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流浪の防人  作者: まいたけ
20/42

傷痕(2)

 ダンのもとを辞去したアイラとスサは宿をとるために通りを歩いていた。日はすでに沈み薄闇の中に月が浮かんでいる。

 二人はマラキでも最下層の宿に入った。

 帳場ちょうばの男は愛想というものをどこかに置き忘れてきたらしく、戸をくぐったアイラとスサをじろりと一瞥いちべつするだけで、声をかける様子もない。

 「二人だ。空いてるかい?」

 仕方なくアイラのほうから声をかけると、ぼそぼそと小さな声で答える。

 「大人は銅貨二枚、ガキは一枚だ」

 アイラが財布から取り出した銅貨三枚を卓の上に積むと、男は左手に伸びる薄暗い廊下を顎先で示し、

 「奥の部屋だ」

 とだけ言った。どこまでも無愛想な男であった。

 暗く狭い廊下は日当たりが悪いのかじめじめとしていてかび臭く、板敷きの床は一歩踏むたびにぎしぎしと音をたてる。

 部屋の戸を開けると中は個室であったが、窓も卓も椅子もない。九畳ほどの一間の中央に衝立が一枚あり、左手には寝台がふたつあるきりであった。寝台には布団が敷かれている。

 寝台は固く、布団は薄い。

 辛うじて宿としての体裁ていさいを整えてはいたが、この程度の設備で疲れを癒せる旅人がどの程度いるのか、はなはだ疑問である。

 が、いかんせん金がない。財布の中にはわずかな銅貨があるだけで、それも明日の朝には口入屋であるダンへの、仲介手数料として消える。

 (雨風をしのげるだけましってとこか)

 あまりにも殺風景な部屋に苦笑を漏らしつつ、わずかな荷を降ろすと、アイラは湯をもらいに部屋を出た。

 ナワト国にある最下層の宿は、通常いずれも湯殿を持たない。風呂に入りたければ湯屋へ行くか、あるいは宿で湯をもらい、部屋でたらいに湯を張り行水するかのどちらかである。また、湯殿を備えた中程度の宿でも大概は一度に入れる人数はせいぜい四、五人程度のものがひとつあるだけで、大きな湯殿や、あるいは湯殿付きの個室を備えた宿はせいぜい貴族が利用する程度で、市井の民にはよほど縁遠いものであった。

 「さあ、先に入りな」

 部屋に戻ったアイラは大きなたらいに湯を張りスサを促す。

 スサは戸惑ったような表情でアイラを見返した。

 「どうした?」

 裸を見られるのが恥ずかしいのなら、衝立があるから平気だ、とアイラが笑うと、スサはそうではない、と首を振った。

 「俺が先に入ったら湯が汚れてしまう」

 だからアイラに先に入って欲しい、という。

 「それはあたしが先に入っても同じだろう」

 「俺は汚れた湯でも平気だから」

 どうやらスサはスサなりに、アイラを気遣っているらしい。

 アイラはスサの額を軽く小突くと、

 「子供が変な遠慮なんてするんじゃないよ。いいからさっさと入っちまいな」

 と笑った。

 スサはついたての向こうで衣服を脱ぐと、湯を張ったたらいに身を浸す。

 たらいに張られた湯は腰を下ろしてもへその下ほどまでしかなかったが、スサはさも心地よさそうに、ひとつ熱い息を吐いた。

 麻の布を湯に浸し身体をぬぐうと、たらいの中の湯はたちまち黒くなった。

 これでは後からアイラが湯を使うことができない。

 スサがそのことをアイラに告げると、アイラは事も無げに、「構わない」と言った。

 「あたしはこっちの桶の水で身体を拭うから、あんたは気にしないで身体を流しなさい」

 でも、と言いさして衝立の向こう側を覗いたとき、アイラはすでに胴衣を脱いで上半身を拭っている最中であった。

 衝立越しに見える露になったアイラの背に、スサはどきりとするものを感じた。

 女の半裸に性的興奮を覚えたのではない。

 露になったアイラの背に、大きな火傷の痕を見つけたのである。

 背や腰にある大小様々な傷の中で、その火傷の痕は最も大きく、しかしながら、もっとも古いもののようであった。

 アイラはすでにスサの視線を背後に感じている。

 「こら、出歯亀するんじゃないよ」

 悪戯っぽく注意されスサはそっと首を引っ込めたが、出歯亀という言葉の意味は理解していないようであった。

 使い終えた湯を始末し、軽めの夕食――といってもオルサが餞別せんべつにくれた食料だが――を済ませると、明日に備えて寝ることにした。

 スサは寝台に布かれた布団にもぐり込み、目を閉じる。

 「アイラ」

 「ん?」

 「この布団より、このあいだの藁の方が気持ちいいね」

 違いない、とアイラは声をあげて笑った。



 翌朝、ダンが指定した時刻に門前へと向かうと、それぞれに荷を載せた馬車が七台集まっていた。いずれの荷台にもほろがかけられている。馬車の周りには隊商の男たちに混じって明らかに堅気ではない男たちが思い思いに出発までのときを過ごしている。

 (五人か)

 知った顔の中にひとつ、見覚えのない顔がある。風抜き山の吊り橋の上で対峙した男に負けぬほどの大男であった。

 護衛士という商売は存外世間が狭い。大抵の隊商が護衛士を複数人雇うためであろう。自然、顔見知りが増える。そのためか、見知らぬ顔には敏感になる。

 (駆け出しだろうな)

 駆け出しの護衛士というものは気負いが過ぎるか、あるいはその逆か、いずれにせよおおよそ雰囲気で分かるものであるらしい。

 アイラが駆け出しと見立てた男は、舐められまいとしているのか、得物である大斧をこれ見よがしに肩に担ぎ、まるで威圧するように周囲をじろじろと睨みつけている。

 「ああ、来たか」

 ダンが軽く手を上げて呼ぶ。かたわらに、四十がらみの男が立っていた。

 男は隊商の頭であった。

 ダンが男にアイラを紹介する。

 「まさか、こちらが……ダンさんがおっしゃってた?」

 男はアイラを見るなり驚いたような、あるいは困惑したような表情をした。

 男は口入屋のダンから是非もう一人隊商に加えてもらいたい護衛士がいる、と聞かされて、来るのは当然のように周りにいる他の護衛士たちと同様に男だと思っていたのであろう。それがどうであろう。やってきたのは女で、しかも子供を連れているのである。当然の困惑であった。

 「腕は保証しますよ。報酬も付け値で構わない、と言っています」

 ダンの言葉に、はあ、と男が不得要領ふとくようりょうな返事をしていると、先ほどの大男が横から口を挟んだ。

 「おいおい、まさかもう一人の護衛士ってこの女のことか?」

 野太い粗野な声が響く。

 「女の護衛士なんて聞いたことねえぞ」

 男の声に、他の護衛士も集まる。

 「何か問題でもあるのかい?」

 アイラはタジムの嘲笑ちょうしょうを涼しい顔で聞いている。

 「おおありだ。護衛士は男の仕事。女は家で編み物でもしてればいいんだよ」

 一面正論と言えるであろう。

 護衛士は仕事の性質上どうあっても実戦における戦闘力が要求される。二本の剣をたずさえているアイラであるが、常に剣を手にしていられるとは限らない。素手になった際、筋力に劣る女では圧倒的に不利であると言わざるを得ない。男がいうのはつまりそういうことであろう。

 そんな男の発言をアイラはどこ吹く風といった顔でいっこうに気にする素振りを見せなかったが、周囲の男たちはどこか呆れるような顔をしていた。

 「おまけにガキまで連れてるじゃねえか。護衛は遊びじゃねえんだぞ」

 と、ダンが軽く溜め息をつく。

 「アイラさんなら子供を連れていても仕事はこなす。このダンの仲介に不満がおありかい?」

 ダンの言葉に男はほんのわずか、ばつの悪そうな表情を見せる。

 「別に不満があるとかじゃあないが……あんたも口入屋なら護衛の危険性は分かってるだろう。女なんぞに――」

 「それほど言うならならタジムさん、ご自分で確かめられたらどうかね?」

 唐突なダンの申し出にタジムと呼ばれた男は意外な、といった表情でダンを見返す。

 「冗談だろ? そんな女とまともに闘えってのか?」

 「もしアイラさんに勝つことができたら、今日の手数料は全額お前さんにやろう。うちで仲介する仕事も今後手数料はいらない。お前さんの売り込みもしてやろう。どうだい?」

 ダンの言葉にタジムは不敵な笑みを浮かべた。

 アイラは困惑の表情を浮かべダンを見る。目が合うと、ダンは小さく頷いた。

 「どうした、怖気おじけづいたか?」

 見るからに重そうな大斧を壁に持たせかけ、タジムは拳を鳴らす。アイラはひとつ息を吐くと二本の剣を腰帯から抜き取りスサに手渡す。

 狼狽したのはスサであった。

 アイラとタジムでは体格があまりにも違いすぎる。七尺(約212センチメートル)はあろうかという身長に加え、体重はおよそ百十貫(約112キログラム)はあろう。どうひいき目に見ても五尺六寸(約170センチメートル)を少し出た程度であるアイラと並べばまるで大人と子供であった。大怪我は避けられない。

 そう思った次の瞬間、タジムがアイラに襲いかかった。

 右の拳をアイラの顔面に向けて放つ。――アイラは左に身を運びつつ打ち出された拳に左手を添えて受け流す。タジムの身体が泳いだ瞬間、足を引っ掛けてタジムを転ばした。

 足を引っ掛けられたタジムは打ち出した拳の勢いそのままに地面へと転がる。

 眺めていた男たちが声をあげて笑った。

 「へへ、こいつはいけねえ。女だからってちょっと手加減しちまったぜ」

 アイラはタジムに対しわずかに右足を引きつつも、ほとんど正対するように構えている。

 タジムはなおも突っ込むと、左右の拳を間断なく、ときには蹴りを織り交ぜ振り回す。が、アイラはそれらを軽々とさばき、ことごとく空を切らせた。

 音が聞こえそうなほどに歯噛みしたタジムはしかし次の瞬間、あるものに気付き内心ほくそ笑んだ。

 無造作に束ねたアイラの髪が、軽やかに身をかわすたびに踊っているのである。

 (しょせん女だな)

 髪をつかんで引きずり倒し思い切り拳を打ち込めば、なるほどしょせんは女である、どこに入ろうとも一撃で終わるであろう。

 タジムは右の拳を振るうとかわしたアイラの髪をつかもうと左手を伸ばした――刹那、ぼきり、と骨の折れる音が響いた。

 髪をつかもうと伸ばしたタジムの左手、アイラはその中指を逆につかむと一瞬の間も置かずにへし折ったのである。

 「――――!」

 髪をつかもうと突き出した手、そこへ走った激痛にタジムが顔を歪めた瞬間、アイラはタジムの背後に回り込むと左腕をとり背中側へとねじり上げる。そうして素早く足を払うと、全体重を乗せうつ伏せに組み敷き肩の関節を外した。

 タジムにすれば何が起きたのか理解できなかったであろう。髪をつかみ引きずり倒すはずが、指に激痛が走った次の瞬間には己が組み敷かれているのである。

 が、なおもアイラは攻撃の手を緩めなかった。タジムの背中に膝を立てるやそのまま背中に拳を一撃打ち込んだのである。

 タジムが大きくのけ反る。

 アイラはその背中から離れると、タジムの間合いの外まで飛び退り構えた。

 タジムは身体を起こすとぎりぎりと歯噛みしアイラを睨み据えた。

 (頑丈なやつだ)

 指を折り、肩を外し、背中に一撃を食らってなおタジムは闘いを止めようとしない。

 本来であれば激痛で闘うどころではないはずが、怒りで痛みを抑え込んでいるようであった。

 激しい屈辱が全身に滲み出ている。

 「この……くそ女があ!」

 タジムは壁にたてかけてあった己の大斧を取り上げるとアイラの脳天に向けて力任せに振り下ろした。

 アイラはッッと間合いを詰めるとタジムの懐に飛び込む。

 振り下ろされた大斧はアイラの背後で大地を叩き土埃を巻き上げた。

 次の瞬間、アイラの拳がタジムのみぞおちに深く突き刺さる。

 タジムの身体がくの字に曲がる。

 アイラはふわりと宙に浮くと背中を向けるようにくるりと回り、タジムの顎に蹴りを見舞った。

 口から胃液をまき散らしながら、タジムはその場にくずおれた。

 ピクリとも動かない。

 アイラは構えたまま、タジムの間合いの外ぎりぎりを、大きく弧を描くように一周する。

 不意打ちを警戒するように慎重に背後から近づく。

 膝で背を抑えて動きを封じ、タジムの瞼をめくる。

 意識の有無は眼球運動を確認することで分かる。

 完全に気絶しているらしく、タジムはやはり動かなかった。

 アイラは立ち上がり構えを解く。

 アイラが構えを解くと、その全身を包んでいた殺気もまた同じように消え、場には静寂だけが残った。

 「護衛士に最も必要な能力とは何か、分かりますか?」

 ダンは隣で呆気に取られている隊商の頭に唐突な質問を投げた。

 「もちろん強いに越したことはありません。護衛士と闘争はある意味切っては考えられません。しかしそれよりももっと大事な能力があるんです」

 隊商の頭は首を振る。

 「危険を避ける能力です」

 危険を避けられれば戦う必要すらない、と言う。もっともであろう。

 「そもそも護衛士は読んで字の如く、護衛がその目的で、避けられる戦いは避けるべきなんです。タジムはまだ駆け出しで、そこが分かっていない。分からないまま護衛士として雇われれば、いずれ大きな失敗を犯し、護衛士としては立ち行かなくなる」

 生きて帰れるならまだいい。護衛の失敗は大抵の場合死につながる。そうなる前に未熟な護衛士には灸を据えるのも口入屋の仕事なのだという。

 「その点アイラさんは一流の護衛士だ。常に危険に目を配り、そしていざ闘いになれば腕も一流。決して手を抜かず、油断しない」

 アイラはどこかおもはゆい表情で聞いていた。

 「それにしても――」

 ダンは大きく溜め息をついた。

 「タジムは武人としての腕はともかく護衛士としてやっていくのは難しいかもしれないな」

 いまだ気を失ったまま突っ伏しているタジムに目をやる。

 「虎と猫の区別もつかないようではねえ」

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