淵源(2)
本来であれば都は宮城の後宮で、下官たちに囲まれて何不自由のない暮らしを送っているはずのスサが、なぜこのような場所にいて、あまつさえ命を狙われているのであろうか。その理由を解き明かすためにはいささか時間を遡る必要がある。
どの程度遡るのか。
この物語の主人公がアイラとスサである以上、本来であれば彼女、あるいは彼の視点からこの物語は語られるべきであろう。しかし、全ての因果はスサがこの世に生を受けることが決まった日、つまり、ナワト帝の第四皇妃であるサクヤが懐妊したそのときから始まった。であれば、多少迂遠であろうと、いったん両人の視点から離れ、その時点まで時間を遡る必要があるであろう。
バラムという官吏がいる。ナワト帝に仕える大神官である。
神官という官吏の中から最も信頼の置ける一人を帝自身が相談役として大神官に任命する。
ナワト国の政治は神官と呼ばれる官吏たちが六合の相――天と地、さらに東西南北を併せて六合という――から諸事あらゆることの吉凶を占う六合嘱という儀式を行い、大神官がそれらを統合、考慮し、帝に奏上する。それをもとに帝が政策の舵取りを行っている。
ナワト国は帝を頂点とする専制国家であった。帝こそがナワト国そのものである。
しかし国家統治における正統性の唯一の担い手である君主が、統治の全権能を自己のものとし,自由に政治権力を行使するのが本来の専制政治であり、大神官の奏上をもとに政策が決まっていくというあたり、通常の専制政治とは異なる。
あるいは実質的な国政の運営者は大神官であるということもできるであろう。もっとも、いかに大神官といえど帝の決に対し異を唱えることは基本的には許されてはいないが。
その大神官――バラムが神官たちから六合の相に異常が見られるとの報告を受けた。
見たこともない相だという。
過去に見られた六合の相は全て書に記され保管されており、常にそれらと比較しながら現れる相を読む。それら過去のどの例にも見られない相なのである。
バラムは神官たちにもう一度六合の相を見るように命じたが、やはり結果は同様のものであった。
バラムが六合嘱を行った。
確かに異相であった。
この年で六十歳をむかえ、十二の頃から神官として宮城に仕えてきたバラムでさえ見たことがない。が、かつて似たようなものを見た記憶がかすかにだが、ある。
バラムはあらゆる文献を調べさせた。
それこそ文字がかすれてほとんど判読すらできないような古文書までもを引っ張り出し、神官たちが住まう神学寮は昼夜問わずの大騒ぎとなったほどであった。
やがて一枚の、それも、とても記録とはいえないような覚書のようなものから類似の相に関する記述が見つかった。
文字がかすんでいて判読には非常な困難が伴ったが、読み進めるうちに大神官は自分の見た相がとんでもない凶事を告げていることを知った。
それは今までに見たどんな災厄を意味する相とも明らかに違う。
いわば滅びの相とでもいうべきであろうか。
新しく降り立つ高貴なる血――つまり、サクヤがその身に宿した御子が、やがて不吉を呼びナワト国を滅ぼすというのである。
バラムは激しく狼狽した。
これまでも凶事を告げる相は幾度かあったが、神の子である帝の御子が、よもや不吉を呼び込むなど、ありうべからざることなのである。
(何かの間違いだ)
バラムは再び六合嘱を行ったが、やはり結果は変わらない。都合三度の六合嘱を執り行なったが現れる相はいずれもナワト国がなくなることを予言していた。
こうなった以上、バラムとしては己の見たものを奏上するよりない。
ナワト国の帝は神として民から崇敬――あるいは盲信といえるかもしれない――されている。その理由を知るためにナワト国の建国史に記されている、建国神話についてわずかに触れる。
建国神話にいわく、初め大地は平和であり、実り多く豊かな大地で民は何不自由なく暮らしていたらしい。
ある日、嵐とともに海から巨大な鬼が現れた。大地は穢れ、作物は腐り、風は吹くたびに死と病を運び、民は塗炭の苦しみに喘いだという。
そんな民を哀れんだ天の神は光とともに一人の若者を大地に使わした。
若者は光り輝く一本の剣と、十人の武人たちとともに大地を荒らしてまわる鬼の前に立ちはだかった。
千度の昼と千度の夜を繰り返し、若者の剣がついに鬼の心臓を貫いた。しかし吹き上げる血が大地を染め、穢れはさらに深くなった。風が吹き荒れ、雲が天を覆い、大地には一条の光も射さなくなった。そのとき、若者の剣が光を放ち、光線が天を貫いた。次の瞬間天を覆う雲が割れ、その隙間から光の柱が彼方に立つのが見えた。
若者は吹きすさぶ嵐を乗り越え光の柱の下へと立った。そして手にした剣を大地へと突きたてると、光の柱は瞬く間に全土を覆い、全ての穢れを祓い去った。大地は蘇り、作物は豊かな実りを取り戻したのである。
こうして鬼を退治し穢れを祓った若者は、二度と同じ災禍が民に訪れることのないように、この地に国を打ちたて、国名をナワト国とし、帝として国を治め、民に永遠の平和と安寧を約束したのである。
無論これらは神話である。国の威信と帝の意義を重からしむための創作であり、現実とは少々異なる。が、それには触れない。
ともかくバラムは己が六合嘱で見たもの全てを包み隠さず帝に奏上したのである。
「ありえぬ」
バラムからの奏上を聞いた後、帝は努めて冷静に言った。人払いのされた謁見の間に響く声は冷ややかでありながら、どこか清らかさを感じさせるような響きであった。
帝は、もう一度六合嘱をせよ、という。
「怖れながら申し上げます」
と、バラムは深く叩頭しながら経緯を説明する。六合嘱ならばすでに三度行った。いずれも同じ相を示している以上、その結果に疑いの余地はないという。
品のよい瓜実顔がわずかに歪んだ。
「神の子たる予の子もまた同じく神の子。その神の子が、よもやそのような穢れに取り付かれて生まれてくることなどありえぬ。それとも――」
帝の声はあくまで静かなまま、しかしその唇は激しい怒りに震えている。「そなたは、神の子たる予の血に穢れが取り付いていると、そう申すのか」
帝に仕えて二十数年。バラムはこれほど怒りを露にした帝をいまだかつて見たことがない。
長いナワト国の歴史の中で、諫言が原因で首を落とされた大神官がかつてどれほどいたのであろうか。が、帝より死を賜ることを怖れ、怯懦のままに正道を曲げてしまえば国などいとも容易く傾いてしまうであろう。
――死を怖れては大神官など務まらぬ。
「怖れながら帝――」
その声は死をも辞さない――真剣と向かい合う武人にも似た覚悟が滲んでいる。
「生まれてくる御子は確かに神の子である帝の御子。ですがそれも半分のことと存じ上げます」
「……何が言いたい……?」
バラムはわずかに顔をあげ、上目遣いに帝を見る。
「神の子たる帝の血が穢れに取り付かれることなどありえませぬ。また、その傍系血族たる第一皇妃様から第三皇妃様方もまた然り。……ですが、第四皇妃であるサクヤ様は――」
そこまで口にしたとき、帝は遮るように声を荒らげた。
「予の選んだ妃が穢れていると申すのか!」
怒号であった。声はまるで雷鳴のように謁見の間に殷々《いんいん》と響いた。思わず発してしまったのであろう。帝はすぐに声を荒らげた己を恥じるように咳払いをし、静かな声で「そなたの考えを聞こう」と言った。
帝が声を荒らげたのには理由があった。
ナワト国の第四皇妃はその名をサクヤというが、サクヤは傍系血族である他の妃たちとは違い、そもそもは北方の国、ノルテ王国の国王の娘――つまり王女であった。
当時の名をユーラといった。ノルテ王国の言葉で『純白の――』という意味らしい。
ナワト国でいうところの、いわゆる神の血を引いていない、ということになる。
ナワト国ではその血の純粋さを守るため、妃は必ず遠縁の傍系血族の中から選ばれてきた。――事実、帝の第一皇妃から第三皇妃はみな帝の兄弟姉妹の娘である――それが何故他国の王女が神の子たるナワト帝の妃になったのであろうか。
それは帝がノルテ王国の建国を祝う祝典に招かれた際のことであった。
賓客をもてなすための酒食とともに、ノルテ王国に伝わる歌や舞が披露された。その舞の踊り手の中にユーラがいた。
ノルテ王や他の王たちと席を並べてその舞を見ていた帝であったが、神の子たるナワト国の帝は、例え他国の王の前であっても決して素顔を晒すことはなく、その顔の前には常に薄い布が一枚揺れている。その一枚の薄布の向こう側で華麗に舞う一人の娘に、帝は心を奪われたのである。それは、思わず手に持っていた杯を取り落としそうになるほどであった。
帝はノルテ王に対し、王女を娶りたいと――実際にはそれほど直截な言葉ではないが――言った。
大神官を含む多くの官吏が前例にないことを理由に強く反対したが、帝はこれを黙殺した。
ノルテ王にしてみれば、実りの少ない北の大地に国を構える自国にとって、豊かな実りのあるナワト国との関係の良し悪しは、万が一のとき死活問題になりかねないと判断したのであろう。ノルテ王は帝の申し出を受け入れた。こうしてユーラは名をナワト国風にサクヤと改め――名を改めさせることが大神官らにとって精一杯の抵抗であった――帝の第四皇妃としてナワト国の土を踏むことになったのである。
バラムはそのサクヤの血こそ、胎内に宿った御子が穢れに取り付かれた原因であろうという。
「サクヤを……予の妃を殺せというのか?」
「そうは申しませぬ。第四皇妃様にはなんら罪はございません。ただ……お生まれになるであろう御子だけが……穢れに取り付かれてしまっただけなのです。ならば――」
それ以上口にすることは憚られたのであろう。バラムは叩頭したまま黙り込んでしまった。
「よい。申してみよ」
帝が上品な瓜実顔を青くしたまま先を促す。
「――ならば、お生まれになった御子に対し、直ちにその御魂を天の神にお返しになるべきかと……」
要は生まれたばかりの赤子を直ちに殺せというのである。本能ではなく理性でこれを行おうという辺り、これほど恐ろしい思考を持つ生き物は古今人間だけであろう。
帝は口に手を当てたまま押し黙っている。バラムにとってもそれ以上言うべきことはない。あとは帝の言葉を待つのみであった。帝がたった一言「是」と言えば、サクヤの胎内に宿った命――つまりスサは、産まれた瞬間にその生を終えることになる。
帝にとって、かつてこれほど決断を悩ませる選択はなかったであろう。まだ何事も起こっていない、ただ占いの結果が凶兆を示したというだけの理由で――もっともナワト国にとってはただの占いではなく、国の行方を左右する重要な指針であるが――まだ生まれてもいない我が子を生かすか殺すか決めなければならないのである。このときの帝の苦悩は言語に絶するものがあったに相違ない。
もっとも、仮に六合嘱に現れた相が現実のものとなれば、最悪の場合、ナワト国そのものがなくなる可能性すらあるのである。帝という国の要、あるいは国そのものを背負っているともいえる存在にとっておよそ選択の余地はないといえる。
ところが帝の選択した答えは意外なものであった。すぐには殺さない、というのである。
「まだ御子は生まれてもおらぬ。その時分から生死を決められるなどあまりに哀れ。六合嘱で見た相が滅びの相であったとしても、直ちに滅ぶことなどあり得まい」
なおも帝は言葉を継ぐ。
「御子は従来どおり予の、神の子として育てる。その上で、重ねて六合嘱を行い、凶兆がなお変わらず、それが世に現れるようであれば、そのときこそ御子の魂を救国の英雄として天に帰せしめようぞ」
いわば折衷案であった。
バラムにすれば納得のいく決定ではなかったであろう。なにしろこれまでのナワト国の歴史上、六合嘱の結果が外れたことなど――文献上とはいえ――一度たりともなかったのである。が、帝がこうと決した以上、それに異を唱えることはできない。
「承知いたしました。お生まれになる御子の健やかなることを祈念致します」
そう言って、バラムは六合嘱に現れた相の内容は帝と自身以外の誰もに伏せ、決して妃たちにも漏らさぬことを念押しし、自室へと引き取った。帝もまた、ひとつ大きな溜め息をつくと、謁見の間を後にした。
こうしてまだ母の胎内にいるスサは当面の危機――当人は知る由もないが――を危うく回避したのである。




