮おうろうきゅうの一室にある露台に、ぼんやりと虚空を眺める一人の女がいた。

 ナワト国第四皇妃、サクヤである。

 あでやかな着物に身を包み、その肌は透けるように白い。結い上げた黒い髪は絹のように滑らかで、ぎょくをあしらったかんざしが華を添える。古今のいかなる宝玉も、その身を飾るに足らず、と言われるほどの美女で、黒く澄んだ瞳は、最上の黒曜石さえ路傍ろぼうの石くれの如く、と讃えられている。

 「……様……サクヤ様?」

 女官の声に我に返る。

 「大事ございませんか? サクヤ様」

 心配そうな面持ちで問いかける。

 「あ……いえ、大丈夫。ありがとう」

 にっこりと微笑みかけ、傍らに置かれた茶に手を伸ばし、わずかに狼狽した。

 温かかったはずの茶が、いつの間にかすっかり冷え切っている。それほどの時間、虚空を見つめて過ごしたのかと戸惑う。

 「お声をかけてもお返事を頂けないので心配してしまいました」

 安堵したように女官が笑う。

 サクヤは風姿ふうしが美しいだけでなく、その人となりも女官たちには人気があった。物腰が穏やかで、位の低い官吏であろうとその働きを労い、分け隔てなく言葉をかける。そんなサクヤの姿を苦々しく思う者も多かったが、当の本人は全く意に介さなかった。

 皇族の威厳、という意味では、こういった行為は官吏の軽視を招く原因になり得るものであり、事実、他の妃や重臣たちからは、所詮は下賤の王の娘よ、と――一国の王を下賤と蔑む辺りに帝の血筋への盲目的な信心が見て取れる――密かに軽侮けいぶされてもいた。

 「皇子様のご無事を危惧きぐされる気持ちも分かりますが、どうか、御身もお大事になさってくださりませ」

 新しい茶を用意すると告げ、叩頭しその場を辞去する。女官がいなくなったことを確認し、サクヤは大きく溜息を吐いた。


 第三皇子スサノナワトノミコトは病に倒れたという。

 第一皇子であるニニギ、さらに第二皇子であるイスルギがともに原因不明の病に侵され崩御したことについては以前にふれた。

 同じ病であるという。

 無論これは母であるサクヤの狂言で、現実のスサはアイラとともに――サクヤはアイラの存在を知る由もないが――宮の外の世界にいる。

 なぜサクヤがこのような狂言を演じているのか。それはサクヤがスサを守るために考え抜いた末での苦肉の策であった。

 スサの命を救うべく宮城から落ち延びさせたサクヤの行動は、一面必要以上に事を急いた感があるということは以前にふれたが、サクヤ自身、スサと離れ冷静さを取り戻したうえで思案すると、スサを宮城から落ち延びさせただけではどうにも心許ない。というより、いかに考えてもそれだけでは足りないように感じた。

 事実そうであろう。

 スサを落ち延びさせたとはいえ、それきりスサが宮城から姿を消せば、誰もが訝しがるに相違なく、いずれは己がスサを宮城から出したことが露見し、帝が追っ手を差し出すであろう。

 罪が暴かれ自身が裁かれることは恐ろしいが後悔はなく、それよりもスサの身に危険が及ぶことを恐れたサクヤは、「スサは病に倒れた」ことにした。

 こうすることで衆目に姿を晒さないという不自然さを回避し、また、機を見てスサは病にて死んだと宣し、密かに荼毘だびに付すことで、第三皇子スサノナワトノミコトという存在を完全に無にすることを画策したのである。

 サクヤは身の回りの世話をする女官のうち、真に信頼できるほんの数名だけに、この事実を明かしていた。

 スサの死を宣するのは半年後。それまではなんとしてでもこの秘密を守らねばならない。

 (半年間この秘密を守り切れば、スサは真に自由になれる)

 半年という期間はニニギとイスルギが病に倒れてから崩御ほうぎょするまでのおおよその期間である。ちょっと安直であるといえばそうかも知れない。

 ともかく、そうすればスサは命の不安に晒されることなく平和に暮らしていけるようになるはず。それだけがサクヤの心の支えであった。

 サクヤはトルグが死んだことも、スサが女護衛士とともにいることも、むろん謎の刺客に襲われたことなど露ほどにも知らない。知れば己の迂闊うかつで浅はかな決断に、あるいは狂い死にしたかも知れない。

 サクヤは虚空を見つめ、重い溜息をついた。


 そんなサクヤを――正確にはサクヤのいる桜楼宮の方角だが――憎悪に満ちた目で見つめるものがいた。

 ナワト帝の第三皇妃ミヤビである。

 ミヤビは美しい女であった。

 十四で帝の妻となって以来十年以上を過ぎ、年齢も三十を超えるがその容姿はいまだ見るものを魅了して止まない。

 ミヤビは自室のある蓮靜宮れんじょうきゅうの露台から、サクヤの住まう桜楼宮の方角を睨み据えていた。背後に中年の神官と無骨な雰囲気を持った男が控えている。

 「ええい、まだスサの行方は掴めぬのか」

 手に持った扇の端を、音が聞こえそうなほどに噛みながら吐き出す。

 「エゼル、いつまでわらわを待たせる気じゃ?」

 冷たい笑みを浮かべながら、エゼルと呼んだ男を見やる。

 エゼル。大神官に仕える三人の神官のうちの一人である。どこか冴えない、ある種愚鈍とさえいえそうな風姿をしている。

 ナワト国の政治は、六合嘱という天地と東西南北の相を観察し吉凶を占う儀式の結果をもって大神官が大筋を帝に奏上する、ということをかつて述べた。その六合嘱を行うのが神官たちであることも述べた。

 その神官たちの下にはさらに、神官を目指すべく修行に励む見習いの少年たちが幾人もいる。

 これらの少年たちは年に一度、神学寮――神官や見習いたちが寝起きし、また勉学に勤しむ施設――に入るべく国中から試験を受けに集まってくる。神学寮に入ったものは、数えで三十になるまでに神官になれなければ寮を去らねばならない。

 そもそも多くのものが神官になることなく神学寮を去っていく中で、エゼルは無事神官になり、さらにミヤビの側仕えを務めているのである。神官としては優秀であり、本来愚鈍であろうはずがない。が、その風姿はどこか冴えない。ミヤビに冷たい視線を向けられ身体を縮めるその姿は、どこか権力というものに対する卑屈なまでのへつらいを感じさせる。そこに神官としての確固たる矜持きょうじは見られない。権力に対する卑屈な態度は、ときに権力への拘りを伴うが、果たしてこの男の場合どうなのであろう。

 ミヤビはエゼルの背後で腕を組んだまま目を閉じている男に目をやった。

 「フドウ、おぬしの部下もとんだ無能よのう」

 フドウと呼ばれた男が一重の目を開きミヤビにむけた。どこか刺すような雰囲気のある、鋭い目をしている。

 「ふん、たかが女一人子供一人を始末することもできぬとはな」

 ミヤビはあざけるような口調でフドウを罵った。

 「お言葉にはお気をつけいただこう。我らの主は貴女ではないのだ」

 フドウがたしなめるようにいうと、ミヤビはふん、と鼻を鳴らした。

 「ぬかしおるわ」

 わずかに口の端を持ち上げたかと思うと、次いでぎりぎりと歯噛みする。

 「風抜き山で失敗してからすでに幾日過ぎたと思うておるのじゃ!」

 烈火の如く叫ぶとかたわらに置かれていた花瓶をつかみ上げフドウに向かって投げつけた。

 飛んできた花瓶をわずかに首をひねってかわす。壁に叩き付けられた花瓶は大きな音を立てて粉々に砕け散った。

 活けられていた花が床に散らばり、破片が散乱する。

 「サクヤ……卑賎ひせん淫売いんばいめが」

 美しい顔を醜く歪めながら呟く。

 ミヤビにとってナワト皇家に対する選民意識と自己愛は極めてはなはだしいが、それにしても一国の元王女を卑賎だの淫売だのと罵る感覚は盲信や盲目的といったものを通り越してある種の異常さや狂気を感じさせるものがあるであろう。

 そんなミヤビの性状をよく表す逸話がある。

 それはミヤビが十一歳のころのことであった。

 ある遠国おんごくの王子が金銀や秘蔵の宝と引き換えにミヤビをめとりたいと申し出てきたことがあった。

 他の国との関係強化のためこの申し出は喜んで受け入れるべきものであったし、また、皇女おうじょにとっての将来は帝の妻に選ばれるか、あるいは身分の高いもの――どこかの国の王子であれば申し分ないといえる――の妻になるかの二者択一である。さらにいえば、本来であれば婚姻に関する決定権は皇女には存在しない。

 が、ミヤビはがんとしてこれを拒んだ。

 「私は帝の妻になり、次の帝の母になる女。どこぞの馬の骨とも知れぬものの妻になるつもりなど毛頭ございませぬ」

 などと放言し、とても十一歳の小娘とは思えぬほどの気焔きえんをあげた。

 事実、この三年後には帝の妻となるのだが、それにしても他国の王子や王女に対し、馬の骨や卑賎などといえるあたり、凄まじいまでの選民意識といえるであろう。

 「ことを急がせまする故、どうかお気をお鎮めください」

 エゼルが平身低頭して詫びる。

 「詫びの言葉など聞きとうないわ。詫びるならばさっさとスサの首をわらわの前に持ってこよ!」

 はっ、と叩頭すると、エゼルは素早くミヤビの前を辞去した。

 「誰か床を片付けよ」

 ミヤビがそう呼ばわると、部屋の外に控えていた女官が素早く駆け寄り、床に散らばった花瓶の破片を始末するべく拾い上げていく。が、緊張か、あるいは恐怖からか、手が震え上手く破片を拾い上げることができない。それを見たミヤビが烈火のごとく叫んだ。

 「ええい、この愚図めが!」

 ミヤビは床に這いつくばるようにして破片を拾い上げている女官を足蹴にすると、散々に蹴りたてた。

 「申し訳ございません、申し訳ございません!」

 女官は素早く居住まいを正すと額を破片が散らばる床に擦り付けるように叩頭する。がたがたと震える指先と床に擦り付けた額からは、赤いものが滲んでいた。

 「ふん、もうよいわ。さっさと片づけよ」

 冷たく言い放つと、ミヤビは背を向け、露台へと歩を進めた。

 再び桜楼宮を見つめる。その視線にはただごとではない憎悪が込められている。

 背後に目をやると、女官が叩頭したまま動こうとしない。ミヤビは女官の側へ行くとしゃがみ込み、震える女官の背にそっと手を置き、先ほどまでとは打って変わった穏やかな口調で囁いた。

 「すまぬことをした。少し気が立っておったようじゃ。怪我はないかえ?」

 穏やかだが、どこか冷えた口調。女官は叩頭したまま小さく震えていた。それは、ミヤビの勘気に触れたためのものか、あるいは先ほどのやり取りを聞いていたがためのものなのであろうか。

 「何を震えておるのじゃ? 何か聞こえたのか。ならばそなたはわらわたちの戯言を耳にしたに過ぎぬ」

 透き通るような声音に女官の身体は一層震える。

 「とはいえ、このような戯言が他人に漏れればあらぬ疑いをかけられてしまうやも知れぬ。そなたにも嫌疑がかけられてはわらわも心苦しいゆえ、ゆめゆめ、他言せぬようにのう」

 穏やかな口調であるがゆえより一層恐ろしく、女官は声もなくただ震えることしかできない。

 「おや、指を切っておるな。わらわが割った花瓶の破片で切ったのか」

 すまぬことをした、と女官の手を取る。

 「そなたはわらわがもっとも信を置くもの。その身は大事にせよ。万一のことがあれば、そなたのご両親に顔向けできぬ。事故などに合わぬよう十分注意せねばのう。いつ何が起こるかわからぬゆえ、十分に、のう」

 ミヤビは立ち上がると露台に置かれた椅子に腰かけ、三度、桜楼宮の方角を見やった。

 フドウはそんなミヤビを横目に見ながら小さく息を吐いた。

 「それではわたしも失礼する」

 そういうと、フドウはミヤビの居室を後にした。窓からは日が差し込み、磨かれた廊下に格子の影を落としている。

 「それにしても――」

 日の差し込む廊下を歩きながら、フドウが小さく呟く。

 「取るに足らぬと思っていた仕事だが、その女、ぜひ一度手合わせしてみたいものだな」

 そう呟き、細い目の奥をわずかに光らせた。

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