炎に消えたもの(1)
――二十一年前、シャガル王国北西部の村にアイラはいた。
シャガル王国が多数の民族からなる多民族国家であることは以前にふれたが、アイラはそのうちのひとつ、ヤクモ族に生まれた。
ヤクモ族はシャガル王国の数ある部族の中でも極めて少数の部族で、その集落は彼らが『ヌイ』と呼ぶ小さな山の中腹から裾野に向けて段々畑を広げたような形を形成している。山の頂上から集落を見下ろせば、八の字のようになっていることがわかる。民家はどれも木造の平屋建てで、民家と民家の間には少ないながら田や畑のようなものがある。また、家々の軒先には逆さまに吊るされている鳥や獣があるあたり、日常から狩猟を行っていることが窺える。
その段々になった八の字の中央辺りに、ぽっかりと口を開けたような大きな空間がある。段々に広がった集落の中、そこだけ民家も草木もなく、地肌が露わになっているのである。大きな広場のようであった。
その広場のさらに中央に、組み上げられた巨大な薪がある。今夕焚かれる篝火のために組み上げられたものであった。
ヤクモ族には誕生祭という祭事がある。
月の満ち欠けの一周三十日を一齢(一か月)とし、それを十二に分ける。各月に生まれた子供を、男子は満十五歳、女子は満十三歳になるまで集落全体でまとめて祝うのである。
余談ながら、この暦の数え方はヤクモ族だけの特徴ではなく、他部族やシャガル王国の公式の暦としても用いられているし、北方のノルテ王国やナワト国でも同様に用いられている。いつから用いられているのかは定かではないが、古くから用いられている暦であることは間違いなく、それが長い年月をかけ方々に広がっていったのであろう。
また一部の部族はこの暦を用いながら、さらに自分たち独自の暦をもっていたりする。なかには太陽が昇り、沈んで一日、それからまた昇るまでをさらに一日と数える部族もいる。平たくいえば、共通の暦に比べ日にちの進み方が倍ということになる。
ヤクモ族の集落は百人足らずの小さな集落で、子供の数もそれほど多くはない。この日、誕生祭で祝われる子供は、アイラ一人であった。
八歳になる。
アイラは毎年この祭りが嫌でしようがなかった。
祭りが始まればみな飲んだり食ったりして騒ぎながら、主役である子供のもとを訪れ祝いの言葉を述べにくる。
今のアイラからは想像もつかないが、この頃のアイラは人見知りの激しい内気な少女であった。家族以外のものにはほとんど笑顔を見せることもなく、常に五歳上の姉の陰に隠れ、その背後から世間を覗いているような子供であった。好奇心は人並みにあったが、それを表に出すことはできなかったようである。
シャガル王国は複数の部族からなる多民族国家であり、異邦の民であるシャガル王家に対し、民族自決の考えから極めて対立的な関係であったことはかつて述べた。そのため長い間内乱のような状態になっていたが、現在のシャガル王が英明な君主で、その争いも数年前に沈静化し、現在では落ち着きを取り戻していることも併せて述べた。が、この時期国内の情勢はにわかに緊張を強いる状況にあった。
シャガル王国の王都は国土のちょうど真ん中に位置する。この王都を中心に外側へ向かうほど、王家に対する反発は強い。ちょうど、水滴の起こした波紋が落下点から外側に向かって拡大しやがて消えていくのに、あるいは似ているかも知れない。
辺境の部族が周辺の諸勢力を併呑し、やがて一大反旗を翻そうと企んでいる、という噂が、王都ではまことしやかに噂されたりした。
ヤクモ族は中立の立場をとった。というより、そういった争いの舞台上から見れば、歯牙にもかからぬほどの――弱小の――少数部族であったため、争いの中心点から常に遠く、自然、中立という立場になった、というほうが正しいであろう。
「また戦があったらしい」
と言ったのは、父のハシムであった。
父はこの日行われる誕生祭のために、部族の若い男たちを連れて数日前から狩りに出かけていたが、今朝がた大量の獲物とともに帰ってきていた。
その父が帰ってくるなり母に対し東のほうで戦があったという。
「ヤクモ族は中立を守っているし、戦は山ふたつを越えたところだから、戦火はここまで及ばないだろうが、一応用心しておいた方がいいかも知れんな」
母の隣で話を聞いていたアイラは青い顔をして母の衣の裾を強く握った。
ハシムはアイラの存在に気づいていなかったのであろう。しまった、という苦い顔をした。
「大丈夫。お前たちは、父さんが必ず守ってやる」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でるとそういって笑った。
祭りは日が傾き始めたころから始まる。
一族の女は昼から総出で料理を作る。ヤクモ族は五十人に満たない少数民族ではあったが、それでも作る料理は量も品数も日常のそれとは比較にはならない。月に一度とはいえ、女たちにとっては重労働であった。
この日、料理の指揮をとったのはアイラの母であった。
祝われる子供がアイラ一人であるため、この月の誕生祭は、実質一族をあげてのアイラの誕生会といえるであろう。
アイラの家族は両親と姉、アイラの四人家族で会った。
勇敢で優れた狩人である父ハシムは毎年娘の誕生祭のある日には必ず大きな獲物を捕らえてくる。今年捕らえてきた獲物は巨大な猪であった。大人五人がかりでようやく持ち上げることができる大猪を、ハシムはひとりで仕留めたという。
「樹上から飛び降りて槍で心臓を一突きよ!」
「さすがは我らのハシムだ!」
「去年は熊、その前は大蛇だったか」
男たちはハシムの武勇伝を肴に酒を飲む。
穏やかで、陽だまりのように優しい母、ライラ。指折りの料理上手で集落の人間はいつもライラの料理を賞賛し舌鼓を打つ。
「今年もすごい料理だな」
「ライラの料理の腕をうちのカミさんにも見習ってほしいぜ」
「ハシムは果報者だな」
どこかやっかむような声も賞賛のひとつであろう。
そして優れた踊り子である五歳離れた姉、ソニア。
とりわけ、姉のソニアはアイラの自慢であった。
誕生祭の目玉は命の誕生を祝う舞である。五人の男たちが楽器を演奏し、その音に合わせ、舞い手である十人の少女たちが舞う。舞手は十三歳以上の――ヤクモ族の基準で大人ということになる――少女たちから選ばれる。姉のソニアは今年舞い手の中心『舞頭』に選ばれていた。大人になったばかりで舞い手に選ばれることはきわめて稀で、殊に『舞頭』としては史上最年少という大抜擢であった。
ソニアは部族の中でも飛びぬけた美人で、それでいてまるで嫌味なところがなく、人当たりもいい。他者に対し分け隔てなく接し、優しく、朗らかで、誰からも愛される存在であった。華やかで明るく、アイラの目にはまるで神話に登場する女神のように見えた。
「アイラ」
ソニアがアイラを手招きする。
アイラを椅子に座らせるとソニアは背後に回った。
「今夜の主役はあなたなんだから、ちゃんと綺麗にしておかないと」
櫛を手にアイラの髪をといていく。
「アイラ、髪ぼさぼさじゃない。ちゃんと毎日櫛をいれてる?」
くしけずるたび引っかかる髪を、ソニアは丁寧に解きほぐしていく。
「あたしの髪は、お姉ちゃんみたいにきれいじゃないから」
ソニアの髪は母の髪質の遺伝が濃いのか美しい亜麻色で、滑らかで柔らかい。対するアイラの髪は父の遺伝が濃いのか、沈むような黒であった。
「こんな髪、大嫌い」
アイラは一事が万事、こんな具合であった。姉と自分を引き比べ自身のいちいちを否定する、という癖がある。
姉のようになりたくて同じように伸ばした髪も、姉の美しい髪に比べなんと薄汚いことか、と溜息をつく。
「お姉ちゃんみたいな髪がよかった」
「あら、あたしはアイラの髪、すごくきれいだと思うわ」
徐々に櫛通りが滑らかになっていく。
「嘘。こんな黒いの、烏みたい」
「嘘じゃないわ。アイラの髪は太陽の下で光を反射して、夜空に光の川が流れてるみたいで黒曜石よりきれいだもの。それに、あたしは烏の羽の色ってとってもきれいだと思うわ」
だから毎日ちゃんと手入れをしなさい、と微笑んだ。
「これでよし」
とかし終えた髪を人撫でする。ついで宝飾品を収めた箱から取り出した髪飾りと耳飾りをアイラにつける。髪飾りは蒼玉(サファイア)耳飾りは紅玉(ルビー)であった。
「次は衣ね」
ちょっと待っていてと言い残し、ソニアは箪笥のある部屋へと向かう。しばらくして戻ってきたときには、大きな籠を抱えていた。
いそいそと衣の入った籠を探るその横顔は、どこか楽しげであった。
籠から衣を引っ張り出すと、アイラを立たせ、次から次へとあてがっていく。
鮮やかな藍色に染め抜いた衣や、燃えるような赤い衣、黒い衣は裾に金糸で刺繍が施されている。
こういったいわゆるハレの日に用いる衣は親から子、さらにその子へと受け継がれていくものらしく、ソニアがアイラにあてがっている衣の数々も、かつて母が着てきたものであった。毎年それらを仕立て直し、去年までは毎年ソニアも袖を通していた。
アイラに衣をあてがうソニアの目はきらきらとしていて、引っ込み思案の妹が年に一度だけ主役になるこの日を真実楽しみに、そして誇らしく思っているようであった。
「なんだかソニアの方が楽しんでるみたいだね」
スサがくつくつと笑う。
「そうさ。でもあたしは本当に嫌でね。毎年毎年、誕生祭が近づくたびに憂鬱になっていったもんさ」
「それで? アイラは結局どんな衣を着たの?」
スサは興味深げな視線をアイラに投げた。
「それが真っ白な、本当に純白の衣でね。丈が足首くらいまであって歩きにくくてしょうがなかったんだよ」
アイラが苦笑する。
「あたしの黒い髪がよく映えるようにって、そういってね。本当に、姉はあたしの黒髪が好きだったみたいだ」
その黒髪も、ろくに手入れをしてないせいか、今や油っ気がなくぼさぼさであった。相変わらず無造作に束ねてある。
「でも、あたしは姉のことが本当に大好きだった」
「仲が良かったんだね」
ほんのわずか前まで宮城でともに暮らしていた――といっても顔を合わせることはほとんどなかったが――兄弟たちを思い、「俺もそんな兄弟がほしかったな」と呟いた。
「平凡な毎日だったよ。まったく刺激のない毎日で、昨日と同じ今日、今日と同じ明日ってな具合でね。当時は内気ながらも空を見て広い世界を想像したりもしたけど、今から振り返れば本当に幸せだったと思う」
アイラは遠くで揺れる篝火に視線を向ける。男たちの笑い声が聞こえてくる。
「それから、何があったの」
わずかに重くなった空気をスサは敏感に感じ取った。
「あれは、日が傾き始めて、そろそろ祭りが始まろうってときだった」
アイラの声音がにわかに緊張感を伴う。
スサはごくりと小さく喉を鳴らした。




