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流浪の防人  作者: まいたけ
12/42

淵源(1)

 アイラが目を覚ましたのはそれから三日後の、昼前のことであった。

 窓から射しこむ光に刺激され目を開けたとき、最後に聞いた下生したばえをき分ける音が、どうやら野犬や狼のそれではなかったことを知った。

 もしもあのときの音がそれら獣たちの近づいてくる音であったならば、今頃アイラとスサはわずかの肉片と骨だけを残し、この世からいなくなっていたことであろう。

 頭のすぐ左側にスサの寝顔がある。

 状況は理解できないが、ともかくスサが無事であったことにほっと息をついた。

 アイラが目覚めるまでの間、スサは実に献身的に看病をしていた。慣れない手つきで布を桶の水に浸し、絞った布で額の汗を拭う。さすがに身体の汗を拭うことはできなかったが。

 薬湯やくとうも飲ませた。ときに上手く飲ませることができず、アイラの寝巻きの襟元えりもとを緑色に染めたりもした。

 食事もほとんどらず不眠不休で看病した疲れが出たのであろう。今はアイラの枕の横ですうすうと寝息をたてている。

 「目が覚めたか」

 低くくぐもった声が飛び込んできた。

 声のした方に目をやると熊のような男が囲炉裏の前に座し、背中を向けたまま鍋を火にかけている。ちょうど鍋に味噌を入れるところであった。

 上体を起こそうとしたとき、腹部に痛みが走った。

 「無理はせんほうがいい。回復するまではまだしばらくかかる」

 あと五日は安静にしていろ、という。

 「その坊主、ずっと飲まず食わずな上にろくに眠りもせんでお前さんを看病してたぞ。見かけによらずたいしたもんだ」

 そう言われ、アイラはスサに目をやり穏やかに微笑んだ。

 と、スサが目を覚ました。

 のろのろと身体を起こし目をこする。

 いつの間にか眠ってしまっていたことに気付き、慌てたようにアイラの額に乗せられた布に手を伸ばす。そこではじめてアイラの目が開いていることに気付いた。

 目と目が合う。

 すぐには事態が飲み込めなかったのであろう。一瞬目を丸くしたが、すぐにその目に安堵の色が浮かんだ。

 「アイラ、平気か? 痛くないか?」

 スサの言い様に思わず笑みがこぼれる。

 「大丈夫。あんた、ずっと看病してくれてたんだって? ありがとう」

 「わたしは何もしておらぬ。そこの――」

 と、囲炉裏の前で鍋をかき回している男に目をやる。

 「オルサが助けてくれたのじゃ」

 男はオルサというらしい。

 アイラが礼を言うと「ああ」と言っただけで、振り向きもせずにそのまま鍋をかき回し続けている。

 一体に無口な男らしく、この三日間アイラの看護を黙々とこなすだけで、スサもほとんど言葉を交わしていないという。スサが名を訊ねたときも「オルサだ」と言ったきり会話が続くこともなかった。

 ただ、死にかけていたアイラとスサを助けたり、アイラの看病をするスサを捨て置かずに見守っていた辺り、悪い人間ではなさそうであった。

 オルサは鍋をかき回す手を止めると立ち上がり、のそりと大きな身体を揺すりながら近づいてきたかと思うと、黙ってアイラの脇にしゃがんだ。そうしてアイラを助け起こし布団の上に座らせる。

 オルサはアイラの背に丸めた座布団を差し挟むと、アイラを壁にもたせ掛けた。こうすることで腹部に重い負担をかけることなく座すことができ、腹部の傷への影響を減らせるのである。こういった細かい心遣いも、オルサの人間性における芯のような部分を現しているといえよう。

 オルサは再び囲炉裏にかけられた鍋の前に腰を下ろすと、脇に置いていたわんを取り上げ鍋の中身を椀へと注いだ。

 椀を持った手をスサのほうへと伸ばす。

 スサは受け取った椀とはしをアイラへと渡した。椀の中身は猪肉ししにくを入った味噌で煮た汁で、いかにも熱そうな湯気を立てている。

 ふうふうと息を吹きかけ汁をすすり、肉を口へと運ぶ。

 丁寧に下処理をし、じっくり時間かけて煮込んだのであろう。ほとんど臭みもなく、肉は驚くほど柔らかかった。それが味噌の甘みと相まっていっそう風味よく、病み上がりの身でありながらまるで重たさを感じなかった。

 スサもまた、三日ぶりの食事になる味噌鍋に舌鼓を打っている。

 「オルサさん、ここはどの辺りなんでしょうか?」

 アイラは箸を止めオルサに訊ねる。

 都を離れ国境の町がある西へ向かう予定であったが、風抜き山を貫いて流れる川は、南西に向かって流れていた。どれだけ流されたのか、場合によってはずいぶん離れてしまっている可能性もあった。

 「シーナンから一里(約4キロメートル弱)ほど北にある山の小屋だ」

 シーナンとはタルクの南西にある小さな町である。オルサはその北にある山の中腹にある小屋で一人で生活をしている。

 それにしても山中を流れる川に落ちたはずの我が身が、何故今なお山中にあるのか。

 話を聞くと、オルサはぶっきらぼうに、しかし丁寧に経緯いきさつを語り始めた。

 その語るところによれば、オルサは普段は人里離れたこの山小屋で狩りなどをして暮らしており、ときおり山を降りて町へ行くことがあるという。

 その日も所用でシーナンにおもむいた。その帰りに、連れていた馬に水をやるために山道を外れて川に行ったところで川原に倒れているアイラとスサを発見したという。

 初めは死体だと思ったらしい。

 「野犬に食い荒らされるのも哀れだと思ってな」

 せめて埋めてやろうと思い近づいたところ、どうやらまだ死んでいない。少年に外傷は見当たらなかったが、女は腹から血を流し、おまけに毒に犯されている様子もあった。

 「以前は医者をしてた」

 小屋には薬も置いてある。解毒治療は時間との勝負である。町に戻るより小屋に行くほうが早いと考えたらしい。

 ともあれそのおかげでアイラとスサはこうして生きながらえることができた。

 「本当に、ありがとうございます」

 アイラはもう一度礼を言った。

 それにしても何故オルサは人里はなれた山中で隠れ住むようにしているのであろう。医者をしていたのであれば、恐らく以前は町に暮らしていたであろうが、そのあたりの事情は語ろうとしなかった。

 アイラもまたそれ以上は訊ねない。

 ひとつには、人には人の事情がある、という思いもあったが、今ひとつ、他に気になることがあるからであった。

 風抜き山の吊り橋で襲い掛かってきた二人組の男たちのことであった。

 あの男たちは一体何者だったのであろうか。明らかにその前に襲ってきた男たち――五人のあからさまなならず者たちとは明らかに違う、訓練された武人たち。あれほどの武人たちがわざわざスサのような小さな子供を殺すためだけに雇われたというのであろうか。どうにも合点がいかないのである。

 スサに目をやる。

 目が合う。

 アイラの表情の意味に気付いたのであろう。スサは伏せるようにして目を逸らした。

 アイラは猪肉をひとつ口に放り込み、汁をすすった。



 食事を終えた。

 オルサは土間に降りると流しに向かい、使い終えた鍋と椀、箸を手早く洗っていく。

 スサは囲炉裏の側に座している。

 先ほど目を合わせてから、二人の間には何やら微妙な空気が流れている。

 スサは俯いたまま、揺れる炎でも見つめているのかどうか、ただそのあおい瞳がなにか物言いたげな様子であった。

 オルサが洗い物を終えたとき、アイラが口を開いた。

 「オルサさん。大変申し訳ないのですが、少しだけ席を外していただけませんか? 少し、この子と大事な話があるんです」

 無論ここはオルサの小屋で、そんなことを頼める筋合いではない。が、どうしてもスサと話しておかなければならないことがあった。

 オルサもまたアイラの表情に感じるものがあったのであろう。

 「ちょうど昨日仕掛けておいた罠の確認をしに行くつもりだ」

 夕暮れまでには戻る、と言い残し小屋を出て行った。

 小屋の中にはアイラとスサだけが残された。

 「さて」と先に口を開いたのはアイラであった。

 「頭のいいあんたのことだ。もう何の話か分かっているね」

 どこまでも穏やかな口調である。

 スサは背を向けたまま黙って頷いた。

 しばらくそのまま動くことをしなかったが、やがて意を決したのか、立ち上がると静かに側により、アイラの脇に端座たんざした。

 ふところに手を入れると、どこから取り出したのか、小さな緑色の石がついた首飾りをアイラへと差し出した。

 アイラはそれを受け取ると目の前にかざし、しげしげと見つめる。

 「こりゃあ翠玉すいぎょく(エメラルド)じゃないかどうしてこんな高価な――」

 そこまで言いかけたとき、アイラははっと息をのんだ。

 一体どのように細工を施したのか、首飾りの本体である翠玉の中にありうべからざるものを見つけたのである。

 「これは……皇家の紋……」

 スサに目を移す。

 スサは姿勢を崩さずに、真っ直ぐにアイラを見つめたまま口を開いた。

 「私の名はスサ……」

 透き通るような凛とした声音である。

 「ナワト帝が第三子、スサノナワトノミコトじゃ」

 ナワト国の第三皇子である、という。

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