傷痕(1)
アイラとスサはシーナンの町から南西およそ三里(約11キロメートル)のところを歩いている。二人の背には、オルサが餞別にとくれた食料や毛皮が入った小さな荷が負われている。
都を出たとき、シャガル王国に行くために都の西にあるタルクの町からさらに西へ向かい、風抜き山を越えて国境の町からシャガル王国へと入る予定であったが、アイラは進路を変えることにした。
スサの話を聞いた限り、風抜き山で遭遇した男たちはただの暴漢であるとは考えにくい。もし帝の手のものであるとすれば、恐らくタルクから風抜き山を経由し西へ向かおうとしたことは見抜かれていると考えるべきであろう。
幸い、風抜き山で追い詰められた際、やむなく吊り橋から身を投げて以降、刺客はこちらの消息を掴めないでいるようであった。オルサいわく、シーナンの町にもそれらしい人影――いわゆるよそ者は見られなかったらしい。
アイラとスサは南西へ向かって歩を進めている。ハクバ山脈と呼ばれる長大なる連峰を迂回するためであった。
ハクバ山脈は都の北から南西へと連なる大きな山脈で、地図上で見れば、風抜き山はハクバ山脈のうちの一山であることが分かる。
ハクバ山脈の南西端からさらに南西に、マラキという大きな町がある。そこからシャガル王国へと向かう隊商を探し、護衛士としてシャガル王国に入る、というのがアイラの狙いであった。
利点は二つある。
一つ目は、当然のことながら護衛士としての仕事をすることになるため、護衛料というものが手に入る。風抜き山で川に沈めた荷を買うために、手持ちの金のほとんどを使ってしまったために財布の中身がなんとも心許ない。
二つ目は、大きな隊商であれば雇う護衛士の数も増える。自然、周囲を警戒する数も増えるため、刺客も容易には仕掛けることができなくなる。
「マラキまでは五日ほどかかる。ちょっとしんどいけど、頑張るんだよ」
「うん、分かった」
スサは力強く頷くと、踏みしめるように歩を進めていった。
マラキまでの道中は一日に七里(約30キロメートル)を超える距離を歩くという過酷なものになった。日が昇り始めるころから歩き始め、日が沈む頃には眠る。スサは相変わらず一言の文句も漏らさなかったが、毎日夕食を終えると泥のように眠った。山越えに比べ道ははるかに平板であったが、ほとんど一日を歩き詰めるため、疲労はこちらのほうがやや濃いようであった。
夜は大抵の場合木陰や岩場の影で火を焚いて野宿をしたが、四日目の夜だけは通りかかった集落に住む農家の老夫婦から、納屋を借りた。老夫婦はしきりに部屋を勧めたが、アイラが固辞した。
納屋は四畳ほどの広さで、壁際には鋤や鍬などの農機具が立てかけられ、奥には牛の餌にするためのものであろうか、藁がうずたかく積まれている。
「これに寝るのか?」
藁を崩して寝床を整えようとするアイラに対し、スサは目を丸くする。
「そうさ。温かいし、地べたに寝っころがるよりはましだろ」
アイラに誘われ藁の中にもぐり込む。
たっぷりの藁で整えられた寝床は思っていたよりも柔らかく、確かに固い地面で眠るよりはましなようであったが、藁の先が頬や顎をくすぐるのか、もぞもぞと落ち着かない様子であった。
「とにかく眠っちまいな。そうすれば気にならなくなるよ」
そう言うとアイラは目を瞑り、すっと眠りに落ちていった。
アイラは元々の体質と訓練のおかげで、眠るときは一瞬で眠りに落ちる。それでいて常に頭の芯のような部分だけは起きていて、覚めるときはそれこそ泡が弾けるように目覚めることができる。
スサは頬をくすぐる藁の先端を懸命に無視し、固く目を閉じた。慣れてくると存外心地よく、また、昼間の疲れがあるのであろう、これまでと同じようにあっという間に眠ってしまった。
翌朝、納屋を貸してくれた老夫婦は朝食を振舞ってくれた上に、二人分の握り飯まで用意してくれた。
宮城を出て以来、見るもの、触るものの全てに新鮮な感動を感じているスサであったが、とりわけ宮城では触れることのなかった、こういった人々の生の優しさというものは、宮城でそれこそ掌中の玉のように育てられてきたスサにとっては新鮮なものであったに相違ない。
二人がマラキに到着したのはオルサのもとを発ってから五日目の昼、寅の下刻(午後2時)のことである。
マラキの町はナワト国では都に次ぐ第二の都市といってよく、商いや文物の交流という面ではあるいは都を凌ぐかも知れない。
もともと都は帝の膝元ということもあり、民の間での気風として、他国の文化や珍奇な文物を受け入れにくい、ある種の固陋ともいえる癖のようなものがある。それに比べると、マラキの民には都ほど垢抜けた雰囲気はなかったが、新しいものを積極的に取り入れる好奇心のようなものがふんだんにあった。そのせいか、旅人や行商人の出入りも都に比べ激しく、ときには複数の隊商が同道し、一大隊商が形成されることもあった。
「すごい。都より人がたくさんいる」
スサは門を通り抜けた後、眼前に広がる光景に感嘆の声をあげた。
都よりも幾分雑然とした通りには旅籠や商店が立ち並び、それだけでは飽き足らず、右にも左にも露店が展開され、筵を広げては見たこともないようなものを並べて大声で客を呼び込んでいる。
「少し見て回るかい?」
アイラが言うと、スサはその澄んだ碧い目をより一層輝かせ、笑顔とともに大きく頷いた。
通りを歩いてみると実に様々な店や出し物が並んでいた。西側の国の特産品を売る商人の隣には、北方の名物を売る店が出ていたり、かと思えば南の国で人気の奇術を披露するものや、一体どこで捕まえてきたのであろうか、白蛇や尾が二股にわかれた狐など、変わった生き物を見せているものもいる。諸国を旅しているアイラにすれば、いずれもどこかで見たことがありさほどに珍しいものではなかったが、スサには全てが目新しく、飽きることなくそれらを眺めている。放っておけば一日でも二日でも眺めていそうな勢いであった。
「スサ、ほれ行くよ」
アイラが笑いながらスサをたしなめる。
物見のためにマラキを訪れたのではない。シャガル王国へと向かう護衛の口を求めて来たのである。何よりも向かうべきは口入屋であった。
スサの手を引きながら、口入屋へと向かう。
(子供を連れている、となると足下を見られちまうだろうね)
当然であろう。
何もできない子供など、護衛対象、あるいは他の護衛士からすれば、足手まとい以外の何者でもない。双方まかり間違えれば命を落とすこともあり得るのである。余計な荷物を好んで背負いたいものなどあろうはずもない。
(なあに、いざとなったらただ同然でもかまいやしないさ)
ともかくも目的は金銭ではなく、でき得る限り安全にナワト国を離れることである。そのためであれば駆け出しの護衛士以下の賃金であろうと仕様がない、と密かに腹をくくった。
とはいえ、実のところ当てがないわけでもなかった。
マラキの口入屋の主人はアイラと顔見知りで、アイラの腕を高く評価してくれているのである。であれば、あるいは依頼主に多少の便宜を図ってくれるのではないか、という淡い期待もあった。
大通りを進み細い裏通りへと入る。大通りのような賑やかさはなかったが、裏通りにもいくつもの店が軒を並べている。それらはどうやらこの地域の文物を取り扱う店らしく、大通りの筵に並べられていた商品に比べ、どこか見覚えのあるものばかりであった。
道なりにしばらく歩くと、四つ辻の角に建つ一家の店へと入った。
戸をくぐると中は意外に広い。がらんとした土間があり、土間には椅子二つと卓で一揃えになったものが三つある。土間の奥には座敷があり、その座敷の上に据えられた机の後ろに老人が一人座していて、俯いたままなにやら帳簿のようなものと睨みあっている。そのまわりには六人の男たちがいる。アイラが戸をくぐるとにわかに視線が集中し、しかしすぐに散った。
どの男もおよそ市井の民、といった風体ではない。腰に剣を帯びていたり、かたわらに槍や斧を置いている。見るからに腕っぷしの強そうな屈強な男たちで、みなおもいおもいに時間を過ごしている。柱にもたれ目を閉じる者、談笑する者、力比べをする者、男たちはみな好みの依頼が来るのを待っているのであろう。
アイラは男たちを一瞥すると、座敷に座る老人へと歩み寄っていった。
「お久しぶりです、ダンさん」
アイラが声をかけると、ダンと呼ばれた老人は、顔を上げ、声の主をじろりとねめつけた。
やがてにわかに相好を崩すと、
「おお、アイラさんじゃないか。ずいぶんと久しぶりだねえ」
と破顔した。
「おや? その小さいのはまさかお前さんの子供かい?」
ダンはアイラの背後に隠れるようにして立つスサに目をやると、本気とも冗談ともつかぬ口調で言った。
「まさか。あたしはまだ独身ですよ。それに男だっていやしない」
苦笑するアイラに対しとぼけたような表情をしてみせる。どうにも人を食ったような男らしいが、不思議と嫌味を感じさせない。
「そうだったかね。それで、今日はどういった用件だね?」
「シャガル王国まで行く隊商を探しているんですが、ダンさんのところに依頼が来てませんか?」
「あぁ、何件か来てるよ。出立の予定は?」
できるだけ早く、という。
「条件は?」
「できれば大きな隊商が望ましいんです。報酬は付け値で構いません」
付け値とは、売り手が買い手の言う値段で商品を売ることをいう。この場合、売り手はアイラ、買い手は隊商、商品は護衛を指す。
護衛士が護衛対象者の付け値で仕事を引き受けることなど通常あり得ない。護衛仕事は命がけである。それを付け値で引き受けるなど、いわば己の命を安売りしているに等しい。
「何か訳ありなのかね?」
長年口入屋として多くの護衛士を見てきたダンであったが、アイラは過去に見てきた護衛士の中でも間違いなく五指に入る護衛士であろうと思っている。それだけに、付け値で、などというアイラの言葉を訝しむように眉根を寄せ、背後に控えるスサに目をやった。
「実は、少し込み入った事情があってこの子を連れて行きたいんです。なんとかなりませんか?」
ダンは困ったような表情で頭を掻くと、ひとつ息を吐いた。
「しょうがないな。お前さんの護衛なら、子供を連れていてもそこらの男どもより安全だろう」
明朝未の上刻(午前六時)に、門前に来いという。
「依頼主に引き合わせてやる」
苦い笑顔を見せる。「ただし、むこうさんがいいというかは分からんぞ」
「ありがとうございます」
アイラは頭を下げるとその場を辞去した。




