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流浪の防人  作者: まいたけ
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淵源(3)

 やがてスサが生まれた。帝である父よりも、幾分母の面影が濃い。

 母であるサクヤは第四皇妃であったが、第三皇妃であるミヤビが子を生していないため、スサが第三皇子として育てられた。

 六合嘱りくごうしょくに現れた相はその後も変わることなく凶兆を示し続けたが、「直ちに国が滅ぶことなどあり得ない」という帝の言葉通り、ナワト国は常と変わらず平和そのものであった。それどころか、スサが生まれて以来、宮城きゅうじょうには柔らかい陽光に包まれたような、なんともこころよい空気が流れているのである。

 スサは不思議な子供であった。

 ナワト国に生きるものにとって帝とその子供である皇子や皇女は天の神の子供であり、いわば神そのものであった。それは宮城で帝や皇子に仕える官吏かんり――皇族の世話をする官吏は全て女官にょかんである――にとっても同じことであり、当然普通の子供と同じように育てられることなどあり得ない。皇子や皇女――とくに皇子――は、いわば真綿で包みこみ、決して人目にさらすことなくその真綿の内側で、熟練の職工の手によって丹念に磨き上げられていく宝石のようなものなのである。

 それほど大切に磨き上げられていく宝石であれば、当然取り扱いにも細心の注意が必要になる。ほんのわずかな曇りすら許されず、ましてや傷をつけようものならたちまち宮城から放逐ほうちくされてしまうであろう。

 皇族に仕える、ということは、宮城に仕える全ての女官にとって至上の悦びであるとともに、非常な緊張をいるものでもあった。

 ところがスサだけは他の皇族と違った。

 いずれの女官もみな口をそろえて「いつもの刺すような緊張感を感じない」というのである。

 悪い意味で捉えれば、スサには皇族としての、そして皇子としての威厳や風格がない、という意味にもとることができる。が、そもそもよわいわずかな子供に威厳や風格などがあろうはずもない。

 威厳や風格といったものは生まれながらに備わっているものではなく、経験やその他の積み重ねによってのみ備えるもので、もし子供が大人に対しそういったものを感ぜしめるのであるとすれば、それは大人がその子供の背景にあるものに対し感じているだけのことであろう。

 つまりこの場合の、「緊張感を感じない」というのは、女官たちに無用の緊張を与えない、それどころか不思議な安心感を与える柔らかみや暖かさといったものがある、といった風に捉えるのが正解であろう。暖かい陽だまりの中で感じる穏やかで心地よい感覚に、あるいは似ているかもしれない。

 例えばこんなことがあった。

 スサが四歳になった頃、どこからどう入り込んだのか、一匹の犬が宮城に迷い込んだのである。

 帝の住まう神聖なる宮城を、よもや血で汚すわけにもいかず、下官たちがそれを捕らえようと必死になって追いかけるのだがどうにも捕らえることができない。犬はそのうち後宮へと迷い込んだ。その日スサは数人の女官たちとともに後宮の庭を散歩していたのだが、折悪おりあしくその犬と行き合ってしまったのである。

 犬は牙をきだしにし、威嚇いかくするように低いうなり声をあげている。

 女官たちが犬を寄せつけまいとスサの前に立ち両手を大きく広げる。

 「誰か! 誰かこちらへ!」

 大きな声で人を呼ぶ。

 万が一にもスサに傷を負わせるわけにはいかない。とにかく建物の中へと避難させるべく女官がスサを促したとき、スサは目の前に立つ女官たちの隙間をするりと抜けると唸り声を上げる犬の前へと飛び出したのである。

 牙を剥きひとつ大きく咆えた後、犬は躍りかかるようにスサへと飛びかかった。自身の身体よりも大きな犬に飛びつかれ、スサは後方へとのけ反るように倒れた。

 場に居合わせた全ての女官が声にならない悲鳴をあげる。なかには衝撃のあまり卒倒そっとうするものまでいた。ところが飛びかかった犬はスサの身体にその鋭い牙を突き立てるどころか、その顔を舐めて嬉しそうにじゃれついているのである。

 女官たちはみな呆気あっけにとられた。

 確かに先ほどまでは眉間にしわを寄せ、牙を剥きだしにして威嚇するように低い唸り声を上げていたはずが、今は昔から飼い慣らされていたかのようにスサに身体を寄せ、甘えたような声をあげている。スサもまた、嬉しそうにその犬を撫でているのである。

 その後、結局この犬は駆けつけた下官たちに捕らえられ、宮城の外へと逃がされたのだが、スサの持つ不思議な空気が犬の興奮を静め、その牙を引かせたのだろうと女官たちの間ではささやかれたりもした。スサのもつ、言葉にして言い表わしがたい雰囲気、というものを示すひとつの逸話いつわといえよう。

 この頃までのナワト国は常と変わりなく全くの平和そのものであった。スサもすくすくと育っている。ただ、六合嘱に現れる相もまた、これまでとなんら変わることのない結果を示し続けていることが、帝と大神官の心にほんのわずかな影を落としていた。

 とはいえこの間、帝にとって暗いことばかりがあったわけではなかった。ほんの少し不安を感じているとはいえ、それを忘れさせる出来事もまたいくつかあった。その最たるもののひとつが、第三皇妃であるミヤビの懐妊かいにんであろう。

 第三皇妃ミヤビは三代目の帝から枝分かれした血筋で、ナワト国でも名高い美女であった。帝に嫁いだのは十四の時分で、以来十年、子宝に恵まれてこなかったが、ついに子を授かったのである。ミヤビの懐妊は帝の心を少なからず慰めた。ただ、皮肉なことに、このことが後に大きな事件を引き起こすことになる。が、今はまだ触れない。

 ともかく国はまだ安穏あんのんとした空気に包まれていたのである。

 そんなナワト国に変化の兆しが現れたのはそれから二年後、スサが六歳になった頃のことであった。


 それは誰も気付かない、足音すらしない些細な変化であった。

 雨が減った。

 雨が減ることによって作物の実りが悪くなり、自然、税として徴収ちょうしゅうされている穀物の収穫量も減る。

 渇きを示す相は出ていない。

 初めのうちは誰もが「悪いときもある」と考えていた。が、その後も作物の収穫量は右肩下がりになった。

 三年が経つ頃になると、帝も大神官もこの現象が、六合嘱りくごうしょくに現れた相に関係するものであろうとの見解を持った。大神官バラムは帝に対し、スサの魂を天の神に返すべきだと奏上した。

 「このままでは、いずれこの地を大いなる渇きが襲いましょう。そうなってからでは全てが手遅れ。帝、どうかご決断を」

 帝は小さく首を振る。

 「早計そうけいしっする」

 渇きはまだ大きなものではない。次の収穫期には好転することもあり得る。そうである以上、スサの魂を天に返す、というのは早すぎる、というのである。

 この時点での帝の心中は、まだそれほど大きな葛藤かっとうを抱えるには至っていなかった。というよりも、強いて六合嘱の結果から目を背けようとしている節があった。

 当然のことであろう。

 帝自身、ナワト国が徐々に乾き始めているという現実に、六合嘱の結果を重ねて見ているであろうことは相違ないが、帝もまた一人の親である以上、我が子を殺すという選択など、容易に受け入れることができようはずもない。六合嘱に現れた相と、乾きつつある国土との因果関係を認めてしまえばナワト国を統べる帝として、スサを殺さざるを得なくなってしまうのである。

 「雨乞いの祈祷きとうをせよ」

 それをもって渇きを潤せ、という。

 それが気休めに過ぎないことは帝自身が一番理解していた。すでに祈祷は行っているのである。重ねて行ったところで効果が得られようはずもない。ただ、それ以外にできることはないのである。スサの魂を天に返す、という方法以外には。

 この頃の帝にはまだ父としての選択が許されるだけの余裕があった。が、ほどなくこの余裕を失わしめる事件が起こった。


 皇太子である第一皇子、ニニギが崩御ほうぎょしたのである。



 ニニギの崩御――死亡――は衝撃とともにナワト国を駆け抜けた。国葬こくそうは盛大に執り行われ、国は一年間喪に服することとなった。喪が明けるまで一切の祭事さいじは行われず、飲酒と獣肉を口にすることが禁じられた。この間いくつかの酒や獣肉を取り扱う店の経営がおおいに傾いたが、それらの損害は国が補填ほてんすることとなった。

 民は皇太子であるニニギの死を深く哀しんだが、同時にその死の理由を想像し、様々な憶測が市中を飛び交った。そのどれもが到底現実味を帯びていない、根も葉もない噂ばかりであった。


 宮城での騒ぎは市中の比ではなかった。

 ニニギは病死であった。

 帝、あるいは皇太子であろうと人間である以上――ナワト国では神と信じられているが――病死、というのは当然起こりうることである。にもかかわらずなぜそれほどの騒ぎになったのであろうか。

 理由はニニギの死因であった。

 確かにニニギの生涯をわずか二十年で終えさせた原因そのものは病であった。ただ、それが一体何の病であったのか、ニニギが死んだ後になっても、皆目かいもく見当もつかないのである。

 はじめ、ニニギは小さなせきをするようになった。風邪の初期のような軽い咳が続いたが、皇太子としての公務に追われる日々に、それを気にする余裕はなかった。宮医みやい――皇族に仕える医師――の診察でも単なる風邪だという見立てであった。が、次第に咳をする度に胸が痛むようになった。宮医の処方する薬を飲んでも症状はいっこうに改善する気配もない。やがて咳とともに血痰けったんが出るようになった。そうなる頃には絶えず微熱が続き、身体は常に気だるさをともなうようになった。一切の食欲を失い、水を口に含むことすらしなくなった。そうして最後には身体を動かすこともままならず、せ衰え、骨と皮だけになって死んだのである。

 様々な憶測が宮城内でも飛び交った。

 あるものは誰かが謀反むほんを起こそうと毒を盛ったのだといきどおり、またあるものは何か新種の伝染病ではないかとおののき、また別の誰かはナワト国にあだなす怨霊の祟りだとまことしやかに噂したりもした。

 ナワト国の人間にとって帝は神であり、その子供もまた神である、ということについてはすでに触れた。この思想は民だけではなく貴族連中や帝自身、あるいは皇族全体も信じている。である以上、謀反ということについては少々荒唐無稽こうとうむけいに過ぎるが、それでもこういった噂が飛び交ったあたりに、当時の宮城内の騒然とした雰囲気を感ぜしめるものがあるであろう。

 当然大神官バラムは帝に奏上そうじょうした。

 「もはや疑う余地はございません。あのような病、六合嘱が示す不吉がもたらしたものとしか考えられません」

 帝は返す言葉を見つけることができない。

 「帝!」

 この期に及んで帝が、帝として大神官であるバラムの奏上を拒否すべき理由は見当たらない。ただ父として、どうしてもその奏上を受け入れることができないのである。

 ほんの小さな――理由ともいえないほどの――理由があった。

 ニニギは生まれつき身体が丈夫にできてはいなかったのである。幼い頃から頻繁ひんぱんに病を患い、将来を不安にさせることもしばしばであった。成長するにしたがって徐々に丈夫にはなっていったが、それでも小さな風邪はしょっちゅうわずらっていた。

 「――であれば、ニニギの病と六合嘱の示した不吉との関連を断定することはできぬ」

 これだけの事態が出来しゅったいしてなおニニギの虚弱を盾に奏上をはねつける帝の姿に、大神官ははっきりと肩を落とした。

 (帝はお優しすぎる)

 そうであろう。

 国の大事を左右するであろう事態に際し、断固として非情の決断を下すことができないというこの帝の性質は、平時でこそ美質であったが、有事には悪質とまでいかずとも、国を傾ける大きな要素になりうる。

 (ナワト国は沈むのかもしれない)

 そう思っていてもなお、バラムは帝に対する忠心を捨てることができなかった。

 「どうか……ご決断を」

 そういって帝の前を辞去じきょした。


 そんな帝をして大神官の奏上をだくなさしめる出来事が起こった。

 ニニギが崩御して約一年。ニニギ亡き後皇太子を継いだ第二皇子、イスルギが崩御したのである。

 ナワト国の歴史が始まって以来、皇太子が相次いで崩御する、などという事態は一度たりとも起きたことがない。まさに大凶事であった。

 ニニギと同じ病であった。

 このときの帝の絶望は想像に難くない。二人の皇子を失いなお、三人目の皇子を自らの意思で殺さねばならないのである。どのような心境であるか、筆舌に尽くしてもなお足りることはないであろう。

 ついに帝は決意した。

 幾度目か数えることもできなくなった大神官の奏上に諾と頷いた帝の顔は憔悴しょうすいしきっており、上品であった瓜実顔うりざねがおは見る影もないほどに痩せ細っていた。

 「スサの魂を、天に返すことによってけがれをはらえ」

 どこの国の雲上人うんじょうびとにもおよそ共通するであろう装飾性に富んだ言葉も、そのきらびやかな飾りをすべて剥いでしまえば、要は殺してしまえ、ということである。

 悲しみを懸命に押し殺していたのであろう。その声はわずかに震えていた。

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