炎に消えたもの(3)
次にアイラが目を開けたとき、初めに感じたのは土の匂いであった。どうやら大地に俯せているらしい。
断片的によみがえる記憶では、燃え盛る炎の中で焼け落ちてきた梁の下敷きになったはずであった。それがなぜ今こうして大地に身を横たえているのであろうか。
アイラはうすぼんやりとした頭で、あの出来事は全て夢だったのだ、と納得した。
思えば平和に毎日を暮らしていた自分に、あれほどの災厄が訪れることの方がおかしいのだ。なぜ今自分が大地に身を伏せているのかは分からないが、すくなくともあれら凄惨にすぎる出来事が現実であろうはずがない。
そう思い、身体を起こそうとしたとき、背に走った激痛がそれらの夢想を全て打ち砕いた。
今までに感じたことのない痛みに思わず声が漏れる。背中に負った大きな火傷のせいであった。俯せに寝ていたのはそのためであった。
「目が覚めたか」
聞き覚えのある男の声が耳に飛び込んできた。
誰かが側に腰を下ろしていた。
父に似た声に一瞬安堵を覚えたが、すぐにそれが父ではない別の人間のものだと理解した。父よりも幾分声が低く、響くような声。父の弟である叔父、ハキムのものであった。
「動かん方がいい。冷やしてはいるが、背中の火傷がひどい」
アイラの背には、水に濡れた衣がかけられている。
「お父さんとお母さんは? お姉ちゃんはどこ?」
矢継ぎ早に投げかけられる言葉にハキムは俯いたまま首を左右に振る。
「俺が駆けつけたときには、もう……。助けることができたのはお前だけだ」
ぎりぎりと噛み締める音が聞こえそうなほどに歯噛みする。
「ここはお山の中だ。ここなら安全だ」
ハキムは平素、護衛士として各地を流れて暮らしている。『二刀のハキム』といえばそこそこ名は通っているらしい。
そんなハキムも年に二度、姪であるソニアとアイラの誕生祭のときだけは必ず集落へと帰ってくる。このときもその誕生祭のため、兄であるハシムのもとへ顔を出す予定であった。日が山の向こうに沈み始めたころに集落へとたどり着いたが、そのときにはすでに惨劇が繰り広げられていた。
道を歩きながら集落の方角がやけに明るく見えることに妙な胸騒ぎを覚えた。息せき切って集落へとたどり着いた時には、すでにそこには死体と炎しかなく、さながら地獄のようであった。
酸鼻を極める状況の中、兄夫婦と二人の姪の安危を確かめるために駆けたが、ハキムを待っていたのは想像を超える惨状であった。すでにこと切れていた義姉は半裸の状態で地面に打ち捨てられ、焼け落ちていく家の中には兄が血だまりの中で息絶えていた。
せめてまだ幼い二人の姪だけでも、と思い家の中を探したが、そこにいたのは柱に縫い付けられたソニアの亡骸と、燃える梁に圧し潰されたアイラであった。
咄嗟に駆け寄り燃える梁をどかしてみると、どうやらアイラは息があるようであった。
ハキムはアイラを担ぎあげると無我夢中で駆け出し、山の中へと逃れた。その後、アイラが負った火傷を冷やすべく己の衣を裂いて清水に浸すとアイラの背に覆うように被せ冷やした。
「火傷の跡は残るだろうし、しばらくはひどく痛むだろうが――」
「……なんで助けたの?」
思いもよらないアイラの言葉にハキムは眉根を寄せる。
「なんであたしだけ助けたの! 夢じゃないなら……あれが現実なら、あたしは助かりたくなんてなかった!」
夢であってほしかった。夢でないのであれば、せめて死んでしまいたかった。そうすれば、あの世で家族に会えるのに、という。
「お父さん……お母さん……お姉ちゃん……」
呻くように泣きながら、アイラは地に額を擦り付けた。林立する木立の隙間から除く南側の空は、いまだ天を朱に染めていた。
スサは言葉もなく、遠くに揺れる炎を眺めながら静かに語るアイラの横顔を見つめている。想像を絶する過去に、かける言葉が見つからない、といった様子であった。アイラの重荷をともに背負う、と言ったが、こうして過去を語らせることが、あるいはその傷をより深く抉るような結果になるのではないか、という後悔があった。
「やっぱり、ちょっとばかり重たかったかね」
そんなスサの様子を見て取ったアイラが、気遣うような笑みを見せる。
スサは首を大きく左右に振る。
「もしあの日、誕生祭がなくなればいい、なんて思わなければ、もしかしたらあんなことは起こらなかったかもしれない」
今でもときおりそんなことを思う、とアイラは苦笑しながら暗月の空を見上げた。塗りこめたような一面の黒には満天の星がちらちらと輝いている。
「……それから、アイラはどうしたの?」
「当時八歳の子供にひとりで生きていく術はない。ハキムは悩んだ末、離れたところに住んでいるあたしの叔母――母の妹を頼ることにしたんだ」
アイラは『ヌイ』の中腹にある崖の上にいた。ハキムはそこにアイラの両親と姉を葬った。眼下に集落を一望できるこの場所を密かにハキムは気に入っていて、幼い頃はたびたび訪れていたという。もっとも、今眼下に広がる景色はただの焼け野原で、集落はどこにもない。
あの晩、ひとしきり恨み言を吐き出したあと、アイラは意識を失うように眠りに落ちていった。そこからおよそ七日の間、アイラは高熱を発し生死の境を彷徨うことになった。原因は火傷の傷口に入った雑菌が引き起こしたものであった。
ハキムは山中に暮らしていたせいもあり薬効のある草花に詳しい。例えばある花の根と蜜を混ぜて練ったものは殺菌効果があるし、また別の植物の葉は煎じて飲めば解熱の作用がある。それらを調合しては傷口に塗ったり飲ませたりした。
「ごめんなさい」
熱も引き意識を取り戻したアイラが最初に発した言葉はそれであった。看病に対して言っているのか、あるいは別の何かなのか、ハキムには言葉の意味が分からなかったが、
「せっかく助けてくれたのに、助けてほしくなかったなんて言って……」
と継がれた言葉にハキムは無言でアイラの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
ごめんなさいと言いながら、助けてくれてありがとう、と口にしないあたりに、生きながらえたアイラの複雑な心情が見え隠れする。ハキムもまたそんなアイラの心情を理解していたのであろう。無言で頭を撫でたのは、そのためであった。
叔母を頼ろうと言い出したのはハキムであった。
「お前が男ならともかく、女を俺が育てるわけにもいかんだろう」
ハキムと叔母は二、三度程度の面識しかない。どういった人なのかはあまりよく知らなかったが、記憶にある限りでは気さくで優しそうな人間、という印象を持っていた。
翌朝、両親と姉の墓に手を合わせ、アイラはハキムとともに住み慣れた土地を離れた。
道中アイラは一言も口を開かなかった。ハキムが歩けば歩き、休めば休む。食物も与えられれば口にするが、腹が減ったとはいわず、喉が渇いたともいわない。まるで人形のようであったが、ただ夜眠っている時だけは、うわごとのように両親と姉の名を、涙を流しながら繰り返していた。
哀れな、と思うハキムであったが、このときすでにアイラの中に狂気ともいえる感情が芽生えていたことに気付いていなかった。
それはある夜のことであった。眠っていると、何かが動く気配を感じる。
多くの護衛士がそうであるように、ハキムもまた眠りから素早く覚めることができる。
薄く目を開けると、月明かりのなかをなにやらもぞもぞと自分に向かってくるものがいるのである。
アイラであった。
何をしているのか。内心訝しく思いながら眠ったふりを続けていると、驚いたことにアイラはハキムのかたわらに置かれた二本の剣のうち一本を、そろりそろりと手を伸ばし、抱えあげたのである。
「何をするつもりだ?」
眠っていると思っていたハキムからの突然の問いに、アイラははっと顔を上げたが、次の瞬間には剣を抱えたまま素早く駆け出していた。
(馬鹿が!)
すぐさま身を起こしアイラの後を追う。
すぐに追いつきその手をつかんだが、ハキムは内心アイラの身ごなしの素早さに舌を巻いていた。
月明かりが照らす大地には、一面木の根が壁を這う蔦のように伸びている。アイラは先ほどこのなかを、まるで鹿が跳ねるように駆けたのである。鍛えられたものならばともかく、ただの子供にできることではない。
(大人しいだけの子供かと思っていたが、こいつは……)
アイラはハキムの手のなかでもがくように暴れている。
「剣を返せ。そいつで何をするつもりだったんだ」
分かりきった問いに、しかしアイラは答えない。ただ罠にかかった獣のように歯を剥き出しにして唸っている。
ハキムが声を荒らげる。
「どこへ行く! 誰を斬る!」
村を焼かれ、家族を殺された。いかなる神の思し召しであろうと理不尽に過ぎる仕打ちであろう。アイラのとった行動はハキムにとって痛すぎるほどに理解できる。胸の内に燻る狂気はハキムとて同じなのである。それでもなお、分別ある大人として、アイラをたしなめなければならない。
ハキムはなおも逃れようともがくアイラの手から剣を奪い返すと素早く足を払い、その小さな身体を宙に舞い上げた。
頭を打たぬよう襟元を引き上げる。
どすん、と背中から落ちたアイラは、苦しげに咳き込みながらもハキムを睨みあげた。
「お前ごときがいきがったところで、仇を討つどころかそこらで野たれ死ぬのが関の山だ」
道理であろう。
「大体相手がどこのどいつかも分からんというのに――」
「覚えてる」
ぽつりと呟く。
「お姉ちゃんを殺した奴の顔、あたしは覚えてる」
瞼に焼きついて離れない、という。
「……とにかく、馬鹿な真似はやめろ」
そういうと、ハキムは木の根方に腰を下ろし、再び目を閉じた。
叔母の住む町までは十日ほどの道のりであった。ヤクモ族の集落から南にある町で、アイラは家族で叔母の家を何度か訪れたことがある。
日暮れに辿り着き、戸を叩くと中から恰幅のいい女が現れた。
はじめ、ハキムを見て眉根を寄せたが、すぐに顔を思い出したらしく顔を綻ばせて家の中に招じ入れた。二、三度顔を合わせたきりであったが、どうやら記憶力のいい女であるらしい。
「まずは汗を流しておいで。それから食事にしよう」
アイラを脱衣場に促す。汗と垢、埃でまみれた衣を脱がすと、背には大きな火傷の痕があった。叔母――アミタはあまりの生々しさに思わず目を背けた。
突然の訪問に驚いていたアミタであったが、ヤクモ族の集落が炎に焼かれたということは風の噂で知っていた。が、詳しい事情は分からない。
「何があったんだい?」
不吉な予感が全身を震わせる。ハキムが一切の事情を話し始めると、人のよさそうな顔が蒼白になり、ついにその場に泣き崩れた。
アミタの人生において最も不幸な日と記憶されるのはおそらくこの日であろう。姉と、可愛い姪の一人が無残にも犯された上に殺されるなど、平和のうちに生きてきたアミタの日常の上にはありうべきことではない。
ハキムは兄夫婦とソニアを救うことができなかったことを詫びた。
「顔をあげとくれ。あんたのせいじゃないさ」
アミタは涙を拭うと気丈にも笑顔をつくってみせた。
「それで、今後はどうするんだい? うちに居候してもらってもいいし、近くに空いてる家があるかも知れない。なんなら口を利いてあげようか?」
人交わりが苦手なハキムの性格を見抜いた上での言葉であった。ハキムが感じた印象どおり、面倒見のいい世話好きな人物であるらしい。家族を失ったをアイラのことも心底から心配しているらしく、アイラのことを頼めば、二つ返事で承諾してくれるであろう。
実のところハキムはアイラを預けたあと、仇を求めて各地を彷徨うつもりであった。当て所のない旅になるのはわかっていたが、そうせずにはおれなかったのであろう。が、にわかに事情が変わった。アイラの心の内に己と同じ狂気を見てしまったのである。捨て置けばアイラはどういった行動に出るか。およそ平穏な暮らしは望むべくもないであろう。それならばいっそ武を教え、己の存在を一個の重石としてアイラのなかにあらしめるよりほか狂気を押さえ込む手段はないのではないか。
そのことを告げると、アミタは深い溜め息をついた。
「真面目で大人しい、気弱な子だと思っていたのに……」
アイラが秘めている激しさを、にわかには信じられない様子であった。
父であるハシムの血であろう、という。
「兄も、武人でこそなかったが、内実は激しい気性を秘めていました」
狩りのときなど、そういった激しさがときおり表に現れていた、という。
「だが、あなたがそれを望まないのであれば、アイラはあなたに託したい」
アミタは悩んだ。
女の武人など見たこともないし、なによりせっかく生き残ったのである。可愛い姪をできる限り血なまぐさい世界から遠ざけたいと考えるのは、叔母としては当然の心理といえるであろう。
深い葛藤のなかアミタはハキムの提案に諾と頷いた。
「それがあの子を守るのならば」というのがたどりついた結論であった。ハキムは人交わりの苦手な男であったが悪い男ではない。おさおさアイラを疎かにするようなことはすまい。
ハキムは目顔で頷いた。
「……少し、話しすぎたね」
自嘲気味に笑うとアイラは腰を挙げ、ぱたぱたと埃を払った。
「祭りも終わりそうだし、そろそろ戻ろうか」
見ると、すでに篝火の炎は小さくなり、天はもとの黒を取り戻している。あれほど響いていた男たちの笑い声もずいぶんと静かになっていた。
「さあ、戻ろう」
そういって歩き出したアイラの背にスサが声を投げた。
「――アイラ」
スサはアイラを呼び止めた。が、言葉が続かない。腹の中では百語が渦巻いていたが、どれを選べばいいのかが分からない。
つい、
「アイラが俺を助けてくれたとき、自分は罪人だって、言ってたよね? それはつまり……」
と、いわでもの言葉が零れた。
場の空気がわずかに固まる。
すぐ、
(しまった)
と思ったが、放った言葉は拾えない。
他意はなかった。
ただ、もしそうなのであるとすれば、スサはアイラに己を責めて欲しくなかった。ソニアや家族の死は、あくまで不幸な事故に過ぎない。
怒るだろうか、とスサは小さく喉を鳴らした。が、
「あたしの個人的な事情だって言っただろう」
アイラは常と変わらない微笑で答えた。
それが、スサにはなにやら寂しい。
「さあ、まだ先は長いんだ。戻って休もう」
二人はその場を後にした。




