炎に消えたもの(2)
注意:拙作「流浪の防人」をお読みいただきありがとうございます。本話から、キーワードタグに「R15」及び「残酷表現あり」を追加しました。理由等については活動報告に書かせていただいたとおりです。一部気分の悪い表現もあるかも知れませんのでご了承ください。
日が傾き始めた。まもなく日が暮れ、大篝火に火がいれられる。
アイラの母、ライラの拵えた料理が次から次へと大広場に運ばれていく。内臓を抜いた鶏の腹に香草やら香味野菜やらを詰めて焼いたもの。小麦粉をこねて牛の乳を混ぜて焼いたもの。様々な野菜を細かく切り、煮込んで汁にしたもの。ハシムが捕らえた大猪は豪快に丸焼きにされている。
馥郁たる香りが広場に満ちていく。三々五々広場に集まる男たちの中には、すでに酒を口にしているものも少なくない。誰もが月に一度の誕生祭を楽しもうと広場は陽気な空気で満ち満ちていた。が、主役であるはずのアイラがまだ大広場に姿を現していない。本来であればすでに組み木の正面に据えられた席に着座しているはずであった。
アイラは部屋にいた。
「ほらアイラ、いくよ」
ソニアがアイラの手を取り促す。決して手を引っ張って強引に引きずり出そうとはしない。
「いやだ。こんな白い衣、恥ずかしいよう」
アイラはべそをかきながら必死に訴える。
あれこれ悩んだ挙句ソニアが選んだ衣は、新雪のような、という言葉がぴったりと当てはまる純白の衣であった。真っ黒い髪に劣等感を感じているアイラは、純白の衣が黒い髪を余計に際立たせているようで恥ずかしいらしい。
「大丈夫。アイラの髪、とってもきれいよ。自信を持ちなさい」
ソニアはアイラの目を見つめながら懸命に励ます。
「嘘だ。あたしの髪がきれいなわけないよ」
誕生祭の日は常にむずかるアイラであったが、いつになく意固地な態度にソニアは戸惑いを隠せない。
「本当よ。あたしがアイラなら、みんなにその黒髪を自慢してるわ」
あるいは着飾った状態で人前に出るという恥ずかしさが常になく意固地にさせているのかもしれない。
アイラは今にも泣き出しそうな表情で首を左右に振っている。
そのとき、にわかに外が騒がしくなった。
「あ、そろそろ誕生祭が始まるわ。アイラ、早く行くわよ。今日の主役はあなたなんだから」
ソニアは声を弾ませてアイラの手を引く。
そのとき玄関で扉を開ける大きな音がした。
ソニアは父が主役であるアイラを迎えに来たのだろうと思ったが、それにしても常にない乱暴な開け方であった。
が、次の瞬間響いたのは、
「逃げろ! ソニア、ア――」
という異常な緊張感を伴った父の叫びであった。
こういった場面に遭遇した場合、よほどの心構え――危険な事態の出来が予想されることをあらかじめ言い含められているなど――がなされていなければ素早く逃げ出すことは極めて困難であろう。父の叫びに一体何事なのか、と部屋から顔を覗かせたソニアの行動は、ある意味では当たり前の心理だったといえる。
「お父さん?」
部屋の中から顔だけを玄関に向ける。
そこにいたのは皮をなめして作られた濃い茶色の鎧に身を包んだ見知らぬ男であった。
男の足元には父が俯せに倒れており、男の手に握られた剣からは赤いものがぽたぽたと滴っている。
「逃げろ……ソニア……」
床に伏せたまま顔だけをあげ、震える手を前に伸ばす。
父がそこまでを口にしたとき、男は手に持った剣を逆さに持ちかえると、父の背に深く突き立てた。
わずかに仰け反ったあと突っ伏した父は、二、三度小さく痙攣すると、そのまま動かなくなった。
男は動かなくなった父の背から剣を抜くと、ソニアへと目を向ける。
蒼白となったソニアと目が合う。
無表情であった男の顔は、ソニアを見るととたんに好色なものへと変貌した。
その顔に我を取り戻したソニアは素早く部屋の中へと身を戻すと部屋の戸を閉め鍵を掛けた。
男はゆっくりと歩を進める。
その表情は、追い詰めた獲物をいかにして弄るかを思案しているような嗜虐に満ちたものであった。
部屋に戻ったソニアはどうにか逃げなければと周囲を見回す。部屋には明かりを取るための天窓しかなく、到底届きそうにない。
向かいの部屋には外へと出られるだけの大きさの窓がある。父が叫んだときアイラの手を引いて向かいの部屋へと走り窓から屋外へと逃れていれば、その後の運命もあるいは違ったものになっていたのかもしれない。が、今ソニアとアイラがいる部屋は、たったいま施錠した戸口以外に出入り口が存在しない。そのことが全ての運命を決めた。
「お姉ちゃん?」
アイラが不安そうな表情でソニアにすがる。ソニアはすがりつくアイラを強く抱きしめた。
「大丈夫。お姉ちゃんがいるから、大丈夫」
恐怖に震える声を必死に抑えながら絞り出したその言葉は、あるいは自分に言い聞かせるためのものであったのかもしれない。
一体何が起きたのか、不気味な静寂が支配する部屋の中で耳をすませば、誕生祭の賑わいかと思われた屋外の喧騒は、阿鼻叫喚の叫びであった。二人が知る由もないその光景はもはやこの世のものと思えるものでは到底なく、言語にすることすら憚られるべきものであった。
そのとき、その不気味な静寂を破るように、閉ざされた戸に剣が突き立てられた。施錠されているとはいえ、男の力でもってすれば剣を用いずとも戸をこじ開けるのは容易であろうはずが、あえて剣を用いるあたり、相当に気が立っていたのか、あるいはあえて剣を振るうことで獲物に恐怖を与えようとしたのか。
戸板を突き破って剣先が覗く。
その光景にソニアは素早く身を起こし、アイラの手を引くと衣を入れた籠の中にアイラを放り込んだ。
「お姉ちゃ――」
訳が分からず籠から身を乗り出すアイラをソニアは抑え込み、上から衣をかける。
「アイラはここに隠れてなさい。絶対に、何があってもここを動いちゃだめよ。いいね」
鬼気迫るソニアの迫力に押され、アイラはただ黙ってうなずく。
アイラが首を引っ込めたことを確認したソニアはその上にさらに衣を幾重にも重ねる。衣が盛り上がった籠は、はた目に見れば、中に人間がいることを確認することはできない。
背後で戸の破られた音が聞こえた。
振り返った先には先ほど父の背に剣を突き立てた男が好色な笑みを浮かべて立っていた。
恐怖にごくりと喉を鳴らす。
足が震え、心臓は早鐘のように頭の中で鳴り響いていた。
(アイラを守らなきゃ――)
幸い父はアイラの名を呼ぶ前に倒れた。
部屋から顔を覗かせたのもソニアだけであったことを考えれば、男はアイラの存在には気づいていないはずである。
とにかく虎口を逃れ、時を置いてアイラを迎えに行くつもりであった。
手元にある装飾品を男に向かって投げつけ、男が怯んだ隙に男の脇を駆け抜ける。そうして向かいの部屋へと走り窓から屋外へと逃れる。
果たして上手くいくか。
(恐がっちゃだめ!)
ソニアは手に握られた首飾りを男の顔面に向かって投げつけ、同時に駆け出した。
男が飛んできた首飾りを剣で払った瞬間、ソニアは一気に脇を抜けようとした。が、所詮は子供の浅知恵であった。
男は脇を駆け抜けようとするソニアの腕を掴み組み敷くと、抵抗するソニアを床に倒し押さえつけた。そしてそのまま衣を引き裂くと、その小さな乳房の先端にある突起へと舌を這わせた。
ぬめぬめとした感触に触れ、悪寒が背筋を駆け抜ける。
「いや!」
決死の抵抗を試みるソニアであったが、両腕を押さえつける男の腕はびくともしない。必死の叫びとともに抵抗するソニアの姿が男の嗜虐心をさらに煽った。
男はひとしきりソニアの乳房を弄ると、腰布の中に手を入れ下着を引きちぎった。
次いで男が脚衣を下ろし己のいちもつを取り出そうとしたとき、ソニアの腕を押さえつけていた力がわずかに緩んだ。
ソニアは精いっぱいの力で右腕を引き抜くと、男の顔に爪をたて、力いっぱい引っかいた。
思いもよらぬ反撃に、男はぎゃっと叫び顔を抑えた。
男の腕から逃れたソニアは立ち上がり、部屋の戸口に向かって駆け出した。が、その足はすでに恐怖に竦んでいたのであろう。逃げようとする意思に反して空回り、戸口はまるで千里の彼方にあるかのように一向に近づく気配がなかった。
男は逃げようともがくソニアの腕をつかむと力任せに引き回し、柱に叩き付けた。そして次の瞬間、ソニアの首をつかみ持ち上げると、腰に差した剣を抜き放ちソニアの胸を一気に刺し貫いたのである。
「――――!」
あまりの衝撃に、アイラは咄嗟に衣服の積み上げられた籠から飛び出そうとしたが、男の剣によって柱に縫い付けられたソニアがアイラを目で制した。
(出てはだめ)
男はアイラの存在に気づいていない。じっとしてさえいれば助かるのである。
アイラは籠の中から柱に縫い付けられた姉の姿を見つめている。その目からはとめどなく涙が流れていく。
ソニアはアイラに向け、常と変わらない優しい笑みを投げていた。
男がソニアを犯す。
下腹部に走る鈍い痛みを、胸に張り付く焼けるような痛みがかき消す。
男の欲望に貫かれながら、ソニアは自身の胸を燃やしている炎が全身を焼いていくのを感じていた。
(神様……せめて……アイラだけは……お守りください……)
一筋の涙とその祈りを最後にソニアの命の灯はあっけなく消えた。
十三年の短い生涯であった。
男はなおも欲望を貪っている。
わずか八歳のアイラの目に、その光景はどのように映っていたのか。およそ言語に表すことができるようなものではなかったに相違ない。
禍福は糾える縄の如し、という。幸福と不幸はより合わせた縄のように交互にやってくるものだ、という意味であるが、どうやら幸不幸の大小の比率は体感として交互とは言い難いようである。
仮に幸不幸の大小の比率もより合わされた縄のようであるというのならば、わずか八歳に過ぎないアイラがこの日遭遇した不幸はどれほどの幸福と引き換えなのであろうか。
行為を終えた男は何事もなかったかのように部屋を後にした。やはりというべきか、アイラの存在にはまるで気づいていないようであった。
男が去り、部屋に静寂が訪れるころ、ようやくアイラは籠から抜け出した。
ふらふらとした足取りで柱に縫い付けられた姉へと近寄る。
口元、胸、そして腿の付け根から流れる血が爪先から滴り落ち、血だまりを作っている。アイラは一語も発することなく、血だまりの中に力なく崩れ落ちた。
涙は流れていない。
ただ眼前に広がっている光景をどう受け止めていいのか、そのことのみに思考は回転しているようであった。
一体何があったのであろうか。
今日、八度目の誕生祭を迎えたことが憂鬱で、どうにかしてなくならないものかと考えたことに対する結果なのであろうか。
なぜ?
なぜ?
なぜ?
答えのない疑問が泡のように浮かんでは消え、浮かんでは消える。
屋外ではなおも地獄の宴が続いていた。
すでに傾き始めていた日はその姿を半分以上隠し、部屋の中には濃い闇が溜まり始めている。
と、突然の炎が闇を払った。
誰かが火を放ったのか、あるいは襲われたどこかの家から出火したのか、いずれにせよ炎は勢いを増しながら集落を赤に染めていく。
炎がアイラの背後に迫るまで、それほど時間はかからなかった。
背後では炎に炙られた壁がばちばちと爆ぜている。その音はまもなく頭上にまで広がっていった。
アイラはなおも動かない。
柱に縫い付けられたまま落とされる光を失ったソニアの視線を、呆然と受け止めているのである。
どれほどの間、ソニアを見つめていたのか、すでに炎はアイラを取り囲み、その小さな身体をじりじりと焦がしている。とうに壁は崩れ、天井は焼け落ち、黒煙と熱気がアイラの周囲に渦巻いている。焼かれた建材がけたたましく爆ぜる音も、アイラの耳にはまるで届いていないようであった。
次の瞬間、大きな音とともに燃え上がった梁がアイラの頭上へと落ちてきた。
焼けた梁はアイラの背後に落ちるとそのままアイラに向かって倒れこみ、幼い身体を圧し潰した。
背を焼かれていながら、アイラはもがくことをしない。
わずか八歳のアイラにとってどうあがいたところで逃れようもないほどの重さであったことは確かであるが、それ以上に逃れようとする気力を失っていたのであろう。
常と変わらない日常を一瞬で壊され、目の前で最愛の姉を殺された上に欲望のままに汚されたのでは無理もないであろう。あるいは、すでに生きようとする意思を失っていたのかもしれない。
焼かれていく背の痛みをどこか遠くに感じながら、アイラはそっと目を閉じた。




