決意と覚悟(1)
第四皇妃サクヤが疑念を抱いたのは、スサが三度目の事故から生還したときであった。
第二皇子イスルギが崩御してから半年が過ぎる頃、スサの身の回りで相次いで事故が起こるようになった。ときにスサ、十歳の頃のことである。
一度目の事故が起きたのは初夏の頃のことであった。
後宮から中庭へと続く階段で足を踏み外し、転げるように階段から落ちた。幸い大事には至らず擦り傷と足首を捻挫する程度で済んだが、二十段はあろうかという石造りの階段である。打ち所が悪ければ、あるいは最悪の事態になっていた可能性も否定できない。足首は捻挫のため大きく腫れ上がっていたが、まず、不幸中の幸いといえるであろう。
「チクっとした」
後日、スサはそのときのことをそう振り返ったが、大方蜂か何かの虫にでも刺されたのだろうとそのときは誰もが深くは考えなかった。
二度目の事故が起きたのは、夏も終わり、葉の色が徐々に赤みを帯び始めたころのことであった。
スサは身体を動かしたり動植物と触れ合うことが好きな子供であった。
その日も中庭に生えている大きな菩提樹に登った。スサはここからの景色が好きであったらしく、天気のいい日にはしばしばこの木に登り、世話係の女官たちをやきもきさせたりした。
登りながらさらに上を目指そうと大人の腕よりも一回りは太いであろう枝に手を伸ばし、身体を引き上げようと力を入れた瞬間、枝が折れ、地面に落下した。地面からの高さは実に四間(約7メートル)であった。
女官たちの悲鳴がこだまする中、頭から真っ逆さまに落ちた。が、このときも幸運なことに、たまたま低い位置に伸びていた枝に引っかかり、落下の衝撃が弱まったばかりか、頭から落ちていたものが体勢が変わり、左腕を下にして地面に激突した。骨折で済んだ。
この日以降、スサは女官たちにきつく言い含められ、木に登ることをやめた。
それにしても、階段を踏み外したことにせよ、木から落下したことにせよ、下手をすれば死んでいてもおかしくない事故であった。捻挫や骨折で済んだことは不幸中の幸いといえなくもないが、スサには何かそういった運の良さというものが、生来備わっているようであった。
とはいえ第四皇妃サクヤは気が気でなかったであろう。二人の皇子の死といい、今度の事故といい、軽い不運が連鎖することはあっても、これほどの――運が良かっただけで――不幸が連鎖することなど果たしてあるものなのであろうか。
スサが二度目の事故にあって以来、なにかとてつもない事態が起ころうとしているのではないか、という不安が、サクヤの胸の底で澱のように積もりつつあった。
その日からサクヤは、折にふれてはスサの無事を願うように、天の神へと祈るようになった。
もし仮に天の神、というものが実在するのであれば、サクヤの切なる願いに対し、あるいはなんらかの救いの手も差し伸べられたのであろうか。
だがそんな願いを無常に打ち砕く出来事が起こった。
それは皇家に伝わる伝統神事、御魂紡ぎの儀式を行っている最中に起こった。
御魂紡ぎの儀式とはナワト皇家で代々執り行われてきた儀式で、都の北に聳えるコンルと呼ばれる神山の中腹にある神泉で、数えで十歳以上になる皇子が神楽と呼ばれる舞を天の神へと捧げるのである。その後、帝から皇子に清められた玉の首飾りが手渡される。そうしてはじめて、皇子がナワト帝の正統なる後継者であることが認められたことになるのである。
現帝が皇子をなしてから三度目の儀式であった。当然喜ぶべきことではない。
悲劇はその神楽を舞うために据えられた、神泉の上に建つ舞台で起こった。
帝や皇后たちが固唾を呑んで見守る中、スサは堂々たる神楽を舞う。それは荘厳で、まるでナワト国に伝わる様々な神話の世界を彷彿とさせるような見事な舞であった。
その場にいた誰もが、その舞に胴が震えるのを感じた。
凛とした空気も、鳴り響く楽の音も、その場にある全てのものがスサのためにあるような、そんな錯覚さえ覚えるほどであった。
その神楽が佳境にさしかかったときのことであった。突如舞台が崩れたのである。辺りは悲鳴に包まれ、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
神泉に据えられた舞台はテツボクと呼ばれる木材で作られている。幹が鉄のように固く、さらに密度が高く重い樹木であるテツボクは腐食に対して極めて強い耐性をもつことから舞台の建材として用いられたが、それが仇になった。不幸なことに、この木材は水の上に浮かべても、浮かばずに沈んでいくのである。
神泉は深い。まして崩れた舞台が瓦礫となって次から次へと沈んでいくなかを浮かび上がろうというのは、ほとんど不可能に近い。事実、このときスサを救出すべく素早く飛び込んだ従者のうち、数人は二度と水面から浮かび上がってくることはなかった。
ところがこのときも、スサには幸運が舞い降りた。一体どういう加減なのか、スサの周りだけ瓦礫がなく、そこだけ穴が開いたように水面がぽっかりと顔を出しているのである。そのぽっかりと口をあけた水面を割って、一枚の木片が浮かび上がった。舞台の一部に使われていたヒノキであった。
水面をゆらゆらと揺れるその木片にスサが引っかかって浮かんでいる。意識を失っているようであった。沈むテツボクに巻き込まれ一旦沈んだヒノキが再び水面に浮かび上がろうとしたとき、偶然にもスサを引っかけて、ともに連れてきたのである。幸運といえば度を越したほどの幸運といえるであろう。
ともかくスサは一命を取り留めたわけだが、サクヤが疑念を抱いたのはこの事故が起きた後のことであった。
最初のきっかけは舞台が崩れスサが瓦礫とともに飛沫の中に消えたときのことである。舞台が崩れ辺りが悲鳴に包まれたとき、驚くべきことに、帝はわずかに目を見開いただけで椅子から身体を浮かすことさえしなかったのである。すでに二人の息子――後継者ともいえる――を失った父が更なる悲劇を前に微動だにすらせずにいられるものなのであろうか。
(何かの間違いであって欲しい)
そんな思いがサクヤの心に生まれたのはこのときからであった。
さらにこの出来事が事故として片付けられたことがサクヤの疑惑をより強いものへと変える後押しをした。
事故、といったが厳密にいえば事故という言葉で済ませることができるほど単純な出来事ではない。安普請の家が崩れたのとはまるで意味が違う。神事を行う舞台が崩れたのである。それも、その神事の真っ最中、皇子が神楽を舞うその只中で。もはや事件といえる。大事件といっても過言ではないであろう。
ところが事故であるとして片付けられたのである。いとも容易く、と形容できるほどにあっさりとした印象があった。それも、特に理由が知らされなかった。
サクヤからすれば到底納得のいくものではなかったであろう。サクヤだけではない。宮中の誰もがその話を訝しみ、首をひねった。本来であれば帝が率先して官吏たちをして事態の究明にあたらしめるべきはずであった。
当然のことであろう。ニニギ、イスルギが相次いで崩御し、さらにスサはわずか一年足らずの間に三度も大きな事故に見舞われているのである。そのいずれもが命を落としていても不思議はなかった。皇太子――厳密にいえばスサはまだ皇太子として即位していないが、いずれ帝になるであろう人間が相次いで命を落とす、あるいはその危険に晒されるなど、尋常のことではない。反逆者の、あるいは隣国の陰謀を疑ったとしても行き過ぎではないであろう。
サクヤは心中穏やかではいられなかったに相違ない。確証はないにせよ、確信にも似た極めて濃厚な疑惑を、夫でもあり、国の要でもある帝に対して抱いているのである。その心中は察するに余りある。一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と、見えざる魔の手は徐々にスサへと近づいている。いつかその小さな肩をつかむであろう。いや、あるいはその手はすでにスサの首の根を押さえているのかもしれない。今までが幸運であっただけで、いや、幸運であり過ぎただけに、明日には誰かの剣がスサの身体を貫いているのかも知れないのである。
サクヤは己の想像に戦慄し身震いさえ覚えた。
(何とかしなければ)
だが一体どれほどのことができるというのであろう。よもや帝に直接問う、などということができるはずもなく、女官に調べさせる、などということも、それ以上にできようはずもない。
二日が過ぎた。それも、無為に過ぎた。気ばかりが焦り、思考はいっこうにまとまろうとしなかった。
三日目、ふと、大神官であるバラムの存在に思い当たった。帝を補佐する大神官は常に帝の相談役であり、最も忠実な臣下である。その大神官の存在を思い出すのに三日もの日時を要するあたりに、サクヤの狼狽が見て取れるであろう。
サクヤは密かに自室にバラムを呼び出し、これまでの経緯と、己の見たものをすべて話し、大神官に問うた。
「なにか知っているのなら、教えてたもれ」
その声音には切羽詰った切実さがありありと込められていた。
頑なに口を閉ざしていた大神官バラムであったが、ついに根負けし、他言しないことを条件にサクヤに六合嘱に現れた滅びの相や、それに伴って国内に広がりつつある渇き、ニニギとイスルギの死について語った。ただし、それらから国を救うためにスサを暗殺しようとしていることは語らなかった。
当然であろう。公にするには帝と自身のやろうとしていることはあまりにも凄惨に過ぎる。
話を聞くサクヤの顔は、血の気が失せたかのように蒼白になり、視線は宙をさ迷っている。
「スサ様がお生まれになる頃から六合の相に変事が見られるようになりました。おそらく、スサ様に関わりがあることなのでしょう。ですが、帝がかならず、その滅びの相からナワト国をお救い下さいますゆえ、ご案じめされますな」
バラムはほとんど全てを語りながら、巧みに真実を歪めた。
サクヤは意を決して己の内に秘めた疑問をぶつけた。
「――帝が……スサを殺そうとしているのでは、あるまいか?」
あまりにも核心を突いた問いであった。叩頭していたため辛うじてその表情をサクヤに見られずにすんだバラムはしかし、サクヤの勘の鋭さに内心ほぞをかむ思いであったであろう。
単純に、サクヤを甘く見ていたのである。話すべきではなかった。ことの一部も漏らすことなく、あくまでしらを切りとおすべきだったのである。
「恐れ多いことでございます。帝はすでに二人の皇子を亡くされています。この上スサ様まで失うわけには参りませぬ。それをまさか、帝御自らスサ様を殺すなど……いかに第三皇妃様であろうとも、いささかお言葉が過ぎましょう」
バラムはことさら慇懃にサクヤの発言をたしなめた。
「そうか……」
サクヤは小さく息を吐く。
「話は以上じゃ。下がってよい」
バラムは深く一礼すると、その場を辞去した。




