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流浪の防人  作者: まいたけ
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決意と覚悟(2)

 深更しんこう、静まり返った部屋の中で、サクヤとスサが向かい合って座っている。スサの碧い瞳が小さく揺れて見えるのは、蝋燭ろうそくに灯された炎の揺らめきのせいばかりではないであろう。

 「母上……今、なんと?」

 その声もまた、わずかに震えている。

 「宮城を出なさいと、そう言うたのです」

 眠っていたところを呼び起こされ母から投げつけれたその言葉は、青天の霹靂へきれきなどという生易しいものではなかったであろう。

 バラムに対し投げた問いの答えは、あれらはあくまで事故でしかなく、帝にとってスサは大切な息子なのである。その言を信じるならば、スサを宮城きゅうじょうから出す必要はないはずであった。

 が、サクヤはその問いに対しほんのわずか、瞬きよりも短い一瞬見せたバラムの動揺に、言いようのない不安を感じた。そして同時に、神泉から引き上げられた、スサの青白い顔を思い出し、そう遠くないうちに、最悪の結末を迎えるであろうことを確信したのである。

 スサの狼狽も一様ではなかった。

 「なぜ……ですか?」

 不安に揺れる表情で問う。母の目の前に端座し、膝の上に置かれた拳には不安を表すように無用の力がこもっている。

 全てを話すべきか、サクヤはわずかに迷ったような表情を見せたが、目の前にいる泣き出しそうな顔をした我が子が――なぜ? となったときの頑固さを誰よりもよく知っていた。

 どれほどの不安を感じていようと、要領を得ない答えには容易に納得することがない。

 全てを話した。自身が帝に対し感じる疑問さえ、包み隠すことなく話した。

 話を聞くうちに、スサの顔がみるみる青くなっていく。

 「スサ、帝を恨んではいけません。帝は父である前に、このナワトという国の要なのです。帝の背には何百、何千という民の命が乗っている。情に寄って政道を過てば、それら全てのものが不幸になってしまうのです」

 生きるためには宮城を出るしかない、という。

 スサは反問しようとした。が、サクヤの目には有無をいわせぬものがあった。である以上、スサとしてはサクヤの言葉に従うより他なかった。

 「これへ」

 サクヤが声をかけると音もなくふすまが開いた。その向こうに、一人の老者が深く叩頭こうとうしている。

 アイラと出会った小屋で死んだ老者――トルグであった。

 「このものが共をします」

 信頼に足るものだという。

 トルグは叩頭したままスサの前までにじり寄ると、どこで用意したのか、平民の子供が着る衣を取り出し、スサの前に置いた。

 ただの言葉としてしか捉えることができなかった宮城を出る、ということが、にわかに現実味を帯びてきたのであろう。スサの顔面はますます蒼白になり震えだした。

 「皇子、お早く」

 トルグがスサに、衣を着替えるように促すが、スサは現実を拒絶するように俯いたまま、目の前に置かれた衣から目を逸らしていた。

 「スサ、母のいう事がきけないのですか?」

 「母上が守ってはくださらないのですか?」

 精一杯の抵抗であった。

 サクヤは首を左右に振る。

 「残念ですが、母にできることは何もありません」

 事実であろう。

 帝がスサを殺すと決めたであろう以上――サクヤはそう確信している――宮城内のどこにも安全な場所などないのである。たとえサクヤが常に側に寄り添って守ろうと、いずれ帝は己の妻ごと亡きものにするに違いない。恐ろしいことではあるが、国の存続を第一に考える帝という存在にとっての政道とは、極まればそういうことであるのかも知れない。

 冷たく突き放すようなその言葉に、スサは俯いたまま、せきを切ったように泣き出してしまった。

 ぽろぽろと零れる大粒の涙が手の甲を濡らしていく。

 「母上は……私のことが嫌いになってしまわれたのですか?」

 息も絶え絶え懸命に声を搾り出す。

 「私はもう……母上の子供では……いられないのですか?」

 スサの隣で叩頭しているトルグの肩が小さく震えている。

 が、サクヤは答えない。

 わずかに眉根を寄せて立ち上がると、後のことをトルグに任せ、ふすまの向こうへと消えていった。

 四半刻(約30分)ほどして、再び現れたサクヤの前には粗末な衣をまとったスサがいた。着慣れた絹の衣と違い、平民の衣はどこがごわごわと固く着心地が悪いのか、襟元を触ったり、腹の辺りを撫でたりと絶えず落ち着かない様子であった。

 スサの目は真っ赤になり、まだ濡れたままであった。

 覚悟を決めた、というのではなく、ただそうするより他なかったということが、その表情からも窺い知ることができる。

 俯いたままサクヤの顔を見ることができない。

 先ほど立ち去る前に一瞬だけ見せたサクヤの不快げな表情が、目に焼き付いて離れないのである。

 「スサ」

 常と変わらないサクヤの声が頭上から降ってくる。

 「そなたは今後、宮城に戻ることはまかりなりません」

 民として暮らしていけ、という。

 「今生の別れです」

 サクヤは皇家の紋章が入った翠玉すいぎょくの首飾りをそっとスサの首にかけるとその場にしゃがみ込み、ふわりと包み込むようにスサを抱きしめた。

 「どうかつつがなく……」

 そうして立ち上がるとすっと背を向け、振り返ることなく去っていく。

 「いやじゃ……いやじゃ! 母上!」

 泣き叫ぶスサの声を背に受けたまま、サクヤは暗闇の向こうへと消えていった。



 気がつけばすでに日が暮れ始め、薄暗い部屋の中で小さくなった囲炉裏の炎だけが燃えていた。控えめな明かりが、部屋の壁に二人の影をくっきりと浮かび上がらせている。

 話し終えたスサは口を真一文字に結び、視線を床板へと落としている。囲炉裏に背を向け座っているスサの表情は、アイラからは窺い知ることができない。

 アイラもまた言葉がない。

 スサがナワト国の皇子であった、ということに――当然衝撃はあったが――驚いたからではない。

 やっかいなことに首を突っ込んでしまった、という後悔などでもない。

 ただひとつ、

 哀れな、と思った。

 目の前に座る小さな子供が、実の父に不吉の元凶として命を狙われるという境遇にあるという事実に、憐憫れんびんの情というものを感じずにはおれなかったのであろう。

 涙すら零した。

 初めて出会った夜にスサが言った、「帰れない」という言葉の意味が、鈍い痛みを伴って、ともに臓腑ぞうふに染み入るようであった。同時に、幼い子供にそう言わしめた天の神――アイラはその存在について極めて懐疑的かいぎてきな態度をとってはいるが――とやらの所業に、ひどくいきどおろしいものを感じた。

 (こんな子供の命を奪わなければ生き長らえられない国ならば、いっそ滅んでしまえばいい)

 かける言葉が見つからず、部屋の中は変わらず沈黙で満ちていた。

 先に沈黙を破ったのはスサであった。

 「私が――」

 死ねば父や母は幸せになるのだろうか、という。

 「それが父上や母上の願いならば、父上や母上がそう願うのならばいっそ――」

 「スサ、それ以上は言ってはいけない」

 スサの、およそ激情にまかせて出かけた言葉を、アイラが制止する。

 「あたしはあんたを守る護衛士だ。けど、死にたがる人間を守ることはできない」

 皇家の紋の入った首飾りをスサの手に戻す。

 「その首飾り、恐らくもとは耳飾りだ。耳飾りを慌てて首飾りに仕立てたんだろうね」

 確かに首飾り本体の細工の見事さに比べ、首にかける紐を通す金具の部分は少々不釣合いな出来栄えであった。

 「父親の方はどうだか知らないけど、少なくともあんたの母親は、あんたの死を願ってはいないよ」

 言葉の意味が理解できないのか、スサは手のひらの上の首飾りを見つめながらわずかに首をひねった。

 「耳飾りってのは普通、二対についでひとつだ。きっともう片方の耳飾りは、あんたの母親が持ってるんだろう」

 アイラの言葉にスサは思わず顔をあげる。

 「きっとあんたの母親は、あんたに死んで欲しくなくて、身を切るような思いであんたを手放したんだよ」

 いつかまたひとつになれるように。そんな願いがあるのかも知れない。

 スサは唇を噛み締め、俯いたまま小さな肩を震わせている。

 「必ずあたしが守ってやる。だから、あんたは絶対に生きることを諦めるんじゃない。生きてさえいれば、また母親に会える可能性だってあるんだ」

 アイラがそっと抱きしめる。

 こみ上がってくる感情を抑えきれず、スサは弾かれたように声をあげて泣き出した。

 己の抱える事情を黙っていたことのすまなさや、こみ上げる母への思慕しぼ、そしてなにより、全てを打ち明けてもなお変わらぬアイラの優しさが、スサが被る皇子という衣を剥ぎ取り、スサを生の子供に返してしまったのであろう。

 「あんたの母親も、きっと辛くてたまらないんだ。あんたも、負けるんじゃないよ」

 


 アイラの想像通り、スサと別れた後自室へと戻り一人になったサクヤは、その場に崩れ落ちた。涙が止めどもなく溢れ、両手で口を押さえていなければ、喉が張り裂けそうなほどに泣き叫んでいたであろう。

 宮城を出よ、と告げた後のスサの言葉に、サクヤの心が一体どれほどの痛みを覚えたか、恐らく言語に絶するものがあったに相違ない。

 それほどの痛みを感じながらなお、スサを手放したこの皇妃の心の強さには感嘆すべきものがあるであろう。

 事態をごく客観的に見れば、ただちにスサを宮城から出す必要があったのか、わずかながら疑問が残る。事の真偽を帝に問うた後、しかるべき処置を講じることも、あるいはできたかも知れない。いずれにせよ、サクヤが必要以上にことを急いたことは間違いない。

 が、あのとき大神官バラムはサクヤが投げかけたスサの身に起きる事故に対する問いに、確かに帝がナワト国を救うと言った。スサを、ではなく、ナワト国を、と。

 さらに二人の皇子を失い憔悴しょうすいしきっている帝に対し、さらに追い詰めるような真似は、帝という国を治める重責を担うものの妻――皇妃として、できなかったのであろう。

 さらに今ひとつ、サクヤは死に追われる我が子を見て思ったであろう。例え皇子でなかろうとも、平民として暮らそうとも、生きてさえいれば様々な出会いや喜びに触れ、恋を知り、やがては子を成し親となり、人並みの幸せを歩むことができるはずだと。

 それゆえに、皇妃としての理性より、母としての本能が、スサを宮城から逃がすという選択を急ぎ選ばしめたのかも知れない。

 いずれにせよ、サクヤの行為は帝や国家に対する重大な背信行為であったといえなくもない。スサが生きていれば、ナワト国が滅びるかも知れないのである。

 が、サクヤの決意は固かった。

 たとえ雷罰らいばつに打たれようと、後世に暗愚あんぐとして罵られようと、我が子の死に比べればどれほどのこともない。

 それは皇妃としてではなく、一人の母としての決意だったのであろう。

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